リフラクター
深山朝露
ホワイト・レゾナンス
雨の境界線、あるいは硝子の檻
記憶の中のその街は、いつだって雨が降っている。
石畳を叩く硬質な音、古い煉瓦造りの校舎が吸い込んだ水気の匂い、そして視界の端で常に揺らいでいる灰色のカーテン。それらが私の青春のすべてであり、そして私たちが最初に、人と人との間にある絶対的な「境界」を溶かした場所だった。
旧市街の北端、大学の研究棟の地下にある薄暗いラボで、私はモニターの深淵と睨み合っていた。
換気扇が頼りない音を立てて回っているが、半田ごての焼ける金属臭と、淹れてから半日は経過した酸化したコーヒーの酸味が、部屋の湿度に絡みついて離れない。
「……おい、『ランプ』の状態はどうだ?」
背後から、呆れたような、しかし微かに緊張を含んだ声がした。
振り返らなくてもわかる。彼だ。私の唯一の共同研究者であり、この無謀な実験の最初の被験体を買って出た男。
彼はパイプ椅子に浅く腰掛け、首筋に無骨な電極パッドを貼り付けたまま、手元の文庫本に目を落としているふりをしていた。その指先が、ページをめくることなく微かに震えているのを私は見逃さなかった。
「安定している。出力九四パーセント。……綺麗だ」
私はモニター上の「それ」を見つめ、熱っぽい吐息を漏らした。
そこに映し出されているのは、従来の脳波計が描くような無機質な波形ではない。
漆黒のスクリーンの中央で、青白く、頼りなく、しかし激しく明滅し続ける、ひとつの燐光。
Q-Languageによって可視化された、彼の脳内における現在進行形のクオリアの輝きだ。
一世紀前、極東の詩人は自らの序文でこう記した。
――わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です
当時の私は、その言葉が単なる比喩ではなく、これほどまでに物理的な実像を伴うものだとは知らなかった。
因果という交流の中で、あらゆる透明な幽霊と複合し、明滅し続ける青い照明。それが「意識」の正体だ。私たちは今、人間の魂を、観測可能なエネルギー体として水槽に閉じ込めようとしている。
「いくぞ。深度調整、三段階でいく。……接続(コネクト)」
私がエンターキーを叩いた瞬間、地下研究室の空気が一変した。
網膜に映る景色は変わらない。剥げかけた壁紙も、乱雑に積まれた専門書もそのままだ。だというのに、私の内側にある世界が、突然、黄金色の粒子を帯びたかのように輝き始めたのだ。
胸の奥から湧き上がる、圧倒的な肯定感。
陽だまりの匂い。柔らかい布の感触。そして、何者かから無条件に守られているという、絶対的な安心感。
それは、私の孤独な人生には存在しなかったはずの記憶だった。
「すごい……」
私は自分の涙腺が熱くなるのを感じた。
モニターの中では、あの「青い照明」がいっそう強く輝いている。
これはデータではない。体験だ。私は今、彼の母に愛されている。彼の幼少期の幸福を、私自身のものとして享受している。
「成功だ! 見ろ、ランプが完全に同期している!」
私は興奮のあまり、椅子を蹴って彼のもとへ駆け寄った。
だが、ケーブルを引き抜き、ゆっくりと目を開けた彼の反応は、私の予想とは正反対のものだった。
彼は青ざめた顔で、足元のゴミ箱に向かって激しく嘔吐したのだ。
「……おい! どうした、拒絶反応か!?」
「いや……違う、身体的なものじゃない……」
彼は口元を拭い、荒い呼吸を整えながら、私を睨みつけた。その瞳には、恐怖と嫌悪が渦巻いていた。
「綺麗すぎるんだよ」
「何?」
「今、お前に流れた『愛』は、不純物がなさすぎた。あれは俺の記憶じゃない。俺の記憶を漂白して、糖度を高めただけの……甘ったるい毒薬だ」
私は呆然とした。
「何を言っている? ランプの輝きは同一だった。君が感じていた幸福は、そのまま僕に伝わったはずだ」
「輝きだって? そんなもので測れるか」
彼は震える手で、自分の胸を叩いた。
「あの時の母さんの笑顔の裏には、生活苦への疲れがあった。俺が感じていた安心感の底には、いつかこの暖かい手が離れてしまうんじゃないかという、微かな不安があったんだ。……お前の作ったコードは、その『澱(おり)』を勝手にノイズとして除去したんだよ」
私はモニターの青い光を見返した。確かに、極微小な揺らぎを「誤差」としてカットするフィルタを組み込んでいた。だがそれは、伝送効率を上げるための必須処理だ。
「だが、純粋な『愛』だけを抽出できたなら、それは素晴らしいことじゃないか」
「違う!」
彼は叫んだ。地下室にその声が反響する。
「不安のない安心なんてない。影のない光なんてないんだ。そんなものは『愛』じゃない。ただの脳内麻薬だ。お前が作ろうとしているのは、人間を救う技術じゃない……『わたくし』という現象を、ただの都合のいい電気信号に変える装置だ」
彼が吐き捨てた言葉は、地下室の湿った空気の中で重く沈殿した。
私はその時初めて、自分が弄っている「青い照明」が、あまりにも脆く、そして危険な火遊びであることを予感した。だが、若かった私は、その不安から目を背けるようにして、「頭を冷やしに行こう」と彼を促したのだった。
地上に出ると、相変わらず霧雨が街を包んでいた。
ガス灯の明かりが濡れた舗道に滲み、行き交う人々の影を不確かに引き伸ばしている。私たちはまるで巨大な水槽の底を歩いているようだった。
運河沿いにある馴染みの酒場に入ると、店内は労働者たちの体温と安酒の匂いでむせ返っていた。
私たちは奥のボックス席に滑り込み、琥珀色の蒸留酒を注文した。グラスの表面に瞬く間に結露が浮き、滴となって流れ落ちる。私はそれを指で拭いながら、まだ燻っている興奮を言葉にした。
「……世界が変わるぞ。さっきの『純化』が問題だと言うなら、チューニングすればいい。重要なのは、互いのランプを接続することで、言語コストをゼロにできるということだ」
私は酒を一口煽り、熱っぽい息を吐く。
「争いの原因は常に『相互不理解』だ。痛みも、飢えも、悲しみも、すべてが可視化され共有されれば、人は他者を傷つけられなくなる。そうだろ?」
しかし、対面の彼はグラスに口をつけようともしなかった。
彼は酒の入ったグラスを照明にかざし、液体の中で複雑に屈折する歪んだ光をじっと見つめていた。その横顔は、実験の成功を祝う者のそれではなく、来るべき嵐を前にした予言者のように暗い。
「なあ、お前は『経済』を数式に入れたか?」
唐突に彼が言った。
「経済? 何の話だ」
「需要と供給の話だよ。……今日、俺たちが証明してしまったのは、魂ですら『譲渡可能なデータ』に過ぎないということだ」
彼はグラスを乱暴にテーブルに置いた。硬い音が響く。
「さっきの実験でわかっただろう。『純粋な愛』や『快楽』だけを抽出できるなら、それは商品になる。もし、金で『他人の絶頂期のランプ』を買えるとしたら? 逆に、富裕層が抱える『鬱屈』という影を、金で貧乏人に引き取らせることができるとしたら?」
「そんなことは……倫理委員会が規制する」
「倫理?」
彼は短く冷笑した。
「隣国との国境付近を見てみろ。資源不足で暴動が起きている。軍部が欲しがっているのは平和のための道具じゃない。兵士の恐怖心という『スイッチ』を切り、消耗品として使い潰すためのシステムだ。……お前の作ったその青い照明は、奴らにとってはただの便利な『明かり』なんだよ」
私は言葉に詰まった。
彼の言うことは、科学者としての私の領分を超えていた。だが、この街の澱んだ空気、疲れ切った労働者たちの背中、そして遠くから聞こえる軍靴の足音――それら全てが、彼の懸念を裏付けているように思えた。
「俺は怖いんだ」
彼は声を落とし、震える手でようやくグラスを掴んだ。
「いつか、俺の悲しみさえも、誰かの娯楽として切り売りされる日が来るんじゃないか。……『わたくし』という現象のすべてが、資本に規定されてしまうんじゃないか」
彼は酒を一気に喉に流し込んだ。
その夜、私たちはそれ以上言葉を交わさなかった。
店の外では雨足が強まり、窓ガラスを激しく叩いていた。
まるで、私たちが灯してしまった小さな青い光を、必死に消し去ろうとするかのように。
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