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結局、それが空耳でなかったことは、帰りのホームルーム前に分かった。
珍しく口をへの字に曲げた菜由が私の席に来て、唇が触れそうな距離まで近づいたと思うと「掃除終わったら、西階段!」とだけ言って、再び自席へ戻っていったからだ。こんだけ近くではっきり声に出せば「聞こえませんでした」という言い訳は通用しないよな、というつもりらしい。
それにしたって、あの菜由がこんなつまらないことで腹を立てるだろうか。自分がどう言われるかというより、仲のいい他の子が悪く言われていることのほうが我慢ならないタイプなんだろうな、と思っていたけど。
掃除を終わらせて、実際に西階段へ足を運ぶと、菜由は壁にもたれかかり、珍しくスマホをいじらずに待っていた。窓から降り注ぐ陽の光に照らされた彼女はやっぱり、絵になる女の子。明るい場所を歩くことに躊躇してしまう私とは、誰が見たって不釣り合いじゃないか――。
「なに」
「ねえ、里英。なんかあたしに隠してない?」
言葉とともに、菜由は私にぐっと顔を近づけてくる。
相も変わらず、可愛い顔。
誰にでも可愛い顔。誰にでも等しく笑顔をつくることができる顔。
彼女は、どうして――。
「隠してないよ」
「嘘だ」
「逆に訊くけど、菜由は私に隠してること、何もないの?」
菜由は言葉に詰まった。
どうして、そうやって誰にでも笑顔になれるの?
そう菜由に訊いてみたいけれど、ずっと言えないままでいる。そういう意味では確かに、私は菜由に隠しごとをしている。
だからこそ、これ以上突っ込まれないようにカマをかけるだけのつもりだったが、どうやら彼女の思わぬ部分に引っかかったらしい。
「やっぱり隠してるんだね」
菜由は何も言わない。腹が立つ。いつもは立て板に水を流すなんてもんじゃなく、洗車ガンみたいな勢いで話しかけてくるくせに、どうしてここで露骨に口数を減らすのか。
嘘っぱちでもいいから、適当に言葉を並べ立てたりしてくれれば、まだ納得がいったのに。
ところが、菜由の次の一言に、私は耳を疑った。
「あたしが里英に隠し事をして、何か悪いことでもある?」
熱した油に氷の塊を放り込んだみたいに、私の憤懣は一気に膨張して吹き上がる。
なんだよそれ。開き直りやがって。そんなもんないよって言えよ。少しは取繕う努力くらいしろよ。
私の心をぐちゃぐちゃにしておいて、飽きたからって適当に放り投げるなよ。
どうして、あなたは、私を――。
気づけば「ある」と口にしてしまっていた。何も言わずに踵を返していれば、それで終わったのに。ある、と言ってしまった手前、私には菜由に対する説明責任が生じてしまった。
ふーん、と菜由は乾いた相槌を打つ。
「ダメな理由、あるんだ。それは何故?」
「何故って――」
「あたしと里英は友達だと思ってるけど、お互いの裏表全部を知っちゃったら、それってもう〝ただの友達〟じゃなくない?」
菜由は私に近づけていた顔を離して、また壁に身体をもたれてから言葉を継いだ。
「あーめっちゃ言いたいことはあるけどここはそっとしておいたほうがいいんだろうなー、をそのまま放っておけるのが友達の距離感でさ。そんで、何か悩んでるのか誰をぶん殴ればいいんだそれよりどしたん話聞こか……ってなんとかほじくり返そうとするのってさ、それはもう、恋人の距離感なんだと思うんだよね」
そんなものだろうか。私はそもそも色恋沙汰とは無縁の日々を送ってきたし、黙っていればこの先大学に行こうが社会に出ようが結局一人なんだろうし、どれだけ多くの人に囲まれて生きてきたって、人生の最後に木箱へ押し込められて火葬炉にぶちこまれるときは誰だろうと等しく一人ぼっちだ。一人ぼっちは寂しいもんな、とその場で一緒に棺へ入ってくれる存在なんかいない。
昔から、私は両極端というか、なんとも単純な発想しかできない。その自覚はある。だから菜由が私と一緒にいるとき、笑ったり身体を寄せてくると(私は彼女の隣にいる許可を得られたんだ)と思える。逆に、菜由が他の子に笑いかけていると自分のものを奪われたみたいで腹が立つし、自分はもう嫌われてしまったのかと思って胸が苦しくなって……。
は?
それじゃあ、私は菜由のことを、どう――。
「いやあ。それにしてもあたしは、嬉しいな」
気づけば菜由はもたれていた壁から再び離れて、私のほうへ一歩ずつ近づいてくる。日が傾き始めたからか、陽の光に照らされて彼女が作り出す影は、普段よりも長く見えた。
「何が嬉しいの」
「里英があたしの行動に怒ったり、拗ねたりするのが」
にや、と笑う菜由の表情が普段と少し違う気がした。今の菜由の笑顔は、気軽にタップひとつでいくらでも押せる作り笑顔ではない。
どこか勝利を確信した、まるで決められたルールの矛盾や綻びを突いた瞬間のような――。
「どういうこと」
「だって、それって里英があたしのこと好きじゃなきゃ出ない反応だもん」
この瞬間、私は何もかもを悟った。
菜由は光の源だから影の存在に気づけない――なんて発想は、今となっては私が堂本菜由という存在をいかに見くびっていたかがよく分かる挙証資料でしかない。
きっと、菜由は最初から私の心のうごきに気づいていたのだ。私がなんとも思っていなかったはずの菜由を、徐々に意識していったこと。菜由が自分以外の子と楽しそうにしているのを目にした瞬間、みるみる翳りゆく私の心もようも。
なにより、その感情の正体に、今の今まで私本人だけが全く辿り着けていなかったことも、全てお見通しだったに違いない。
菜由がF組の吉田から告白された日、彼女は私に「断ってもいいかなあ」と訊いてきた。私は「菜由が誰と付き合っても自分には関係ない」なんて戯言を返したけれど、あの時点で菜由は確信していたのだと思う。動揺も手伝って、私が自分から彼女を「菜由」と呼んでしまったことで、それが裏付けられてしまった。
その結果が、今なのだ。
つまりは、いつの間にか、山下里英は堂本菜由を好きになっていたのだという――。
「ムカつく」
先に出たのはそんなふうに、取るに足らない四文字だけだった。実質的な敗北宣言だ。そんなわけないだろ、とはねつけていれば延長戦に持ち込めたかもしれない。
でも、もうそんなことはどうでもよくなっていた。逆に肩の荷が下りたと言ってもいい。自分で認めてしまえば「ああ、そうなのか」と素直に納得がいった。
当たり前だ。好きな相手が他の恋敵と仲良くじゃれあっているのを見て、気分のいい奴なんかいないに決まっている。
私はただ、嫉妬していただけだ。いま考えてみると、菜由が走り去る私を追いかけてこなかったことだって、私の嫉妬心を掻き立てるために、わざと追いかけてこなかっただけじゃないだろうか。
きっと堂本菜由は、どこに光を当てればどう影が生まれるのか……まで、計算して振る舞っていた。その思考の深さに驚かされる。最初から最後まで何も分かっていなかったのは、私だけだった。
結局は影がどこに生まれるかなんて、光の降り注ぐ行方次第、ということだろう。
「へ? 何がムカついたん?」
「菜由がどこから見透かしてたのか知らないけど、全部知られてたこと」
どうせ菜由は最初から全部分かっていたんだろうけど、今更そんな野暮なことを訊いても仕方がなかった。敗北を認めた私は、素直に彼女と正面から向き合う。
いま、この瞬間に菜由の瞳に映っているのは私だけ。
それは彼女の大きな瞳に映り込んでいる景色を見るだけで分かるから、安心する。菜由の瞳の中の私は歪んで間抜けな顔をしているけれど、きっと彼女からはしっかりと、実物の私と同じ姿として見えているはずだ。
「あたしは里英のこと、ぜんぜん知らないよ?」
嘘をつくなよ、という反論の言葉を紡ぎかけた唇が止まる。
菜由の顔がまた、私のすぐそばに近づいてきた。
やがて彼女の唇が、息遣いさえ感じられそうな距離にまで縮まった時――。
「だからもっと、あたしは見透かしたいんだよ。里英の全部を」
私という名の影は、堂本菜由という圧倒的な光に包み込まれて、やがて消えた。
影は光に嫉妬する 西野 夏葉 @natsuha
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