リバーサイドホテル三途
三三九度
1 笠松麻美
三途の川とは、死者があの世に旅立つ時に渡る川のことである。
現世の人間にはまったく知られていないが、三途の川のほとりには大きなホテルが立っている。
その名もリバーサイドホテル三途。なんとも安直なネーミングだと、いつも思う。
老舗旅館を思わせる、どっしりとした入母屋造りで、屋根には美しい千鳥破風の装飾が施されている。
けれど内装は洋風だ。
ロビーの白い大理石は光を反射して輝き、三途の川を見渡せるラウンジでは、落ち着いたクラシックが流れている。
死んだ人間は七日間このホテルに滞在した後、三途の川を渡って、あの世へと旅立ってゆく。
笠松麻美の仕事は、彼らが穏やかな気持ちであの世に行けるようサポートすることだ。死んだことを受け入れられない者をなだめたり、ホテルの利用客の無茶な要望に応えたりと、仕事内容は多岐にわたる。
麻美がこのホテルで働き始めたのは十年前。冥途の案内人に声をかけられたことがきっかけだった。彼女は二十五歳で死に、渡し船で三途の川を渡った。ごろごろした小石が転がる岸には、濃い霧が立ち込めていた。
「笠松麻美様ですね」
喪服姿の男が麻美に近づいてきた。二十代にも四十代にも見える、不思議な顔立ちの男で、手にタブレットのようなものを持っていた。
「二十五年間、お疲れ様でした。私は冥途案内人の森野と申します。笠松様をあの世までご案内するのが私の仕事です。…まあ、案内と言っても、すぐそこなのですが」
森野は掌で霧の向こうを示した。
霧の中に、三メートルほどの大きな扉が立っているのが見えた。開きっぱなしの両開きの扉からは、濃い霧がもうもうと湧き出ている。どうやら周囲の景色が霧で沈んでいるのは、あれが原因らしい。
「あちらの扉に入っていただければ、笠松様の魂は成仏されます。痛みはありませんのでご心配なく。成仏後は、新たな命となって再び現世に生を受ける、という形になります」
「来世ってことですか。ちなみに何に生まれ変わるか、教えてもらうことはできますか」
「笠松様の場合はクスサンですね」
「クスサンってあれですか。北海道にいるクソでかい蛾ですか」
「文庫本サイズのクソでかい蛾ですね」
「嫌です。来世は、金持ちの犬好きに飼われている犬、と決めているんです」
「と言われましても…。笠松様は現世であまり徳を積まれていないようなので、犬は不可能かと」
「何でもするので、クスサンだけは勘弁してください」
麻美はごねにごねた。巨大な蛾として一生を終えるなんて絶対に嫌だ。
結局、森野が根負けする形となった。
「では、リバーサイドホテル三途で働くというのはどうでしょう。あちらで百年ほど働いて徳を積めば、笠松様のご希望は叶えられます」
「百年…」
「金持ちの、という部分がネックになっているようですね。犬好きに飼われている犬、でしたら半分の五十年で済むかと」
「じゃあそれで」
そういうわけで麻美はこのホテルで働いている。
その日やって来たのは、田村康成という四十五歳の男だった。
色褪せた作業着に、まばらに生えた無精髭。目の下には黒い隈ができている。ずいぶんくたびれた様子だ。
麻美はロビーに設置されていた鏡で自分の姿をチェックした。肩の上で切りそろえた髪に、シワひとつない黒いスーツ。ここには老いるという概念がないので、麻美の姿は十年前とまったく変わっていない。
「田村康成様、ようこそいらっしゃいました。お部屋までご案内いたします」
受付で手続きを終えた康成に、麻美は頭を下げた。エレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。
「当ホテルの説明は受けられましたか」
「ああ、まあ。初七日の間は自由に過ごしていいって」
康成はぼんやりと階数表示を眺めながら答えた。
まだ状況を飲みこめていないのか、それとも、自分が死んだことなどどうでもいいのか、麻美には図りかねた。
「田村様のお部屋は505号室です。レストランは最上階と地下一階にございますので──」
「あの。母親は、田村幸代はここに来ていますか」
「少々お待ちください」
麻美はタブレットを開いて康成の顧客情報を確認した。画面には康成の生い立ちや、これまでの人生が、こと細かに書かれている。
康成は自宅の居間で亡くなったらしい。死因は心筋梗塞。彼は建築現場で働く傍ら、認知症の母の介護を一人で行っていた。おそらく残された母のことを心配しているのだろう。
田村幸代の欄には、存命と書かれていた。
「こちらにはいらっしゃっていませんね。もしご心配でしたら、霊体となって現世の様子を確認しに行くこともできますが、いかがなさいますか」
「ああ」と気のない言葉が返ってくる。
軽やかな音とともに、エレベーターの扉が開いた。
康成は立ち止まったまま階数表示を見上げている。しばらくの沈黙の後、彼は首を振った。
「いいです。もし来たら教えてください」
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