サヴァン君の事件記録

カンタロウ

第1話 独居老人 其の一 出会い

 大樹は、知らない男の顔を見ていた。いや、顔そのものではない。

 冷え切った空気の中で、歪んだ口元と、異様に鋭い眼光だけが浮かんでいる。

 次の瞬間、床に何かが倒れる鈍い音がした。

 声を出そうとしても、喉が塞がれ、音にならない。

 目を開けると、見覚えのない天井。

 心臓だけが激しく脈打ち、何を見ていたのかは、もう思い出せなかった。

 ただ、胸の奥に、説明できない重さだけが残っている。


 アパートの一室を出た大樹は、ふと足を止めた。

 青空を背に、ハクモクレンの白い花が咲き誇っている。

「……やっと地獄から抜け出せた」

 小さくこぼれた声が、沈んでいた心をわずかに押し上げた。

 福光大樹ふくみつだいき・十八歳は、北海道帯広市から、埼玉県立医療大学医学部へ進学のため、さいたま市大宮区へ越してきた。医師免許取得後に県内の指定病院で九年間勤務すれば学費免除になる。これが彼の選んだ道。

 白磁のような肌、すっと通った鼻筋、長いまつ毛、静かに結ばれた唇、まるで人形が歩き出したような姿が視界を横切った。

「……!」

 息を飲んだ大樹は、ひと息遅れてそれが少女だと気づく。十メートルほど先を歩く後ろ姿に、見えない糸で引かれるように足が動いていた。

 大宮駅に着いてから乗った電車、降車した駅の改札、大学に向かう道でも、少女は大樹の視界の中にあった。

 少女は大学の正門前で振り返る。

 緑がかった黒い瞳、桃のような頬、紅椿のような唇、大樹は少女と正対したまま固まってしまう。

「あたしに何か用でしょうか?」

 不思議なものを見るような目付きに。大樹は唇が細かく震えた。

「い、いえ……。ぼ、僕は、この大学の医学部のオリエンテーションに」

 少女はパッと花が開くように笑った。

「なんだ、あたしも同じ。なら、一緒に行きましょ」

 少女は大樹が後を着いて来るのを、駅に向かう途中で気付いていた。

 大樹と少女は互いに姓名を名乗った。

「福光大樹っていいます。よろしくお願いします」

高見沢由衣たかみざわゆいです。こちらこそ」

 高見沢由衣・十八歳は、さいたま市大宮区で生まれ育ち、この春、この大学に進学した。美貌に加え、王女のような近寄りがたい雰囲気、さらに抜群の成績から、多くの男子生徒は羨望の眼差しを向けるのみ。稀に告白する者は、あっさり撃沈した。

 今まで惹かれた異性は二次元キャラクターのみ。二次元世界でキャラクターとの恋愛を想像して楽しんでいた由衣は、今、現実世界に引き戻された。

 アニメから抜け出したような美少年。背丈も百七十センチ弱の自分より十センチほど高くてちょうどよい。人柄も良さそうで当然頭もよい。由衣は心に決めた。

(他の女に取られる前に確保しよう)


 オリエンテーションが終わり、並んで座っていた由衣と大樹は同時に立ち上がる。

 チラッと視線を送る由衣を見て大樹は意を決した。

「あの…… 一緒に食堂に行きませんか? 場所がわからないので」

 大樹の口元は緊張がにじみ、済んだ濃紺の瞳を持つ目は少々怯えている。明らかに断られるのを恐れている様子を見て由衣は心が踊った。

「いいわよ。あたし知っているし」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 大樹の目元がフワッと和らぎ、頬に小さなえくぼが浮かぶ。

 ちょうど昼食時で、食堂に向かう者達と連なって二人は並んで歩く。

 由衣は、大樹の端正な横顔に一瞬ドキッとするが、なんとか平静を保って尋ねた。

「ご出身はどちらですか?」

「北海道の帯広から来ました」

「あら! ずいぶん遠いところから。今のお住まいは?」

「パークサイド高端たかはたです」

「なんだー! あたしの家は、そこを右に曲がって5軒先よ」

「お近くですね」

 食事を共にして、二人の緊張は徐々にほぐれ、口達者な由衣が、ため口で問いかけ、大樹は、口数少なく丁寧な言葉遣いで答える。

「あたし達はご近所同士、さっきのオリエンテーションでわかったけど、カリキュラム盛りだくさんで大変そうね。レポートとか互いに協力しましょ」

「はい、よろしくお願いします」


 学内をざっと見て回ったあと、二人は一緒に帰宅の途についた。

 会話の中で由衣は、大樹がイラストを描くのが趣味と知り、妄想が広がる。

(いずれ少女漫画風の自分のイラストを、そして二人の濃厚なラブシーンも)

 すっかり打ち解けて由衣の悪い癖が顔を出した。

「ちょっと気になったんだけど、福光君はストーカー気質? 気になる子見かけたら、後つけちゃうのー?」

「ちっ違います! あの時間に、あの方向に歩く人は、ほとんど駅に向かっています。それに高見沢さんは歩くの速いです」

 顔を真っ赤にして否定する大樹を、由衣はニヤニヤしながら眺めている。

 由衣は、人を茶かして反応を見るのが大好き。本気で怒りそうな人には早々に見抜いて決してやらず、快く感じる人には年齢・性別を問わず、ついやってしまう。

 また由衣は、大樹の引き締まった体付きが気になっていた。

「勘違いしてごめんなさい。ところでスポーツは何かやっていた?」

「中高と柔道やっていました」

「クスッ」

 つい洩らす由衣。大樹が怪訝けげんな顔を向けると、言い訳した。

「ごめんね。あまりにも似合わないから」

「これでも三段です」

 由衣は三段と聞いても驚かない。高校生で三段を取るのはかなり難しいが、由衣にとってはあずかり知らぬこと。加えて由衣は、大樹の堅苦しい言葉使いが気に入らない。

「ねえ、そのしゃっちょこばった話し方、やめてくれると嬉しいのだけど」

「はい、ご希望に添えるよう、できる限り努力します」

「はあー…… ダメだこりゃ」

 由衣は考え込んだ。

(このバカ丁寧な言葉遣いはなぜ? でも、一緒にいると何となく落ち着く。これは何?)


 アパートの十数メートル手前で、大樹が突然立ち止まった。

 一歩前に出た由衣が振り返ると、大樹は右前方を凝視していた。視線の先には垣根の隙間から見える民家の玄関があり、薄っすらと明かりが灯っていた。

「どうしたの?」

「あの家で人が倒れていると思います。死んでいるかも知れません」

「えっ! 佐藤さんち? 旦那さんだけの一人暮らしだけど、どうしてそう思うの?」

「雨戸が閉まったままです。ポストに新聞が差さったままです。玄関灯が点いたままです。中からネコが悲しそうに鳴いています」

「留守じゃないの?」

「でも、確認するべきです」

 大樹が門扉の横の呼び鈴に触れようとすると、由衣は止めた。

「あたしがやるわ」

 由衣は知り合いの自分が確かめるべきと判断し、呼び鈴を押した。反応は無く、さらに二度押しても変わらず、敷地に入って玄関のドアノブに手をかけた。大樹も由衣の傍に駆け寄った。

「鍵かかかってない」

 由衣がドアを開けると。玄関のたたきに上半身、上がり框に下半身を投げ出し、うつ伏せに倒れている男と、その肩に前足を添える大きなキジトラの猫がいた。

「佐藤さん大丈夫ですか? 佐藤さん! 佐藤さん!」

 大声で呼びかけるも反応は無く、由衣は携帯を取り出して通報し、すり寄って来た猫を大樹が抱え上げた。


 程なくサイレンを鳴らし救急車とパトカーが相次いで到着し、救急隊員が佐藤家に駆け込んだ。隊員がまず声を掛け、続いて呼吸、脈拍、瞳孔、体温を確認する。佐藤氏はストレッチャーに乗せられ、救急車は再びサイレンを鳴らし、走り去った。

 警察は現場保全を開始し、二人は門前で事情聴取を受けた。

「灯りが点いたままで、新聞も差し込まれたままなので心配になって、呼び鈴を押しました。反応が無かったので玄関を開けたら、佐藤さんが倒れてました。ドアは鍵がかかってなかったです」

 由衣は大樹が最初に異変に気づいたことは話さなかった。引っ越したばかりで住民と馴染みがない大樹が、根拠の薄い話をして怪しまれるのを恐れたのだ。二人はそれぞれの名前、住所、連絡先を聞かれて解放された。

 大樹に抱えられ安心したように眠る猫を見て、由衣はそっと頭を撫でる。

「この子、寛太かんたっていうの。でも不思議ね。普段は知らない人が手を出すと、シャーって威嚇するのに。取り合えずうちで預かるわ」

 寛太は体重十キロ超えの大猫で、その迫力に初対面の人はたいてい腰が引ける。だが、足先が白くブーツを履いたように見え、そこそこ愛嬌があった。

「じゃあ、爪を切った方がよいです。しばらくは気が立っていて危険なので」

 アパートで大樹に抱かれている寛太の爪を、由衣はハサミで切った。

 玄関ホールで倒れていた佐藤家の当主、佐藤和宏さとうかずひろ・七十七歳は、搬送先の病院で死亡が確認された。

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