第3話 「袋、いるって言ったよね!」戦争

 袋って、たかが袋なのに、どうしてあんなに感情を連れてくるんだろう。


 配属三日目。私はすでに「事件は起きるもの」という現場の真理を、体のどこかで受け入れ始めていた。

 ポイント、再発行、後付け――二日間だけで、心の中のマニュアルが一冊増えた気がする。増えた気がするだけで、まだ薄い。


 今日の私はセミセルフ担当だった。セミセルフは、店員がスキャンして、支払いはお客様が端末で行うタイプ。つまり私は流れを作る側で、最後のボタンを押すのはお客様。ここで大事なのは、正確さと、テンポと、あと気配り――と言いたいところだけど、現実はもっと単純で、「列を伸ばさない」それだけで、だいぶ平和が保たれる。


 セミセルフ六台が並ぶエリア。店員側のスキャン台の前に列ができて、支払い端末側に人が散る。流れが良いときは、川みたいにさらさら流れる。悪いときは、粘土みたいに詰まる。


 私は今、スキャン台の前で、次のお客様のカゴを受け取ったところだった。


 来たのは、年配の男性。六十代くらい。帽子を被って、目線はまっすぐ前。表情が読めないタイプ。こういう人は二パターンある。めちゃくちゃ穏やかか、めちゃくちゃ不機嫌か。


「いらっしゃいませ。ポイントカードは――」


 反応なし。耳が遠いのか、単に無視なのか、判断できない。でもポイントカードがあるならここで出すだろう。進むしかない。私は研修で習った通りに、先にスキャンを始めた。


 ピッ。ピッ。


 そして袋。


「袋はご利用になりますか?」


 私がいつものテンポで聞く。返事がない。男性はカゴの中を見ている。見てるというか、見てるふりをして、どこか遠くに意識が飛んでいるような顔。


 聞こえてないのかな。


 私は少し声量を上げた。


「袋は、ご利用になりますか?」


 返事がない。視線も動かない。……え、もしかして、ガン無視? いや、でもこの無視の仕方は、無視というより別の世界にいる感じだ。たぶん耳の方だ。たぶん。


 私は一瞬迷った。袋が要るか要らないか。判断を間違えると面倒になるやつ。


 でも列が後ろに伸びている。待っている人の気配が背中に刺さる。ここで止まると、私の時間だけじゃなく、お客様の時間も列の人の時間も全部止まる。


 よし。いらないと判断。袋なしで進める。必要なら支払い後に追加で買ってもらえばいい。袋は一枚数円だ。数円で済む……はず。


 ピッ、ピッ。会計を進めて、合計を伝えて、支払い端末へ案内する。


「お支払いはこちらでお願いいたします」


 男性は無言で端末側へ移動した。動きは普通。耳が遠いだけ……なのかな。


 支払いが終わって、レシートが出る。私は商品を手早くまとめて、カゴを返した。


「ありがとうございました」


 男性が商品を抱えて去ろうとした――その瞬間だった。


「おい!」


 声がでかい。さっきまで無音だった人の声が、突然スピーカーになる。私は反射で背筋が伸びた。


「袋! 袋いるって言ったよな!? なんで入ってねぇんだ!」


 来た。袋戦争。しかもいるって言ったよね型。最悪のやつ。


 私は一瞬、頭が真っ白になった。


 え、言った? 言ってない。聞いた。二回聞いた。反応なかった。――でも相手は「言ったつもり」。つまり、本人の中では言ってる。ここから先は、「言った」「言ってない」の泥沼が始まる。私はその泥沼に、長靴なしで飛び込んでしまった感じがした。


「す、すみません! 袋、確認したんですけど――」


 言い訳の長文が出そうになる。やばい。やばい。怒りに火種を追加するパターンだ。


「確認したって、俺は言ったんだよ! いるって! 聞こえねぇのか!」


 「聞こえねぇのか」って、あなたが――いや、言っちゃだめ。言っちゃだめ。言いたいけど言っちゃだめ。


 私は焦って、袋の置き場に手を伸ばした。袋を渡せば終わる。終わるはず。袋は数円。数円で済む。済む……?


「袋は、すぐお渡しできます! 申し訳ありません、こちらで――」


「金の問題じゃねぇ! いるって言ったのに、勝手にいらねぇって決めつけたんだろ!」


 決めつけと言われた瞬間、胸がぎゅっとなる。私は決めつけた。列が伸びていたから。決めつけたというか、判断した。判断は仕事。でも相手にとっては決めつけ。仕事の判断が、相手の尊厳を踏んだみたいに見える。すごく嫌だ。


 後ろの列がざわつく。空気が硬くなる。私は袋を持ったまま固まった。袋ってこんなに重かったっけ。


 そのとき――。


「お待たせしました」


 声が入ってきた。静かで、温度が一定で、でもなぜか「そこから先は私が持ちます。って感じの声。


 五十嵐成美主任だった。


 主任は、私と男性の間に、すっと立った。走らない。焦らない。立つ位置が絶妙で、私は助け舟に乗せられた気分になった。


「ご不快にさせてしまって申し訳ありません。袋が必要だったんですね」


 まず受け取る。怒りの火に油を注がない。私の焦りも一緒に受け取って、場の熱を落とす。


「そうだよ! 俺は言った!」


「はい。ここで一度、状況だけ整理しますね」


 主任は、私とお客様に状況を確認し、まとめた。


「葛西さんが袋の確認を二回して、返事が聞き取れなかった。お客様は「いる」とお伝えしたつもりだった。ここまでは事実として起きています」


 誰も責めない言い方で、双方の事実を並べる。私は胸の奥が少しほどけた。「決めつけた」って言われた痛みが、「判断ミス」くらいのサイズに戻る。


 男性はまだ眉間に皺を寄せたままだけど、怒鳴り声の勢いが弱くなっている。怒りは、整理されると少し小さくなる。


「袋はこちらで、すぐお渡しできます。追加料金がかかりますが――」


「金じゃないって言ってんだろ!」


 男性がまた強くなる。やっぱりそこなんだ。数円の話じゃない。面子。自分が軽く扱われた感じが嫌なんだ。


 主任は、そこで表情を変えないまま、少しだけ声を柔らかくした。


「はい。なので、こうします。袋代はこちらで負担します」


 えっ。私は心の中で叫んだ。いいの? ルールは? 公平性は? ここで特別扱い?


 でも主任は、私の視線に気づいたみたいに、ほんの一瞬だけ私を見て、目で言った。――大丈夫。


 男性が言葉を止めた。


「……は?」


「袋が必要だったのに、気持ちよくお渡しできなかった。そこは店側の不手際として、こちらで負担します。ただ、次回から確実にするために、お願いが一つあります」


 ここで線引きをする。甘やかしじゃない。今だけの着地と、次への仕組みをセットにして出す。


「袋が必要なときは、はい、って一言だけで大丈夫です。もし声が出しづらいときは、うなずくだけでもいいです。こちらも確認しやすくなります」


 男性はまだ完全に納得した顔ではない。でも、怒りの行き先が変わっている。店員への攻撃から、次に困らない方法へ。怒りは、次へ向けると毒が薄まる。


「……俺、言ったんだけどな」


「はい。言ったつもりだった。そこ、今日のポイントです。人間、心の中で言うと、声が外に出ないことがあるので」


 主任が真顔で言った。


 ――心の中で言うと、声が外に出ない。


 いや、それ当たり前では? でも、言い方が妙に哲学っぽい。しかも真顔。私は危うく吹き出しそうになって、唇を噛んだ。ここで笑ったら死ぬ。社会的に死ぬ。


 男性は一瞬、眉間の皺を残したまま、口の端だけが動いた。笑う寸前の顔。怒りの顔が、笑いの顔に近づいた瞬間って、なんか不思議だ。


「……なんだそれ」


「人は、思ったことを全部伝えられる生き物じゃないので」


 主任、今日も悟りすぎている。いや、悟りというか、変な方向に優しい。無自覚に。


 主任は私の手にある袋をそっと取った。


「袋はこちらです。よろしければ、私が入れますね」


 男性が黙ってうなずいた。うなずいた! 

 主任の「次回のためのお願い」が、即座に効いている。私は心の中で拍手した。今日も心の手のひらが赤い。


 主任が手早く袋を広げて、商品を入れる。やり方が丁寧なのに速い。袋を扱う所作まで、なんか落ち着いている。


 渡し終えると、主任は軽く頭を下げた。


「お待たせしました。ご不快にさせてしまって申し訳ありませんでした。次は、もっと気持ちよくお渡しします」


 男性は袋を受け取り、少しだけ視線を逸らした。


「……まあ、いいわ」


 あ。今日も出た。「まあ、いいわ」。スーパーの平和の合図。完璧な和解じゃないけど、戦争が終わる合図。


 男性が去っていく。列の空気もゆるむ。後ろのお客様が、何事もなかったみたいに次のカゴを前に出す。現場は、切り替えが早い。人間の怒りも、買い物も。


 私は、足の力が抜けそうになりながら、主任の横で小さく息を吐いた。


「……主任……助かりました……」


「うん。夢乃ちゃん、よく聞いた。二回も確認してる」


 褒められた。今、褒められた。私は嬉しいのに、反省も同時に来る。判断の難しさ。焦りの怖さ。


「でも、私……勝手に『いらない』って判断しちゃって……」


「判断は仕事だよ」


 主任はさらっと言った。言い方が、私の罪悪感を拾い上げるみたいに軽い。


「ただ、セルフの多い店はね、返事がないと『いらない』が選ばれがち。だから、返事がないときの確認の仕方を一つ増やすといい」


「確認の仕方……?」


 主任は真顔で、袋を一枚持ち上げた。


「袋を見せる。見せて、指さして、『袋入りますか?』って言う。言葉が届かないときは、物を使う」


 なるほど。言葉が届かないなら、視覚で届ける。現場の知恵。これが若葉店のクセか。クセというか、生存術。


 私はうなずきながら、ふと気づいた。


「……主任、さっき袋代、店で負担するって言いましたけど……ルール的に大丈夫なんですか?」


 主任は、袋を見つめて、少しだけ考える顔をした。考える顔をしたまま、真顔で言った。


「袋代は数円。でも怒りは高くつく」


「え?」


「今日は怒りが高くつきそうだった。だから、先に下ろした方がいい」


 私は、笑っていいのか、感心すべきなのか、判断に迷った。迷った末に、両方やった。


「主任、それ、名言っぽいけど……袋の話ですよ?」


「袋の話だよ」


 真顔で言うな。やはり主任は悟っている。私はとうとう笑ってしまった。笑って、少しだけ救われた。さっきまで喉を締めていた硬い空気が、ふっと抜けた。


 主任の悟りは、やっぱり換気扇だ。回ってることに気づかないのに、確実に場の空気を変える。怒りの火に水をかけるんじゃなくて、酸素を減らして鎮火させる感じ。


 私は袋の在庫を補充しながら、心の中でまたメモを取った。


 返事がないときは、物を使う。

 判断は仕事。罪悪感は置いていく。

 そして、怒りは高い。袋は安い。


 ……最後のやつは、たぶん覚えておく。いつか自分が重くなったとき、袋みたいに軽く扱ってもらえるように。


 セミセルフの呼び出し音が鳴る。次のお客様。次の小さな事件の予感。私は顔を作って、声を出す。


「いらっしゃいませ。袋はご利用になりますか?」


 今度は、袋を見せながら。指さしながら。ちゃんと、届くように。

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悟りの成美さんは、今日もサービスカウンターを回す 小鳥遊 @yume00114

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