第4章
冬へと向かう季節の海は、いつ荒れ狂ってもおかしくはなかった。
だが、出港から数日のあいだ、波は穏やかで、まるで大海がひとときの安息を与えてくれているかのようだった。
クリスは甲板に立ち、寄せては返すさざ波の光景を目に焼きつけていた。白い帆が膨らみ、
陽を受けてゆるやかに揺れている。潮風は冷たさを含んでいたが、港町オスティアでの喧噪を離れて久しく、船員たちの顔にも不思議な余裕があった。
そんな中、ドメニコ船長は舵のそばに腰をかけ、パイプをくわえて煙を漂わせていた。逞しい腕、日に焼けた顔。彼は大海を知り尽くした男のはずだが、その瞳の奥にはときおり、
何か影のようなものがちらついて見えた。
「坊主……いや、クリス。」
ドメニコが低い声で呼んだ。
「おまえに話しておきたいことがある。」
クリスが顔を向けると、ドメニコは空を仰ぎ、しばし遠い記憶を手繰るように目を細めた。
「俺がまだ若造で、船長になったばかりの頃だ。この海で……大きな過ちを犯した。」
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甲板に吹く風が、かすかに冷たさを増していった。
「その頃の俺は、生意気でな、教えを守ることより自分の腕を誇示することばかり考えていた。
“命を預かっていることを片時も忘れるな”――口うるさい船長が、耳にタコができるほど口癖のように言ってきやがった。うざったくて仕方がなかった。
だがある夜、その意味を嫌でも思い知らされたんだ。」
ドメニコの声が低く沈む。
「船長が仮眠に入った夜、副船長と見張り番が操舵室にいた。俺は副船長に頼み込んだ。
“もう資格を取って一年だ。夜に舵を握らせてくれなきゃ一人前になれない”ってな。
だが副船長は首を振った。“ダメだ。船長の命令は絶対だ”と。俺は癇癪を起こして食い下がった。結局、舵を奪い合う騒ぎになったんだ。」
クリスはあきれた表情を浮かべた。
「……最低ですね。」
ドメニコは自嘲するように鼻で笑った。
「おう、最低だ。だからこそ忘れられねえんだよ。」
彼は手を握りしめ、甲板の木目に拳を打ちつけるように叩いた。
「見張り番が止めようと目を離した瞬間だった。
ドーン!……船首で凄まじい音が響いた。氷山だ。船が乗り上げ、船首が持ち上がり、俺たちは後ろに吹っ飛んだ。
鐘が鳴り響き、血相を変えた船長が飛び込んできた。“何事だ!”と怒号が響いた。……あの瞬間、ようやく俺は理解した。命を預かっているということが、どれほど重いことなのかをな。」
ドメニコは長い吐息をつき、パイプの煙を吐き出した。
「だから言うんだ。今こうして舵を握るとき、あの夜を忘れたことは一度もねえ。」
クリスは呆れながらも、ほんの少し尊敬の念を覚えていた。
「……やっぱり最低です。でも、その経験があったから、今のドメニコ船長がいるんですね。」
ドメニコは苦笑し、頭をかいた。
「おいおい、持ち上げるなよ。俺はそんな立派な人間じゃねえ。ただ……おまえの神様は大したもんだな。こんな時期に、こんなに波が静かだとはな。」
そのとき、空の色がふと変わった。西の水平線に黒い雲が広がり、風が鋭さを帯びて甲板を叩いた。
海は、突如として牙をむき始める。
「……来やがったな。」
ドメニコの声は低く、しかし揺るぎなかった。彼の瞳に再び炎が灯る。
黒雲は瞬く間に空を覆い、穏やかだった海面がざわめきに変わった。白い帆が悲鳴のようにきしみ、船体は重々しく揺れ始める。
ドメニコは即座に号令を飛ばした。
「持ち場につけ! 帆を畳め! 索を締めろ、急げ!」
船員たちが慌ただしく甲板を走り回り、縄を引き、帆桁を押さえ込む。雨粒が頬を打ち、
突風が叫ぶように甲板を駆け抜けていった。
数刻前まで笑い声が響いていた船内は、恐怖と怒号に包まれていた。
やがて豪雨が叩きつけ、稲光が夜を呼び込む。船体は大波に持ち上げられ、急落し、木がきしみ悲鳴を上げる。
客たちは甲板に集まり、泣き叫び、口々にそれぞれの神の名を呼んで祈った。香油の壺を抱える商人、金銀の袋を離さない旅人たち。
クリスはただ呆然とその光景を見ていた。
(これが……他の神を信じる人たちの姿なのか……。ヤハにではなく……)
しかし、嵐は誰の祈りにも答えなかった。
船が大きく傾き、樽や箱が転がり、甲板に散乱する。
「クリスを呼べ! あの坊主が“必ず大丈夫だ”と言ったんだ!」
誰かが叫び、船員たちがクリスを引きずるようにしてドメニコのもとに連れてきた。
「おい坊主!」ドメニコが怒鳴る。
「どうなってんだ! おまえの神は必ず助けるんじゃなかったのか!? このままじゃ、
みんな死ぬぞ!」
クリスの胸を不安が締めつけた。
(自分は間違っていたのか? 今までのことは偶然だったのか?……ヤハよ……どうして彼は人々の罵声から逃げるように船底に降り、暗がりの中でひざまずいた。雨音と波の轟音が木板を通して響いてくる。
「どうか……教えてください……!」
祈りを重ねるうち、やがて睡魔が彼を襲った。嵐のただ中だというのに、意識が夢へと引き込まれていった。
――船内の荷をすべて投げ捨てなさい。金銀があってもそうせねばならぬ。
響いた声は静かで力強く、否応なく胸に迫った。
「しかし、皆が聞き入れるはずがありません……!」クリスは夢の中で叫んだ。
――金や銀があっても、命がなければ意味はない。ヤハがそう言ったと告げなさい。早く。
クリスははっと目を覚ました。船体が激しく揺れ、頭上から悲鳴が響く。彼はよろめきながら立ち上がり、甲板へと駆け戻った。
甲板では乗客も船員も混乱し、箱や袋にしがみついていた。
クリスは声を張り上げた。
「皆さん! 荷物を海に投げ捨ててください!」
「な、何を言うんだ!」商人が叫ぶ。
「この中には大事な届け物があるんだぞ! 金も銀も詰まっているんだ!」
「そんなことできるわけない!」
「ふざけるな!」
嵐の轟音に混じって怒号が飛び交う。
「命より荷物の方が大切なのですか!?」
クリスは振り絞るように叫んだ。
「このままでは沈み、皆死んでしまいます!」
「黙れ!」
「おまえの神なんか知らん!」
クリスは言い放った。
「では、皆さんの神々に頼めばよいでしょう! それで助かるのなら!」
その瞬間、さらに大波が襲いかかり、積み荷が一斉にずれ、船体が大きく傾いた。悲鳴が上がり、つかまっていた者たちが転げ落ちる。
絶望の中、誰かが叫んだ。
「おい! おまえの神は誰だ!?」
クリスは答えた。
「ヤハです!」
一瞬の沈黙。次の瞬間、波が再び轟き、船体を叩きつけた。
「……荷を捨てろ!」
ついに一人の船員が叫び、積み荷を抱えて甲板から投げ落とした。
その行動が合図のように、他の者たちも次々と荷を持ち出し、海へと放り投げた。商人は泣き叫び、旅人は震えながらも荷を手放した。
最後の一つが波間に消えると、不思議な静寂が訪れた。
雨が弱まり、風が止み、厚い雲が裂けて陽光が差し込んだ。
船員も客も、その光景に膝をつき、安堵と驚愕に声を失った。
「……止んだ……」
「助かったのか……」
ドメニコが舵を放り出し、駆け寄ってきた。
「どうなってやがる……俺は一度もこんな奇跡を見たことがねえ!」
しかしすぐに、客たちはクリスに詰め寄った。
「俺たちの荷はどうするんだ! 大事な財産を返せ!」
ドメニコは怒鳴り散らした。
「やかましい! あの荷を全部抱えてたら今ごろ全員海の藻屑だ! クリスに感謝しろ!」
彼はクリスの肩をがしりと掴み、低く笑った。
「それによ、この船の荷には保険がかかってんだ。……ニコラスの会社のよ。」
客たちがざわついた。
「保険……?」
「そうだ、全額返ってくる。安心しろ。」
ドメニコはにやりと笑みを浮かべ、吐き捨てるように言った。
クリスは心の奥で静かに祈った。
(……ヤハよ、ありがとうございます。)
こうしてクリスたちを乗せた船は無事コリントスに着いた。
「いやぁ、一時はどうなることかと思ったぜ、なあクリス」
ドメニコが担いでいた袋を背負い直しながら笑った。
クリスはふとその袋に目をやり、見覚えのある形に気づいた。
「……あの時、港で渡した袋?」
ドメニコはにやりと笑った。
「ああ、これな。おまえから預かった金貨だよ」
「えっ? でも全部荷物は捨てたはずじゃ……」
「そりゃそうさ。だがこれは荷物じゃねえし、俺たちの私物には保険がかかんねえ。
それに……おまえのも混じってるからよ、たぶん神様も見分けがつくと思ったんだ。はっはっは!」
「まったく……どうしようもないおっさんですね」
「おっさんはやめろ!」
二人は腹を抱えて笑い合った。
──その時だった。
港の喧噪の中、甲板からゆっくりと一人の男が降りてきた。背筋を伸ばし、鋭い眼差しを放つその姿には、ただ者ではない威厳が漂っていた。
後ろには、数人の兵士と思しき男たちが控えている。
クリスは思わず息をのんだ。
──この人は、いったい……?
男はちらりとクリスを一瞥し、何も言わずに港の雑踏へと消えていった。
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