2 田村康成

 康成の母、幸代が認知症になったのは五年前。彼女が八十歳の時だった。夜中にパジャマ姿で徘徊しているところを警察に保護され、康成の元に連絡が来た。それで認知症が発覚した。

 康成には兄と弟がいて、三人で母をどうするか話し合った。

 だが間の悪いことに康成の兄は、双子の息子がちょうど大学に入学したところで、弟の息子も私立高校の受験を来年に控えていた。要するにお金がなかった。

 結局、独身の康成が実家に戻り、訪問介護を利用しつつ母の介護をすることになった。

 これが地獄の始まりだった。

 初めのうちはまだよかった。時々、物忘れや徘徊が出る程度で、母の意識はしっかりしていたから。

 だが三年も経つ頃には、母は息子の顔すら忘れてしまった。

 言動や行動も、幼い子供のようになった。気に入らないことがあると癇癪を起こして泣き喚き、康成を殴った。痩せこけた老婆なのに力だけは妙に強い。おかげで康成の体には、あちこち痣ができていた。

 この頃から生活は急速に荒れていった。

 玄関や廊下には出し忘れたゴミ袋が重なり、台所のシンクはカップ麺や弁当のゴミであふれていた。もはや片付ける気力すら湧いてこない。

 いちばん辛かったのは母の徘徊癖だった。

 母は毎晩のように寝床を抜け出し、街をさまよい歩いた。康成はそのたびに舌打ちをして、母を探しに行った。

 母はたいてい、どこかの公園の滑り台の下にいた。ドーム型の滑り台の下で、膝を抱えて座っていた。そして康成が穴の中を覗き込むと、「ばあっ」とおどけた様子で驚かしてくる。

 小さな子供がやればかわいい悪戯だが、母はもう八十を過ぎている。皺だらけで骨の浮いた老婆が暗がりから飛び出してくるのは、たとえ母であっても怖いし腹が立つ。怒鳴りつけそうになるのを必死にこらえながら、母の手を引いて家に帰った。

 年下の現場監督にネチネチ嫌味を言われ、家では認知症の母の介護をして、浅い眠りにつく。そんな灰色の日々が、康成の生活のすべてだった。


 あの日、康成が死んだ日。家に帰ると、玄関の戸が開けっ放しになっていた。家の中を探したが、母の姿はない。またどこかに行ってしまったのだ。

 うだるような暑さの中、康成はあちこちの公園を探し回った。母を見つけたのは、それから二時間ほど経った後だった。

 隣町にある公園のドーム型滑り台の下で、三角座りをしている母の姿があった。

 康成が穴を覗くと、母は「ばあっ」と言って飛び出してきた。

 康成は母の手を引いて公園を出た。仕事場で後輩から馬鹿にされたこともあって苛々していた。自然と母の手首を掴む力が強くなる。

 周囲はすっかり暗くなっていた。

 少し歩いたところで、母が立ち止まった。

「ミカンのジュース、買おうね」

 母は道路脇に立つ自販機のボタンを押している。お金を入れていないので自販機は反応しない。

「家にたくさんあるだろ」

 母は徘徊の後、きまってミカンの缶ジュースを買いたがる。だが飲みたいわけではないらしい。家に帰ると缶を放り投げ、買ったことすら忘れている。おかげで居間の床には未開封の缶ジュースが、何本も放置されている。

「家のを飲んだら買ってやるよ。ほら、帰るぞ」

 しかし母は康成の話を聞いていない。憑りつかれたように、骨ばった指先でボタンを何度も押している。

 母の手首を強めに引っ張る。それなのに母は動こうとしない。

 頭に血がのぼった。

 母の胸ぐらを掴んで拳を振り上げる。

「いい加減に──」

 驚いた顔の母と目が合った。それで、なんとか思いとどまった。

 白く濁った母の目と、震える自分の拳を見比べる。康成はうなだれながらため息をついた。

 ポケットから小銭を取り出して、自販機のボタンを叩く。

 缶を手に取った母は嬉しそうに笑った。自販機の光が、彼女の顔に刻まれた醜い皺を際立たせる。

「帰ろうか」

 康成は母の手首を掴むと、またとぼとぼと歩き始めた。母が、夕焼け小焼けの歌をハミングする。

 もう限界だと思った。


 家に帰ってシャワーを浴びていると、心臓が焼けつくような痛みに襲われた。

 立っていることができず、洗い場にうずくまった。風呂場は蒸し暑く、背中にシャワーの湯がかかっているのに、冷や汗が止まらない。

 視界が暗くなって、意識が遠のいていくのがわかる。

 じきに死ぬのだと察した。だが恐怖はなかった。むしろほっとしていた。

 やっと解放される。


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