芸妓の間
夕刻から降り出した夏の雨が、夜更けには土砂のように強まり、古い下宿屋の天井板を穿ちはじめた。築四十年を越す木造二階建て、家主は隠居の白髪婆ひとり、住人は皆、男子学生ばかりである。
二階の端の六畳間に寝ていた尾形は、ふと目を覚ました。
枕元に、ぽた、ぽたと、何かが落ちている。雨漏りだと思った。部屋は闇に沈んで、音の正体が分からない。ぼんやりと音を聞くうちに、はっきりと目覚めてしまった尾形は寝返りを打ち、手を伸ばして濡れた畳に触れた。その若者らしい肩甲骨を、冷えた細いものがすっと撫でた。息を呑んだが、声は出なかった。
身体が動かぬ。
ただ、肩甲骨から冷たく細く刺して、背肉の奥をなぞる感触だけが、鮮明にあった。それはまるで、氷の針か、人の指のように思われた。
布団で身を固くした尾形を囲むように、部屋の四隅から、かすかな女の囁きが湧き上がる。
笑っているのか、泣いているのか。
十人、二十人、それ以上の女たちの囁き声が、壁裏から、板の節目から、畳の隙間から滲み出し、さわさわ、さわさわと輪を成している。囁きはしゃがれた鳥のさえずりのようで、何を言うのか判然としない。
まぶたが乾いた眼球に張り付き、目を閉じることができなかった。尾形は爪先までこわばり、脳奥で増幅する囁き声に耐えた。
汗が噴き出た。
耳のすぐ横で蚊が飛ぶような囁きを聞いた次の刹那、窓の外に揺れる人影を見た。顔は見えない。油と線香の匂いが漂い、肩甲骨のあたりにまたあれが触れた。今度は、押し込まれるような圧を覚えた。
肉を割り、骨の間に鋭く挿し込む細い指の束。
背中の汗が冷え、尾形は叫んだ。叫んだつもりだった。
けれど、喉はつまり、尾形の叫び声はざわめく囁きの波に飲まれ、ただ唇を震わせただけだった。尾形は溺れた男のように空気を求め、喘いだ。
一刻過ぎてざわめきは去り、雨漏りの音がまた枕元に戻ったが、尾形は起き上がれなかった。肩甲骨が熱をもって痛み、そこに、女たちが何かのしるしを埋めつけていた。それが夢なのかどうか、尾形には分からなかった。
翌朝、厠に立った。隠毛が白かった。
隣室の学生に夜半の怪を話すと、学生は、尾形の部屋に寄宿していた芸妓たちが戦争の頃にまとめて姿を消したという伝聞を語った。
尾形は黙っていた。
シャツを脱いだ背中を鏡に映すと、両の肩甲骨の間に、くっきりと細い指の跡が数本、青い痣になって残っていた。それは消えなかった。秋になっても、冬になっても消えず、雨の夜には必ず熱を孕んだ。
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怪談嚢 耳のおく かわほり @kawaholy
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