西日の廊下で、声が止まった

@MostGdanski2

20××年9月 岐阜市立音羽蒲郡中学校

校舎の三階、西日の入る廊下は、放課後になると声がよく反響した。

岐阜市立音羽蒲郡中学校。名前だけは大げさだが、どこにでもある市立中学だった。


三年二組の悠斗は、その廊下で立ち止まっていた。

「なあ、光夫」

悠斗は、少し後ろを歩いていた光夫に声をかけた。

光夫はクラスでも目立たない方で、いつも返事が遅い。だが無視するわけでもない。

「……なに?」

小さな声だったが、ちゃんと返ってくる。

悠斗は、それを聞いて少し安心した。

「『あ』って言って」

ほんの出来心だった。

深い意味はない。クラスでの立ち位置を確認するような、軽い遊び。


光夫は一瞬だけ目を伏せ、それから、

「……あ」

と言った。

それだけだった。

悠斗は笑うつもりだったが、笑いが出なかった。

思っていた反応と違った。

光夫は逃げもしないし、困った顔もしない。ただ、そこで立っている。


「じゃあさ、『い』も」

自分でもなぜそう言ったのか、分からなかった。


何かを取り繕うように、次の言葉が口をついて出た。

「……い」

光夫は、また答えた。


そのときだった。

「何してるの?」

廊下の向こうから声がした。

振り向くと、美咲が立っていた。

二組で一番人気のある女子で、悠斗が――誰にも言っていないが、ずっと好きだった相手だ。

美咲の横には、友達の彩花と奈緒がいる。

三人とも、こちらを見ている。


「え、いや……」

悠斗は言葉を探した。

冗談だと言えばいい。ふざけてただけだと言えばいい。

だが、口の中が妙に乾いていた。


「今から言うの真似してさ」

気づけば、そう言っていた。

「……う、え、お」

自分の声が、廊下に妙に響いた。

光夫は、何も言わない。

ただ、悠斗を見ている。


美咲は首をかしげた。

「……?」

その視線が、耐えられなかった。

「か、き、く、け、こ……」

声が裏返りそうになる。


彩花が小さく笑った。奈緒は、露骨に目を逸らした。

「悠斗くん、何それ」

美咲の声は、責めるでもなく、ただ不思議そうだった。

それが一番きつかった。


何か言わなきゃ。

そう思った瞬間、悠斗の喉から、勝手に音が漏れた。

「あ」

それだけだった。

意味のない音。

言い訳でも冗談でもない、ただの「あ」。


廊下の空気が、一瞬で変わった。

美咲の表情が止まり、

彩花の笑いが引っ込み、

奈緒が「え?」と小さく言った。

誰も、次の言葉をくれなかった。

悠斗は、その場に立ったまま、何も言えなくなった。


翌日から、悠斗は美咲の前で話せなくなった。

クラスでは普通に笑える。

男子とも話せる。

教師に当てられても、答えられる。

だが、美咲が視界に入ると、喉が固まる。


「あ」の感触が、まだ残っている。

声を出そうとすると、あの廊下、西日の反射、三人の視線が一気に蘇る。

話せば、また「あ」になる。

そう思うと、何も言えなかった。


光夫は、何も変わらず学校に来ていた。

相変わらず静かで、聞かれれば答える。


誰も、悠斗が話さなくなった理由を知らなかった。

担任は「思春期だろう」と言い、

友達は「急に大人しくなった」と笑った。

美咲だけが、一度だけ声をかけた。

「……この前のこと、気にしてる?」

悠斗は、口を開こうとして、閉じた。

沈黙が、答えになった。


この学校には話せない生徒がいる、という記録は残らなかった。

ただ、話せていたはずの生徒が、ある場面でだけ沈黙するようになったという事実だけが、誰にも理解されないまま残った。


岐阜市立音羽蒲郡中学校の三階の廊下は、今日も静かだった。

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