第1話 南風の道

戦王暦958年 エリオンの季(春)


 南から吹く風が、どこか懐かしいぬくもりを帯びて頬を撫でた。葉擦れの囁きと、湿った土の匂いが混じる。道は細く、背の高い木々が両側から迫っていた。風が枝葉を揺らし、まるでこの森だけの旋律を口笛のように響かせている。


 旅はもう何日目だったか。俺はできるだけ人の多い街道を避け、外套のフードを深く被って顔を隠していた。


(……ふう)


 遠い昔のことを、ひどく遠くから眺めている気分になる。過去の戦い。胸に刻まれた“印”――死ぬまで俺を苛むそれ。俺が望むのはただひとつ、迫り来る混乱から遠く離れた、静かな土地だ。誰にも見つからない場所で、平穏に暮らすこと。


 そんな思考に沈み込んでいた時だった。


 ――悲鳴。獣の唸り声。


 反射的に足が動いた。考えるより早く、俺は駆け出していた。


 木々の隙間を抜けた先、険しい小道の途中で荷車が止まっている。赤毛の若い男――体格がいい。彼は必死に、栗色の髪の女……おそらく妻だろう、その女性を守っていた。


 森の静けさが、そこで断ち切られる。


 心臓が速く打つ。頭に浮かぶのはひとつだけ――守る。


 俺は古い剣を抜いた。本来なら、もう二度と握ることはないと思っていた剣だ。柄に指が触れた瞬間、鋼の感触が懐かしく掌に戻ってくる。


 近づくほど状況が見えた。男の胸には引っ掻き傷。相手は四体――黒い鱗を纏った狼のような獣で、鋭い牙が光っている。風は止まらない。枝が鳴り、木々がざわめく。


 俺は獣へ躍りかかった。


 一閃。


 上から叩き落とす斬撃が、まず一体の喉を裂いた。倒れた獣の温い血が飛ぶ。


  残りの二体が一斉に俺へ飛びかかってきた。


 俺は剣を盾にして受け、体勢を崩さないまま――斬り上げる。


 二体目の首が落ちた。


 間髪入れず、もう一体が正面から跳ぶ。喉元を狙う軌道。


 俺は踏み込み、刃を突き立てた。


 三体目は胸を貫かれ、短い呻き声を残して崩れ落ちる。


 俺は身を翻し、残る最後の一体へ向き直った――が。


 その獣の口元には、短剣が突き立てられていた。


 俺は袖で刃の血を拭い、剣を鞘に納める。


「俺の名はヴァルドール・ドレイヴン。……大丈夫か?」


 二人は顔を見合わせ、それから大きく息を吐いて立ち上がった。男は黒いベストに白いシャツ――血で汚れている。髪型は整っていて、戦士には見えない。女は淡い青の素朴なワンピース、白い縫い目が入っている。栗色の髪。彼女は彼より少し背が低かった。


「……大丈夫です。助けてくれて、ありがとうございます」


 男が名乗る。


「俺はマイノル・ケル。こっちは妻のエミラ・ケル。……あなたに何かお礼を」


 エミラが丁寧に頭を下げ、あたたかな笑みを向けた。


 俺は少しだけ肩の力を抜き、近くの岩に腰を下ろした。


「実は、辺鄙な村を探している。最近できたばかりの集落があると聞いてな……そこで探索役として落ち着こうと思っている。……心当たりは?」


「あります。あの場所はトゥフナーって言います。私たちもそこへ向かっているんです。市場を開く予定で」


 トゥフナー……。


 俺は鞄から小瓶を取り出し、マイノルへ差し出した。


「これを傷に塗れ。治癒の軟膏だ。……トゥフナーか。どうやら道は合っているらしい」


「ありがとう、ヴァルドール。……もし良ければ、俺たちと一緒に旅をしないか? また何かあっても守ってもらえるし、君も早く着ける」


 俺は少し黙った。状況を測る。


 この道に二人を置いてはいけない。調べた限り、ここは獣が多い。だが唯一、盗賊が出ない道でもある。


「……分かった。行こう。まだ日が高い」


 夕方の南風は、やはりどこか温かい。北の土地――春でも冷気が残るあの地とは違う。


 マイノルとエミラと過ごす道中は、心地よかった。二人は明るく、よく笑う。都市を離れたのは貴族派閥の軋轢のせいらしい。南のこの村は、学者たちの集落で、膨大なマナを吐き出す火山の魔術研究をしている――二人はそう教えてくれた。


 人と並んで歩く温もりを、俺はいつから忘れていたのだろう。


「……トゥフナーは、新しい始まりに向いた場所かもしれないな」


 あれを――置いてきたものすべてを――遠くにできるなら。


(いつか、師に謝れる日が来るのだろうか……)


 思考を遮るように、森の終わりが近づいた。木々の梢が開け、視界の先に谷が広がる。遠くには巨大な火山。その周囲を濃い森が取り巻いていた。


「……あれが、森エルフの“大暗森”か。こうして見ると……妙に惹かれるな」


 マイノルの目は、子どものように輝いていた。


「ドゥルララン火山……本当に大きい。まさか自分の目で見られるなんて……」


 エミラも息を呑む。


 だが、俺の視線は火山よりも――谷の手前にある小さな村へ吸い寄せられた。


 人々がまだ家を建てている。石畳の通りを行き交う人の気配。土のままの道もあり、職人たちが石を敷いて整えていた。ここには「作っている最中」の熱がある。


 村へ入ると、俺たちは広場の中央にある白い建物へ向かった。


「ここまで助かった。君たちと旅ができて良かったよ。……また会うだろう。俺は村の長に会って、仕事を申し出る」


「君ならすぐ雇ってもらえるさ、友よ。俺も落ち着いたら商人ギルドに申請に行く。……その時はビールを奢る。じゃあな、ヴァルドール」


「気をつけてくださいね、ヴァルドール。……またすぐ会いましょう」


 俺は白い建物の中へ入った。


 室内は木の香りがする。装飾の絵画が壁に掛けられ、天井にはマナ灯が淡く揺れている。入ってすぐ目に入ったのは、酒場のようなカウンターだった。


 そこに立っていたのは、若い女性。栗色の髪、尖った耳――ハーフエルフだろう。青いズボンに茶色のブーツ、白いブラウスには茶の縫い目。


 彼女は俺を見るなり、温かく微笑んだ。


「いらっしゃいませ」


 俺は軽く頷き、カウンターへ歩み寄った。


「挨拶を。……村の賢者に会いたい。探索者として力を貸したいんだ。名はヴァルドール・ドレイヴン。北の地の出身で、ウザウグも旅してきた。役に立てるはずだ」


 ハーフエルフの受付嬢は、穏やかな笑みを崩さずに俺を見た。だが、次の言葉を口にしかけた瞬間――背後の部屋の扉が開いた。


 黒く長い髪。澄んだ青い瞳。


 その女は、ハーフエルフの隣へ進み出ると、手にした書類の束を軽く揺らした。


「ねえ、イリエナ。お父様が言ってたわ。これ、研究棚に収めておいてって」


 そして俺に気づく。


「あら……失礼。お父様に客人がいたなんて知らなかったわ」


 彼女は微笑んだ。


 俺は反射的に、浅く礼をする。


「……失礼いたします」


 ハーフエルフ――イリエナが口を開く。


「マレナ様、この方は――賢者であるご令父に、事前の面会の約がなくて……ですが……」


 俺は二人の間に割り込むように言った。


「突然押しかけて申し訳ない。お会いできて光栄です、レディ。俺はヴァルドール・ドレイヴン。ここに身を置き、力を貸したい」


 マレナは俺をじっと見つめた。


 鋭い――だが同時に、どこか儚さもある。堂々とした気配と、壊れそうな気配が同居していた。灰色のチュニックが、その青い瞳と不思議に対照的だった。


「……いいわ。こちらへ。父――賢者ドリエンのところへ案内する」


「名は?」


「マレナ・アルドゥル」


 イリエナが慌てて声を上げる。


「マレナ様……ご令父は、理由もなく中断されるのを嫌います。まずは私が取り次いで――」


 だがマレナは、ただ一瞥を向けただけだった。


 イリエナはその瞬間、言葉を飲み込み、黙る。


 俺は居心地の悪さを感じて言った。


「迷惑をかけるつもりはない。近くに宿があるなら、出直す」


「必要ないわ」


 マレナは歩きながら、ふと俺を横目で見た。


「……定住したい旅人、ということね。……既婚者?」


「違う。ここ数年はずっと一人で旅をしている。……だが、そろそろ“新しい場所”に留まるべきだと思った」


 彼女は小さく笑った。


 やがて大きな木の扉の前へ立つと、マレナは躊躇なくそれに手を置いた。


「父上。面会を求める来訪者です。……もしかすると、あなたが探していた“それ”かもしれません」


 扉の奥。


 広い部屋の中央に、一人の男がいた。


 長い白髭。青いローブに灰色の外套。手には木製のパイプ。


 顔を上げたその眼差しは、刺すように鋭く、揺らぎがない。


「……娘よ。出ていなさい。彼とは二人で話す」


 マレナの目が見開かれた。


「……承知しました、父上。失礼します」


 彼女は礼をして下がった。


 部屋は図書室のようだった。高い書架が並び、数え切れぬほどの書物と羊皮紙が積まれている。


 男――ドリエンが言う。


「茶がいいか。それとも、良い葡萄酒か」


「……茶を、お願いします」


 老人は自ら茶を注ぎ、俺の手元へ差し出した。


 その動きには、妙な“重さ”があった。


「よし。では聞こう。……お前の“物語”は何だ」


 そして、静かに告げる。


「この指輪は、嘘を見抜く」


 言葉が空気に落ち、警告のように響いた。


 俺は理解した。この男の前で過去を隠すことはできない。隠そうとする行為そのものが無意味だ。


 俺は茶を一口飲んだ。熱が喉を通り、体の奥へ落ちていく。


 ――どこから話すべきか。


 長い間、逃げ続けてきたものを。


 沈黙を見て、ドリエンが低く言う。


「難しいのは分かる。だがここで話すことは、決して外へ漏らさぬと誓おう。私は――信じられる者が必要だ」


「私がここで研究していることは、誰にも知られていない。デウスの神権すらだ。ここに聖域サンクタムはない。いるのは皆、学徒と賢者だけ」


 俺は息を吐いた。


「……分かりました、閣下。言葉で説明するより……見せたほうが早い」


 俺は胸当てを外し、鎖帷子を外し、さらにシャツを脱いだ。


 胸に刻まれた印が露わになる。


 ――エッドレムの僧の印。


 消えることのない烙印。女神エシアの紋章が、俺の胸に深く刻み込まれている。


 ドリエンの目が大きく開かれた。


 彼の手から、茶の杯が落ちる。


 乾いた音が床に響いた。


「……まさか。生き残りがいたのか」


 震えるような声。


「ありえない……私は何年も探した。ここへ来る前からずっとだ。……どうして……」


 彼は俺を見据え、問いを突きつける。


「お前、いくつだ」


「……百二十五」


 俺の声は、自分でも驚くほど淡々としていた。


「俺は最後の僧たちの一人だった。本来なら、生きているはずがない。……だが俺は、恐れた。兄弟たちと共に消える資格がなかった」


 ドリエンはゆっくりと息を吸う。


「百二十五年……寺院が滅びた後も祝福が続いているとは……驚異だ。だが、どうしてそうなった。……寺院は、どうして滅びた」


 俺は再び息を吐いた。


「……一人の“兄弟”がいた。闇に染まり、師トゥルファリウスに刃を向けた」


「守ろうとした女神は……僧たちを“消した”。だが俺は、その襲撃の中で逃げようとした。……俺は、女神にふさわしくなかった」


 ドリエンは、しばらく俺を見つめたまま言った。


「……あるいは、別の目的があったのかもしれんな。神々の視座は、我ら人のそれより遥かに広い」


 そして、煙を吐くように言う。


「で――探索者になりたい、というわけか」


「……はい」


 俺は唇を引き結んだ。


「もし“あの男”に俺の居場所を知られれば……この村は終わります」


 ドリエンは即答した。


「歓迎しよう。お前がいようがいまいが、未来がどう転ぶかなど誰にも分からぬ」


 彼は静かに笑った。


「ようこそ、トゥフナーへ。――賢者の探索者よ」


「村の外れに家を与える。大暗森へもすぐ出られる場所だ。心配はいらん。……小さいが、居心地のよい小屋だ」

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