怪談嚢 耳のおく
かわほり
冷蔵庫が鳴るんです
蝉時雨の止まぬ八月某日。昼下がりのに焼けた瓦屋根の下で、某家の主婦が語った。
「冷蔵庫が、鳴るんです。『ううう……』って。機械の動作音かと思いましたが、ちがいます。まるで、生き物がうなるような。腹を空かせた誰かが中に居るような。いつも夜の三時です」
と、首筋の汗を拭きながら語ったのは、白い割烹着を着て、薄鼠色の小皿のような眼をした、やや神経質そうな婦人である。
数日前の晩、スーパーで半額になっていた鯖の切り身を購入したことに始まる。冷蔵庫の下段に入れておいたその切り身が、翌朝には乾き切り、一切れ一切れがいっせいに「こちらを見ていた」という。
「切り身なのに、眼があるんです。しっかりした、魚の眼がひとつずつ。しかも、きちんと、わたしの方を見て。冷蔵庫を開けたときに、はっきり、目が合ったんです。思い出すと指の先が痺れてくる」
以来、台所に立つたびに、冷蔵庫の中から濡れた音が聞こえるようになった。「ぬちゃ」「ずる」「ふう……」と、まるで何かが中で呼吸をしているかのように。その音に気づくと彼女は手を止めて、耳をそばだてずにはいられなかった。夫に相談しても「冷蔵庫の故障だ」と断じるか、「暑さでおかしくなったのか」と笑うばかりだった。
「だから、一人で確かめました。夜中、三時ちょうどに起きて、台所の明かりをつけて、冷蔵庫を開けました」
深夜白々と照らされた台所で、主婦の眼前に、いつの間にか増えた鯖の切り身がびっしりと並んで冷蔵庫の棚を埋め、そのすべてに、ひとつずつ眼があった。乾いた切り身の、そのひとつひとつの濡れた眼が、彼女の手の動きを追って動いていた。ふと、冷蔵庫の中からむせ返るような潮の匂いがして、彼女は体温を奪われた。冷蔵庫の中へ引き込まれる感覚に襲われ、危うく扉を閉めた。
その後、彼女は冷蔵庫の電源を抜き、切り身を燃やして処分した。だが、それからというもの、冷蔵庫の扉からは何かの水分がにじみ出し、中から誰かが覗いている気配が、薄く漂うようになった。
冷蔵庫を捨てて新しいものに替えればよさそうなものだが、それができない。冷蔵庫の周囲には常にぬるく湿った風と、わずかに生臭い匂いが漂っている。
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