青を渡るな-間宮響子-

江渡由太郎

青を渡るな-間宮響子-

 ――青だ、と男は確かに見た。

 横断歩道の白線に足を踏み出した瞬間、世界が裏返った。


 耳を裂くクラクション、焼けたゴムの匂い、フロントガラス越しに歪む運転手の顔。

 寸前で身体を引き戻され、バンパーが風を切って通り過ぎた。


 信号機は――赤。

 それは一度きりではなかった。


 翌日も、また翌日も。

 彼は必ず「青」を確認してから動く。それでも現実は必ず「赤」だった。


 車を運転していても同じだ。交差点に進入した瞬間、視界の端から巨大な影――大型バスが突っ込んでくる。


 生きているのが不思議なほど、死はすぐ背後に張り付いていた。


「……あの世に、呼ばれている気がするんです」


 相談室で、依頼者の高橋淳は震える声で言った。

 間宮響子は黙って彼を見つめていた。霊能力者として、数え切れないほどの“死の兆し”を見てきた女だが、彼の背後に立つ“それ”は、明らかに異質だった。


 空気が腐っている。

 光が、歪んでいる。


「あなたは、もう何度も死にかけている」


 響子は低く告げた。


「それでも生きているのは、守護霊が必死で護っているから」


 淳の背後で、何かが嗤った。

 それは人の形をしていた。


 だが、顔は半分溶け、白目は黄疸の様になっていて目は虚ろであり、口は耳元まで裂けている。


 五年前、心臓発作で突然死した――彼の父親だった。


「……お父さん?」


 霊は答えない。ただ、信号機の色が滲むように揺らぎ、青が赤へ、赤が青へと反転する幻覚を垂れ流していた。


「死んだことを、受け入れられなかった霊です」


 響子は淡々と語る。


「自分だけが死に、生きている家族が日常を続けている。それが許せなかった」


 愛情は、死後に腐る。


 後悔は、怨嗟に変わる。


 そして親という立場は、最も醜い悪霊へと堕ちる。

 父の霊は、息子の耳元で囁いていた。


 ――一緒に来い。


 ――青だ。進め。


 ――お前も、こっちへ来い。


 響子は古伊万里の様な壷を取り出した。古びた土の器だが、内側には無数の経文と血文字が刻まれている。


「あなたのお父さんは、もう“父親”ではありません」


 そう告げた瞬間、霊は獣のような叫び声を上げ、響子に襲いかかった。


 室内の照明が次々と粉々に砕け散り、床の木材フローリングが波打つ。


 信号機の残像が壁一面に浮かび上がり、すべてが「青」を示している。


 響子は壷の口を開き、低い祝詞を唱えた。

 悪霊は引きずり込まれる直前、黄色い目で息子を見た。

 その目には、愛情と憎悪が、完全に混ざり合っていた。


 ――どうして生きている。


 ――どうして、俺だけが。


 壷の蓋が閉まった瞬間、世界は静寂を取り戻した。


「……これで、終わりですか」


 淳の問いに、響子は答えなかった。

 ただ、帰り際に一言だけ告げた。


「これからも、信号は必ず“自分の目”で確認しなさい」


「霊は封じました。でも――“血の記憶”までは消せない」


 彼が去ったあと、響子は一人で壷を見下ろした。

 内側から、微かな音がする。


 ――青だ。


 ――進め。


 壷の中で、高橋淳の父親はまだ、信号を変え続けている。

 そして次に“青”を見るのが、誰なのかを――静かに待っている。



 ――(完)――

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