二度寝

 夏、朝五時頃。

 上の階に住む住民の生活音で目覚めた男は、直後に大きなため息を漏らす。

 こんな生活が半年ほど続いた男の目元には、薄っすらと隈が出来ていた。

 苛立ちながらも、今更二度寝は出来ないと重い体をしぶしぶ起こせば、念のためにかけた出番の無い、鳴らぬスマホのアラームを止める。

 カーテンの隙間からは、朝日が滲んでいる。

 枕元に置いてある煙草を持ち出すと、窓を開けベランダへ降りた。

 近隣トラブルのストレスから、朝のルーティンに組み込まれた喫煙時間は、彼の身体をゆっくりと蝕んでいる。

 煙草に火を着け、今はまだ静寂に包まれる田舎町を見渡す。

 ボロボロのアパートから引っ越す金は無い。それでいて、この田舎町に割の良い仕事は無く、今よりも良い給料を求めるのなら、都会へ行く他無い。そして、文頭へ戻るのだ。

 しばらくの我慢、そう自分へ言い聞かせ、半年が経つ。

 ふと、手すりを掴む手の甲へ、何かが落ちる。

 視線を落とせば、水のような――粘度の低い赤い液体が、ビニールサンダルへ滴っていた。

 起床直後の脳では、それが何か理解するまでに時間がかかる。しかし次の瞬間、男はその正体に気づき、思わず手を振り払う。

 ――だった。

 男は瞬時に思考を巡らす。同時に、呼吸を忘れるほど意識を奪われていた。

 『なぜ、どうして、何の。動物か、はたまた、人間か』

 睡魔は既に消えていた。確認するべきだと冷静な理性が告げる。しかし、本能はそれを拒否していた。

 男は数秒、もしくは数分の間、サンダルへ滴った血液を凝視しながら葛藤していた。

 見上げた先に、何が居るのか想像もつかない。というより、想像したく無いに近い。

 三十肩のせいか、それとも本能のせいか。意を決した首は、どこかぎこちない動きになりながら、恐る恐る天井を見上げる――。

 そこには何も無い。

 ホワイトベージュのボヤけた色を持つ天井には、亀裂が入っているだけである。

 体の強張りはすぐさま解けた。普段は使わない肩の筋肉を力んでいたようで、直後に背中が攣るも、男はそれに気づかないほど気が動転していたようである。

 強い動悸に襲われる男は思わず、自身の胸に手を置き、宥めた。

 深い深呼吸と共に、視線を手すりへ戻そうとした時――ソレは居た。

 正確には、

 異変を感じた男の、瞳孔が大きく開いた瞳は瞬時に、再度、天井を捉えた。

 アパートの二階、ベランダの手すりの間から、こちら側をジッと見つめる何か。正体の分からないソレを、人間を模した人間では無い何かだと確信した男は、ゆっくりと目を瞑る。

 ――考える。刹那、考える事を辞めた。

 真っ暗の視界の中、男は手探りで室内へ戻ると、しっかりと鍵を閉め、そのままゆっくりと、布団へ横になる。

 今日だけは、二度寝が許されてもいいはずなのだから。

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