悪魔の囁き-間宮響子-

江渡由太郎

悪魔の囁き-間宮響子-

 間宮響子が依頼者の勇人の部屋に足を踏み入れた瞬間、違和感はすでに始まっていた。


 部屋は整然としている。生活臭も、湿った怨念の匂いもない。だが、廊下の方向だけが冷えていた。空気が薄く、遠くで誰かが息を潜めているような感触。


「夢の話を、最初から聞かせてください」


 勇人は二十代後半。目の下に深い隈を作り、何日も眠っていない顔をしていた。


「最初は……ただ、光が見えたんです」


 勇人は言葉を選ぶように、ゆっくり話し始めた。

 電気はすべて消している。寝室の扉は閉まっている。

 それなのに――磨りガラスの向こうに、廊下の灯りが滲む。


「誰か起きてるのかと思って……扉を開けると、真っ暗なんです。電気なんて、どこにもついてない」


 響子は頷いた。


 夢と現実の境界が、そこで一度ずれる。


「その夜、父が……枕元に立っていました」


 父は三年前、心臓発作で突然死した。

 葬式も、四十九日も、すべて終わっている。


「普通の顔でした。生きてた頃と同じで……ただ、すごく困った顔をしてて」


 ハッキリと父は言ったのです。


「――おい、俺は死んだのか?」


「その声が……変に現実的で。夢だって思えなかったんです」


響子は、その瞬間を想像して背筋が粟立つのを感じた。


 死者が現れる夢は珍しくない。

 だが、自分の死を疑う死者は、決まって厄介だ。


「それから、夢は変わったんです」


 夜中、トイレに行こうとして居間の扉を開ける。

廊下は真っ暗。


 ――そこに、父が立っている。


 距離は、十メートルほど。

 ただ、立っているだけ。何も言わない。


 翌日は、七メートル。

 次は、五メートル。


「……日に日に、近づいてくるんです」


 勇人の声が恐怖で震えた。


「父は何も言わない。ただ、立ってる。俺を見てる。黄疸の黄ばんだ目だけが……やけに、はっきりしてる」


 響子は静かに目を閉じ、廊下の気配に意識を伸ばした。


 そこに――いる。

 勇人の家の廊下は、現実の長さよりも、ずっと深く伸びていた。

 距離が縮んでいるのではない。

 廊下そのものが、折り畳まれている。


「勇人さん」


 響子は低い声で言った。


「これは、お父様ではありません」


 勇人は顔を上げた。


「え……?」


「“父の姿を借りたもの”です。しかも、非常に悪質」


 霊は通常、自分が死んだことを理解している。

 理解できないまま留まる霊は、ほとんどが事故死や幼い子供だ。


「でも……父は、“死んだのか”って……」


「ええ。それが、罠です」


 響子は続けた。


「それは、自分が誰かを確かめているのではない。“あなたに確認させている”んです」


 ――俺は、死んだのか?


 その問いに答えた瞬間、答えた側が“次の立場”になる。


「距離が縮むのは、夢が深くなっている証拠です。最終的に――」


 響子は言葉を切った。


「ベッドの横に、立ちます」


 勇人の喉が鳴った。


「……じゃあ、どうすれば……」


 響子は立ち上がり、廊下の前に立った。

 何も見えない。だが、確かに誰かがこちらを見ている。


「今夜が、限界でしょう」


 響子はそう告げた。


「今夜、夢の中で“扉を開けない”でください。どんな光が見えても、声が聞こえても」


「もし、父が――」


「答えないこと。目を合わせないこと。呼ばれても、返事をしない」


 勇人は何度も頷いた。




 その夜、響子は帰らなかった。

 居間で座り、夜を待った。



 深夜二時。

 家が、きしむ。

 廊下の奥で、足音がした。

 一歩。

 また一歩。

 距離が、縮む。


 響子は、見てはいけないと知りながら――廊下を見た。


 そこに、勇人の父が立っていた。

 いや、正確ではない。

 顔は父だが、目が違う。

 死者のそれではない。

 獲物を測る、冷たい目。


「……おい」


 無機質な声がした。


「俺は、死んだのか?」


 響子は、答えなかった。


 その瞬間、男の口元が歪んだ。


「……じゃあ」


 次の瞬間、廊下が一気に縮んだ。


 男は、目の前にいた。


 響子は理解した。

 これは“父を使って、廊下を渡ってくるもの”。

 距離を縮めるたびに、見る者の夢と現実を侵食する存在。


 響子は、霊能力者として――。

 そして、一人の人間として。

 一度だけ、失敗した。


 男と目が合った。



 その夜、勇人は助かった。

 夢は止まり、廊下は元の長さに戻った。

だが。



 数日後、間宮響子は、自宅で眠れなくなった。

 電気を消すと、扉の磨りガラスに――廊下の灯りが、滲む。


 そして、枕元で。

 誰かが、困った顔で立っている。


「……おい」


 その声は、ひどく現実的で。

「――俺は、死んだのか?」


 間宮響子は、答えられない。



 廊下は、今も。

 確実に、近づいている。


 ――(完)――

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