ポチ袋

篠崎リム

ポチ袋


 大晦日の夕暮れ、玄関のチャイムが鳴ると同時に、佐藤陽子は弾かれたように台所を飛び出した。

 ドアを開けると、そこには冷え切った東京の匂いを纏った息子、健吾が立っていた。

「ただいま、母さん」

 その声を聞いた瞬間、陽子の胸の奥が、ぎゅっと握り潰されるように痛んだ。


 学生時代よりも質の良い、仕立てのしっかりしたウールのコート。

 けれど、その内側にあるはずの若さは、どこか削げ落ちている。

 襟元から覗く息子の顔は、記憶にあるものより一回りほど小さく見えた。

 目の下にうっすらと影が落ち、血色も薄く、どこか覇気がない。

 声も、風邪を引いているわけではないだろうに、擦れたように乾いていた。


「おかえり。……寒かったでしょう」

 努めて明るい声を出そうとしたが、語尾が少し震えた。


 健吾は、結婚十五年目にしてようやく、授かった一人息子だ。

 赤ん坊の頃、彼が少し熱を出しただけで、陽子の世界は色を失った。

 体温計の目盛りが三十八度を超えるたび、この小さな命が、指の隙間から零れ落ちてしまうのではないかという恐怖に、夜通し胸を締め付けられた。

「そのくらい、どこの家でもあるわ」

「あなたは心配性ね」

 そう笑われるたび、陽子は何も言い返せず、ただ頷くしかなかった。


 その時の恐怖は、二十三年が過ぎた今も、地続きだった。

 社会人一年目。都会の荒波が、大切に育てた息子を容赦なく削り取っている。その事実を目の当たりにし、陽子は息を呑んだ。


 健吾は、年越しのために用意した天ぷら蕎麦を、半分ほど残した。

「ごめん、もう腹いっぱいで」

 そう詫びると、二人で小さく新年を祝った。


 ほどなく、彼は炬燵に身を沈めそのまま眠りに落ち、陽子は静まり返った和室へそっと入り、息子の寝顔を見下ろした。

 強張っていた眉間は、眠りの中でようやく緩んでいる。けれど、その頬の肉は落ち、ひどく頼りない。


「代われるものなら、代わってやりたい」

 幼い頃、熱にうなされる彼に何度も呟いた言葉が、口をついて出た。

 しかし、その願いが叶わないことを、今の陽子は残酷なほど知っている。

 彼が立っているのは、もはや母親が代わってやれる場所ではなく、彼自身が一人で越えていかねばならない道なのだ。



 元旦と二日は、嘘のように穏やかに過ぎた。

 こたつの上には蜜柑の山。テレビからは芸人たちの笑い声。

 健吾はほとんどこたつから出ず、時折スマホを気にする以外は、溜息をつきながらぼんやりと天井を眺めていた。


 二日の昼下がり、台所で陽子は新しい苺ジャムの瓶を開けようとしていた。

 トーストに塗ってやろうと思ったのだ。


 左手で瓶を抑え、右手で蓋をひねる。いつも通りの動作。

 しかし、蓋はびくともしなかった。

 もう一度、力を込める。


 ズキン、と手首に鈍い痛みが走った。

 脂汗が滲む。濡れ布巾を使っても、ゴム手袋をはめても、蓋は頑として動かない。


「母さん、何してんの?」


 いつの間にか、背後に健吾が立っていた。

「あ、ちょっと……」

 陽子が言いかけたその前で、健吾は無言のまま瓶に手を伸ばし、受け取るようにして奪い取った。


 ポン、という乾いた音。

 拍子抜けするほどあっけなく、蓋は開いた。


「開いたよ。ほら」


 健吾はぶっきらぼうに言い、瓶をテーブルに置く。


 これまでは何気なくできていたことが、できない。

 その事実は、陽子にショックを与えた。

 老いは、白髪や皺といった目に見える形だけでなく、こうして何でもない日常を、静かに奪っていく形で忍び寄っていた。


 彼もまた、気付いてしまったのだ。母親が、ジャムの瓶ひとつ開けられないほど「弱く」なっていることに。


 陽子の視線は、瓶から息子の手へと移った。

 蓋を開けたその手は、かつてのような白く柔らかな学生の手ではなかった。

 全体に硬さが残り、皮膚の一部は白くカサカサになって荒れ、爪の縁には、隙間に入り込み固まった汚れが頑固に居座っている。

 それは、彼が過ごして来た一年間をはっきりと告げる手だった。



(ああ、そうか)


 陽子は、自分の疼く手首をもう片方の手でさすった。

 誇らしさが胸に満ちると同時に、寂しさが込み上げる。


 もう、かつてのようにこの子を守ることはできないかもしれない。

 守られる側だった息子は、自分の足で立つ強さを手に入れた。

 陽子はその成長を、静かに、確かに受け取っていた。




 一月三日の朝。外はまだ薄暗い。

 玄関から、シュッシュッというリズミカルな音が響いてくる。

 陽子が廊下に出ると、健吾が三和土(たたき)にしゃがみ込み、革靴を磨いていた。

 帰ってきた時には泥と埃で白くくすんでいた靴が、今は黒光りし、艶やかな光を放っている。

 その背中は、二日前よりも少しだけ大きく、そして張り詰めて見えた。これから戦場へ戻る兵士が、武具の手入れをしているようだった。

 陽子はエプロンのポケットに手を入れ、指先で小さな感触を確かめた。

 ポチ袋だ。中には「お年玉」という名目で、数万円の現金を入れてある。

 東京での暮らしは楽ではないだろう。これを渡せば、数日分の食費にはなる。少しでも楽をさせてやりたい。それが親心と言う物だ。


 けれど、陽子はこの短い帰省の間に、少しずつ考えを改めていた。

 学生の頃に残っていた頼りなさは、もう彼の中には見当たらない。

 迷いながらも、自分で考え、決め、選択する。

 そういう立ち方をする、一人の男になっていた。

 この金を渡すことは、彼をいつまでも「守られる側」に留めてしまうことにならないか。


 もう、彼は私の庇護下にいる子供ではない。自分の手で道を切り開き、親の衰えさえも受け止めようとする大人なのだ。

 陽子はポケットの中のポチ袋をぎゅっと握りしめ――そして、ふっと力を抜いた。

 指先から離れたポチ袋は、ポケットの底に静かに沈んだ。



 健吾は丁寧に靴紐を締め上げると、ゆっくりと立ち上がった。

 スーツ姿になると、部屋着の時とは別人のような緊張感が漂う。

「飯、うまかった。……また、夏に帰るから」

 言葉少なに言うと、彼は玄関のドアノブに手をかける。

 そのまま出ていくものだと思っていた陽子は、背中に向かって「気をつけて」と言おうとした。

 その時、健吾が動きを止めた。

 何かを思い出したように振り返り、スーツの内ポケットから一つのポチ袋を取り出した。

「これ……」

 陽子は状況が飲み込めず、戸惑いながらそれを受け取った。

「え、なに、これ」

「いいから。……じゃあ、行くわ」

 中身を確かめる間もなく、健吾は扉を開けた。

 陽子は慌てて顔を上げ、背筋を伸ばした。

 涙声になってはいけない。笑顔で送り出さなければ。

「いってらっしゃい」

 精一杯の声を背中に投げる。

 健吾は一度だけ片手を上げ、振り返らずに歩き出した。

 カツ、カツ、とアスファルトを叩く靴音が響く。

 陽子は、寒空の下、その靴音が聞こえなくなるまで立ち尽くしていた。

 角を曲がり、背中が見えなくなっても、音だけがしばらく残っていた。

 やがて、完全に静寂が戻る。

 陽子は深く、長く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たし、熱くなった感情を少しだけ冷やす。

 そして、今まで開け放たれていた玄関の戸を、ゆっくりと、しかし確実に閉めた。

 ガチャリ、と鍵がかかる音。

 ここからは、私と彼、それぞれの生活がまた始まる。

 廊下の薄暗がりの中で、陽子は胸に抱いていたポチ袋を開いた、中身は近場の温泉旅館の宿泊券と、小さく折り畳まれた手紙だった。

 陽子の心臓が早鐘を打つ。

 何が書かれているかは分からない。けれど、息子が、自分の稼いだ金で、母親を気遣い、何かを「渡した」という事実だけが、熱い塊となって胸に迫った。


 文字を読もうとしたが、視界が滲んで上手く焦点が合わない。

 ポチ袋のざらりとした和紙に、ぽつりと一つ、水滴が落ちた。

 それは見る間に繊維に染み込み、濃い円を描いて広がっていく。

 誰もいない玄関で、陽子は愛おしそうに呟き、その染みを指で優しくなぞった。

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