盲目でも、カメラはにぎれますか?

夏目りんたろう

色がおかしくなった朝

ガラスが割れるときは、いつだって一瞬に見える。本当はダメージの蓄積なのに。最初は、よくある疲れだと思っていた。最近部活も忙しいし、勉強もあるし、そんなところだろうと楽観視していた。だが、そんな小さな歪みが、着実に里佳子の日常を蝕んでいった。あの日も、そんな日常が繰り返されるはずだった。いつもと同じ朝食を食べて、学校に行くだけのはずだった。だけど、あの日だけは少し違っていた。


スマホのアラームが鳴り、里佳子は重い瞼をこじ開け、なんとか朝を迎えた。


「……朝か」


「里佳子ー! 起きなさい! 朝ごはん冷めちゃうよ!」


母のフローリングを揺るがす威勢のいい声が、二階の角部屋にある里佳子の部屋までこだまする。


「はーい! わかってるって!」


「なんでこういちいちでかい声で言うかなぁ……」


母の声があまりにも大きいので、つい口からこぼれてしまう。二度寝したい気分もそこそこに、いそいそと制服に着替えた。そして小窓から、白飛びしてしまいそうなくらいの朝日の差し込む廊下を小走りで駆け抜け、一階のリビングへと滑り込んだ。


「お、里佳子、おはよう」


「おはよ、父さん」


大抵、里佳子が起きてくる頃には、父は食事を終えて新聞を読んでいる。母親とは真逆の物静かな父である。


スクールバッグを横に置き、里佳子はテーブルについた。里佳子はこのテーブルを気に入っている。白い木でできた腰ほどの高さの、少し大きめのテーブルだ。滑らかですべすべした手触りな上、写真も映えるのだ。そして里佳子が一番気に入っているのは、母の小さな花の入った花瓶である。母の趣味らしく、季節ごとに彩り豊かな花がテーブルの真ん中に佇む姿は、なんだか小さなお姫様みたいで、可愛げがあって好きだ。


眠りの慣性が抜けないままぼーっとしていると、母が朝食を運んできてくれた。


「ほら、ちゃっちゃと食べちゃいなさいよ!」


「お父さんもほら! 電車遅れるよ!」


「はいはい、わかりましたよぉ」


父はそう言って、コーヒーも飲み切らないまま通勤電車に向かう。朝の母は戦場の指揮官のようである。きびきびしていて、一切のロスを感じさせない。父がゆっくりとめくる新聞の音も、母のせわしない洗い物の水音の前にはかき消されてしまいそうなほどだ。二人の時計の針の速さは全く違って見えるのに、里佳子は夫婦喧嘩をしているところを見たことがない。うさぎと亀も付き合ったら案外仲がいいのかな、と両親を見るたびに里佳子は考えてしまう。


今日の朝食は、パンケーキにサラダ、粉末のコーンスープと、いつもより豪華だ。うちには、なんとはなしに朝食が豪華になる日が、月に三回くらいある。


「今日、豪華な日じゃん! いただきまーす!」


ご機嫌で眼鏡をかけ、朝食をよく見て味わおうとしたところ、違和感を感じて手が一瞬止まった。なんだか、サラダの色が悪く見える。特にいつものようにくし切りにされたトマトが、腐っているかのように見えた。茶色っぽく、どこかくすんでいるような、そんな気味の悪い色だった。レタスもなんだか少し茶色がかっているような感じがして、とてもじゃないが美味しそうには見えず、食欲が湧かなかった。


「お母さ〜ん、なんかサラダ変色してない?」


「あらやだ? ちょっと見せて」


「ほら、これ。トマトとか」


里佳子はまるで道端のガラス片を傘でつつくかのように、フォークでトマトをいじった。


「……普通のトマトじゃないかしら?」


「え? うそ?」


「最近、部活頑張ってるんでしょ?その疲れじゃない?」


「そうかなぁ……」


騙されたと思って頬張ってみると、口いっぱいにいつも通りの酸味と甘味、少しの青っぽさが広がった。ただのトマトだったし、レタスもなんら変わりなかった。確かに母の言う通り、疲れがあるのかもしれない。それでも、あの色だけは、最初から最後まで私を信用させるに至らなかった。最近、写真部の部長になり、活動やら文化祭の準備やらでてんてこ舞いだったから、その反動かななんて思いながら、違和感だらけのサラダを食べ切った。これでお腹くだしたら絶対お母さんに文句言ってやると思いながら、いつも通りの見た目とふわふわさのパンケーキに、はちみつとバターをたっぷりかけて頬張る。甘さとバターのコクが絡み合い、その幸福さに、先程までの違和感まで胃袋にしまってしまった。


「ごちそうさま!美味しかった!」


「そう?ならよかったわ」


朝食に満足した里佳子がふと時計を見上げると、ゆっくりしすぎたのかすでに7時30分を過ぎていた。


「あ!時間やば!行ってきます!」


「あ、ほら!里佳子カメラ忘れてるわよ!」


「あ忘れてた!…よし!行ってきます!」


いつも通りの母譲りの威勢のいい挨拶で玄関のドアを開ける。部長の里佳子がカメラを忘れるわけにはいかない。今日は写真部で撮影練習と文化祭準備がある。そう、何もなければの話だ。この朝までは、確かにそうなると里佳子は確信していた。

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盲目でも、カメラはにぎれますか? 夏目りんたろう @Iidachan

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