アリサカコトネは恋をする

カサリユ

また明日。

──アリサカコトネは三日後に死ぬ。


放課後。今日も僕は屋上に来ていた。

空一面に冬のどんよりした曇り空が広がり、それが余計に心を暗くさせる。

これが夏の青空だったら、少しは僕の気も晴れるのだろうか。

そう思いながら、屋上を取り囲むフェンスの金網を両手で掴んで立っている。

目の前には、なんでもない、ただ広い景色が広がっている。


僕の身長よりも、少し高いフェンス。

運動は苦手だけど、よじ登る事くらいはできると思う。

そのあとは、少し足を踏み出すだけだ。

それで僕は楽になれる。それなのに──


「はぁ……」

また、ため息が出た。僕は、いつもこうだ。

このフェンスを乗り越える覚悟すら、できない。

僕は、なんて弱いんだろう。

こんな自分が嫌で、クラスのみんなが嫌で、学校という、息苦しいこの世界が嫌いだ。


──死ぬのにも、勇気が必要なんだ。

昨日も、一昨日も、同じことを考えて、結局仕方なく家に帰る。また、同じことを繰り返す。

屋上の鍵が開いている事に、誰かが気づいて、また閉鎖されてしまうまで。


僕はこのままずっと──


「なにしてるの?」


不意に声をかけられ、思わず振り返った僕は、のけぞってフェンスに背中をぶつけた。ガシャンと、小さく金網が揺れた。


そこに立っていたのは、同じクラスのアリサカさんだった。


クラスメイトと言っても、僕はアリサカさんと話した事がない。

予想外の相手に、こんな場所で声をかけられて、頭が真っ白になった。

僕は何も言えず、ただ彼女の足元を見つめていた。


「なんでスリッパ履いてるの?」

彼女が、また質問をしてきた。

一瞬、意味がわからなかったが、彼女が指さした先を見て、やっと理解した。


「あ、上履きを忘れて、保健室で借りたから……」

そう言ったあと、自分の返答の間抜けさに気付いた。

上履きを忘れる事なんて、ないのに。


朝、学校に来たら、上履きが水浸しにされていた。

クラスの誰か──いや、大体見当はついている。

僕をターゲットにしているグループの仕業だ。

それでも、話したこともない女子に、情けないところを見せたくなくて、つい意地を張ってしまった。


「ふうん」

とだけ、彼女は言った。どうでもいいように。


「そこから飛び降りるの?」

彼女の続けざまの問いに、僕はどきりとした。

その言葉は短く、冷たくもなく、淡々としていた。

顔を上げて、彼女の顔を見ると、大きな目を真っすぐに向け、僕を見つめている。

その表情は、どこか冷めていたが、僕を非難するようなものじゃなかった。


「わからない」

僕は、そう返していた。

どうしてそんな事を聞くのか、そう思ったけど、言葉に詰まった。


「そうじゃないなら、私がそこ予約するけど」


「え?」

また、わけがわからなかった。

戸惑う僕のもとへ、彼女は静かに歩み寄り、隣に並ぶ。

二人で黙ったまま、フェンスの向こうの景色を見つめた。

視界の端で、彼女の長い髪が風に揺れている。

何を言えばいいのかわからず、僕はただ、遠くを走る車を目で追っていた。


「だって同じ場所で飛び降りたら後追いみたいに思われるし」

彼女はただ、そう言った。



アリサカコトネは僕と真逆の存在だ。

勉強も出来て、スポーツも万能。

すらっと背が高く美人で、いつも伏し目がちで、その長いまつげは僕と同じ年と思えないほど大人っぽかった。

クラスの男子は彼女に夢中で、女子たちも妬むというより、むしろ憧れているように見えた。

彼女の存在は僕にとってまるで違う世界の人間のように思えた。


周りのみんなもそう感じていたのかもしれない。彼女はいつも凛としていた。

そんな彼女に、誰も気軽には近づけなかった。

授業で必要な会話はあっても、それ以外では、彼女はいつも独りだった。



次の日。

学校に行くと、僕の机が倒されていた。

足元には教科書が散らばっていて、ノートの角が少し破れていた。

周りからは、小さな笑い声が聞こえる。


散らばった教科書を拾い集め、机を起こして椅子に座る。

背後から聞こえた舌打ちに、思わず肩がすくんだ。


動揺を掻き消そうと、昨日の会話の続きを思い出す。



「なんで死ぬの?」そう聞かれた。

「アリサカさんにはわからないよ」そう返した。

「わかるわけないよ」


それはそうだと思う。

彼女にとって僕はただのモブで、いじめの対象になっている事なんて知らないだろう。

それに知っていたとしても、彼女には僕の気持ちはわからないだろう。

僕が彼女が普段何を考えているかわからないように。誰だってそうだ。

だから、彼女の答えは正論で、僕を突き放す言葉じゃなかった。


「アリサカさんはなんで?」

なんで?で止めたのは彼女がどういうつもりかわからなかったからだ。


彼女もここから飛び降りようと思っているのか。

恵まれた彼女がそんな事をする必要はないと思っていたから。


「あと3日でわたしの16歳が終わるから」

視線を前に向けたまま、そう答えた。


「意味がわからないよ」

彼女はずっとわけがわからないままだ。だからそう言った。

16歳が終わるってそれはそうだ、誕生日は誰にだってくるし僕らは高校二年なんだから。

そんなのが理由になるもんか。そう思っても、僕には彼女の心は理解しようがなかった。


「わたしはわたしのままでいたいからそう決めたの」

「アリサカさんはアリサカさんだよ」

自分でも何を言ってるんだろうと思うくらい、馬鹿みたいな言葉を返して恥ずかしくなった。


彼女は僕の方を向いて少し微笑んで

「そうだといいね」

と言った。彼女のそんな表情を見たのは初めてだった。



放課後、僕はまた屋上に来ていた。

フェンスの前にいつものように立つ。

上履きはまだ乾ききっていなくて、靴下がじんわり濡れて気持ちが悪い。


フェンスに手をかけ、少しだけ上がってみようと思い足を浮かせる。

そうか、アリサカさんが予約したんだっけと思い返して、足を下ろす。

わかってる。こんなのは言い訳だ。単純に僕に勇気がないだけだ。

彼女の言う事を真に受けて、出来ない理由にしている。


昨日の出来事は彼女の気まぐれで、僕をからかっただけかもしれない。

例え僕がここから飛び降りて死んでしまっても彼女は変わらない日々を過ごすはずだ。

僕と話した事なんてすぐに忘れてしまう。


そう思っていたら、屋上のドアが開く音がした。

振り向くと、アリサカさんだった。


彼女は黙って僕のもとへ歩み寄り、昨日と同じように隣に立った。

僕が何と声をかければいいのか分からずにいると、

「どうする?」と、彼女は僕の方を向いて言った。

「わからない」

なぜだか彼女の顔を見られなくて、僕はフェンスにかけた自分の手を見つめながら答えた。


僕はいつも、わからないままだ。自分で何も決められない。

勉強も、運動も、クラスのみんなとどう話せばいいのかも。

今日、本当に飛び降りるつもりがあったのかも。

いや、今日だけじゃなく、本当に死にたいのかも。

自分の命をどうしたいか、自分で決めなきゃならないのに。


彼女は僕に、何も聞こうとはしなかった。

興味がないだけかもしれない。でも、変な同情や正義感であれこれ言われるより、ずっとよかった。


「アリサカさんは、本当に死ぬつもりなの?」

逆に、僕の方から聞いた。


僕は、彼女のことなんて何も知らない。

クラスという小さな空間の中で見てきた、ほんのわずかな情報しか持っていない。

それでも、彼女は特別な人間だと思った。

なんだってできる。それを終わらせるのはもったいないじゃないか。

他人の勝手な思い込みかもしれないけど――僕は、そう思った。


「昨日、言ったよね」

彼女は、それだけを返した。僕には、もう何も言えなかった。


ただ、二人でフェンスの前に立ち、しばらく景色を眺めていた。



三日目になった。

アリサカさんの16歳最後の日。彼女が予約した日。


彼女は本当に、あの場所から飛び降りるつもりなんだろうか。

朝からずっと、それが頭から離れなかった。

きっと彼女なら、ためらいもなくやり遂げてしまう。

僕とは違う。

あのフェンスなんて、何でもないように乗り越えて、すべてを終わらせてしまう気がした。


体育の時間、何度かボールをぶつけられた。

顔面に強く当たって、鼻血も出た。

でも、それどころじゃなかった。


放課後、保健室に寄ったあと、僕は急いで屋上へ向かった。


フェンスの向こう側に、彼女が立っていた。


まだ飛び降りていないことに、少しほっとすると同時に僕は焦った。

今にも飛び降りてしまいそうな彼女に、僕は思わず駆け寄った。


ドアの開く音に、彼女は気づいていたのかもしれない。

ゆっくりと振り向いて、「どうする?」と、昨日と同じ言葉を口にした。

僕は、その言葉の意味がわからなかった。

何を返せばいいのか分からず、ただ彼女にかける言葉を探していた。


「君が飛び降りるのならわたしは別のところを探すけど」

こんな状態でも彼女は変わらず淡々と言った。


「ちょ、ちょっと待って!」

思わず声が裏返った。考えている場合じゃない。

どうせ僕は上手く考える事ができない。


「君は死んじゃだめだ」

本心だった。僕は彼女に死んでほしくない。

死ぬなら何の価値もない僕の方だ。でも──僕は死ぬのが怖い。

彼女は多分、その事に気付いていたんだと思う。


それ以上の言葉が浮かんでこない。

もどかしくて、情けなくて、僕の目には涙が浮かんでいた。


「こっちおいでよ」

彼女は優しく微笑んで、そう言った。


涙を拭って、少し高い位置の金網に手を伸ばす。

足を浮かせて金網にかける。

器用とは言えないけれど、少しずつ僕は昇っていく。

視界が広がっていくのがわかった。


フェンスの上までたどり着き、またごうと足をかけた瞬間、

そのあまりの高さに、身体がすくんだ。

屋上の床からほんの少し離れただけなのに、

ここから落ちたら死ぬ──そんな現実感が、急に押し寄せてきた。


今まで、僕はずっと、安全な場所から眺めていただけだったんだ。


足をかけたままの姿勢で、そっと彼女の方に視線を向ける。

彼女は、ただ黙って僕を見つめていた。


それは、呆れているわけでも、心配しているわけでもなかった。

ただ、僕が来るのを、静かに待っているように見えた。


僕は、それに答えようと思った。

手に力を込めてフェンスにしがみつきながら、右足、左足と順に上へ通していく。

今の僕は、きっとすごくカッコ悪い体勢なんだと思う。

でも、それでも構わなかった。


フェンスを乗り越え、屋上の床に足を下ろす。

その瞬間、ほっとして、僕はそのまま座り込んだ。

気づけば、身体が震えていた。手のひらには、じっとりと汗がにじんでいた。


顔を上げて彼女を見ると、彼女は下の方をじっと見つめていた。

そして、ちらりと僕に視線を向け、目が合うと「ほら」と小さく指さした。

僕は膝を床につけたまま、彼女の指さす先をそっと覗き込んだ。


数人の生徒が、下から彼女を見上げていた。

僕に気づいて、指をさす子もいる。


「気づかれたみたい」

彼女は平然と、少し楽しそうに言った。

校舎の中へ駆けていく生徒の姿が見える。きっと先生を呼びに行ったのだろう。


「早く立ちなよ」

そう言いながらも、彼女は手を差し伸べてはこなかった。

でも、それがなんだか安心だった。


足元はまだ震えていたけれど、僕はなんとか立ち上がり、彼女の隣に並んだ。


目の前に、景色が広がっている。

昨日も見たはずの景色だ。なのに、フェンスがないだけで、まるで別の世界のように感じた。

校庭も、向かいの校舎も、遠くの建物も、境目がなく広い空とひとつに繋がっていた。


僕は、ふと彼女の方へ顔を向けた。


風に揺れる長い髪。

その隙間から見える横顔は、とても綺麗で──可愛い、と思った。


「困ったな」彼女が正面を見据えたまま、小さく呟いた。


「こんなに大事になるとは思ってなかった」

今さらそんなことを言い出した彼女に、僕は驚いた。

でも、同時に少しだけほっとした。


下を見ると、僕らを見上げる生徒の数がさらに増えていた。

その中に、促されるように走ってくる先生の姿も見える。


「どうしよう」

僕が少し笑ってそう言うと、彼女は困ったように笑い返して、

「わからない」と答えた。


そして、くるりと踵を返し、フェンスを軽々と飛び越えて、内側へ戻っていった。


「じゃあ、また明日」

それだけ言って、彼女は屋上のドアへと向かった。


「うん、また明日」

僕もそう返して、彼女の背中を静かに見送った。


背後では、先生たちが必死に何かを叫んでいる声が聞こえていた。

きっと、もうすぐここにも駆けつけてくるだろう。

怒られるかもしれないし、親に連絡がいくかもしれない。


でも、そんなことは、今はどうでもよかった。



また明日──


そう思いながら、僕はフェンスをしっかりと掴んだ。

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