自然とテラー:グリズリーの前 ―判断の標本―
富澤宏
本編
季節は秋の入り口だった。
ワイオミング州の山道を、久しぶりに集まった三人で歩いていた。乾いた空気の中に、笑い声が散る。
「おい、ジャック。ちょっと速いぞ」
後ろから声をかけてきたのは、少し腹の出たエリックだ。アウトドア用の最新ウェアは完璧だが、スタミナの衰えは隠せない。そのさらに後ろで、ブレイデンが立ち止まり、スマートフォンを見ている。最近のグリズリーの目撃情報を確認しているらしかった。
「大丈夫だよ」
振り返らずに言った。
「この道は覚えてる」
学生のころ、山歩きには慣れていた。この程度のハイキングは「遊び」に過ぎないはずだった。だから、重いベアスプレーは「どうせ使わないだろう」と車の中に置いてきてしまっていた。
森が深くなるにつれ、音が消えた。
鳥の声が途切れ、風も止んだ。
森は静かすぎた。
音がないというより、音を待っているようだった。
その中を歩いているのが、ひどく不自然に思えた。
足元の土に、異様に大きな足跡があった。鋭い爪の跡。乾いていない。
顔を上げると、二十数メートル先の道に、黒い影が立っていた。
グリズリーだった。
大きな体が道を塞ぎ、鼻先をわずかに動かしている。
匂いを追っている、というより、こちらの呼吸の間隔を待っているように見える。
それが本当にこちらを見ているのかどうかさえ、判断がつかなかった。
銀色に輝く毛先が日光を反射している。立ち止まったまま、動かない。
エリックの顔色が変わる。
ブレイデンは、スマートフォンを握ったまま固まっていた。
「落ち着け。走るな」
リーダーを決めた覚えはない。
だが、自然に声が出た。
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
ハイキングの話題でよく語られる注意が、ようやく意味を持った。
――――――――――
「Hey, bear. Whoa, bear……」
穏やかだが、一定のトーンで語りかけ続ける。
僕たちはただの通りすがりだ。邪魔をするつもりはない――
視線は外し、気配だけを向ける。
一歩、後ろへ下がる。
靴底の小石が鳴った。
グリズリーは反応しない。
その沈黙が、判断の結果だと分かった。
「二人とも、ゆっくりだ」
心臓がうるさく鳴っていた。
二十数メートル。距離は変わらない。
変わらないことが、なぜか不安だった。
グリズリーが、ゆっくり立ち上がった。
こちらを見下ろす。
目が合った、とは思わなかった。
だが、視線を合わせない理由を、向こうが理解していると感じた。
「……ジャック、さっきの避難小屋、覚えてるか」
ブレイデンが、喉を擦るように言った。
「ああ」
同じ考えだった。
だが、動くたびに、グリズリーも一歩進んだ。
歩幅は揃えない。こちらの速度を、試している。
「来てる……」
エリックの声が震える。
「走るな!」
背を向けたら終わりだ。
その確信だけが、はっきりしていた。
「荷物を置け」
三人でバックパックを放り出した。
ブレイデンのパックが地面に落ちた拍子に、中から七面鳥のサンドイッチが転がり出る。今朝、これを楽しみにしていたのを、僕は知っている。
グリズリーの鼻先が、わずかに動いた。
だが、荷物を気にするそぶりは見せない。
あきらかに、こちらを見ている。
そう断定するには足りないが、否定する理由もなかった。
小屋へ転がり込み、重い扉を閉める。
かんぬきが落ちる音が、やけに大きく響いた。
「助かったのか……」
エリックが言った。
「多分な」
そう答えながら、胸の奥はまだ騒がしかった。
スマートフォンを探し、手が止まった。
ポケットは空だった。
「……バッグの中だ」
二人の顔を見る。
エリックとブレイデンも慌てて自分の体を叩いたが、絶望的な顔で首を振った。
――――――――――
外から、爪が木に触れる音がした。
ここで待つか。何を。
小屋の中を探る。
食料はなかったが、古びた三挺の銃が置かれていた。
銃――。
触れたくないものだった。だが、退くための時間を買えるなら、選択肢から外す理由もなかった。
最初に目に入ったのは、重いボルトアクション。
.30-06スプリングフィールド。効く、ということだけは知っている。
だが、薬室は空だった。弾も見当たらない。
次に、太いリボルバー。
.44マグナムだ、とエリックが息を詰める。
強い、という言葉だけが先に立つ。
けれど手に取ると、その一発にすべてを賭けろと言われている気がした。
最後に残ったのは無骨なライフル。.223レミントン。
決定打になるとは思えない。だが、弾はあり、扱える。
僕は見つけたマガジンを叩き込み、これを選んだ。
銃を手にした瞬間、手の震えが別の種類のものに変わった。
寒さでも恐怖でもない。
金属の冷たさが、じわりと皮膚を通り、骨に触れる感覚だった。
外したらどうなるのか。
撃たなかった場合と、撃った場合の違いが、うまく想像できなかった。
ただ、引き金までの距離と、弾の重さが、鉄の塊として掌に残った。
「これは、使わないためのものだ」
誰に向けた言葉かは分からない。
自分に言い聞かせていた。
――――――――――
しばらくして、外が静かになった。
去ったのかどうかは、誰にも分からなかった。
僕たちは裏手から山を下った。
岩に隠れ、息を止め、少しずつ距離を取る。
岩を越えるたびに冷や汗が滲む。
隠れているのは、僕たちなのか、それともグリズリーなのか。
慣れ親しんだはずの景色が、やけに遠かった。
暗くなるころ、登山口でパトロール中のレンジャーに見つかった。
「助けて下さい」
それだけ言って、手にしていた銃を差し出した。
エリックは苦笑いをした。
「車のキーも、バッグの中だ」
レッカー車を待つ間、レンジャーに叱られた。
「あんたたち、運が良かっただけだ。
ベアスプレーも持たず、通信手段もない。
あの避難小屋だって――それに、これもだ」
銃を指さす。
「展示品みたいなものだぞ。弾が残っていたのは、ただの偶然だ」
反論する言葉はなかった。
毛布に包まり、泥のようなコーヒーを飲みながら、僕は思った。
その苦さには、好みも選択肢もなく、ただ「ここで生き延びろ」という意思だけが溶け込んでいた。
山を甘く見ていた。
準備とは、格好のことじゃない。
最悪を想像して、避けることだった。
それを個人で抱えるものだと、思い込んでいた。
町の灯りは、静かに近づいていた。
だがそれは、僕たちがもう観察されていないことを、保証してくれるものではなかった。
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