第2話 空白の鏡

謹慎期間に入って三日目。

 曜日の感覚は、すでに曖昧になっていた。


 朝、目が覚めても着替える理由がない。

 スーツはクローゼットの奥に掛かったまま、存在感を失っている。

 ネクタイの結び目を整えないだけで、人はここまで時間を持て余すのかと、佐藤はぼんやり思った。


 書斎に入る。

 机の上は、きちんと片付けられていた。

 几帳面さだけは、まだ体に染みついている。


 棚の最下段に並んだファイルが、目に留まった。

 背表紙に貼られた白いラベル。

 年度、クラス名、生徒番号。


 生徒指導記録。


 それは、佐藤にとって誇りだった。

 荒れた学校を立て直し、問題児を「更生」させた証。

 何度も校内研修で例に出され、若手教師に語って聞かせてきた。


 ——これだけは、否定されるはずがない。


 そう思いながら、一冊を引き抜いた。


 ページを開くと、整った文字が並んでいる。

 感情を排した、端的な記録。


「授業中に私語。指導後、改善を確認」


「服装の乱れあり。規律の重要性を説明」


 淡々とした言葉。

 そこには、迷いも葛藤もなかった。


 だが、数ページ進んだところで、佐藤の指が止まった。


「本人の態度に問題あり。甘えを断ち切るため、厳しく叱責」


 その下に、赤字で追記された一文。


「泣き出すが、最終的に謝罪」


 ——泣き出す。


 その場面を、佐藤ははっきり覚えていた。

 教室の隅で、俯いて肩を震わせていた生徒。

 周囲の視線。

 空気を引き締めるために、あえて言葉を重ねた。


 必要なことだった。

 そう信じていた。


 だが今、同じ文章を読み返すと、違って見えた。


 そこに、生徒の言葉は一つもない。


 なぜ泣いたのか。

 何を訴えようとしていたのか。

 記録には、何も残されていない。


 あるのは、「叱った」「改善した」という結果だけ。


 ページをめくる。


「体罰に近い指導も辞さず」


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 当時は、胸を張って書いた一文だ。

 覚悟の証。責任を負うという意思表示。


 ——本当に、そうだったのか。


 佐藤は、ゆっくりとファイルを閉じた。

 紙の擦れる音が、やけに大きく感じられる。


 立ち上がり、書斎の姿見の前に立った。

 そこに映る自分は、昨日と何も変わっていない。

 だが、目だけが違って見えた。


 この男は、誰の話を聞いてきたのだろう。


 自分に、そう問いかける。


 生徒のため。

 学校のため。

 社会に出て困らないように。


 そう言いながら、

 本当に見ていたのは、「従わせることができたか」だけではなかったか。


鏡の中の自分は、答えない。

 だがその沈黙は、否定よりも重かった。


 佐藤は、しばらくその場を動けずにいた。

 問いかける言葉すら、頭に浮かばない。

 何かを考えているはずなのに、思考は形を結ばず、ただ漂っている。


 椅子に腰を落とす。

 背もたれに体重を預けた瞬間、肩の力が抜けた。


 頭が、ひどく静かだった。


 怒りも、悔しさも、湧いてこない。

 教育委員会への反発も、家族への不満も、どこかへ消えている。

 あれほど用意していたはずの反論が、意味を失っていた。


 あるのは、ただの理解だった。


 ——ああ、これは暴力だ。


 声に出さずに、そう思う。

 その言葉が、胸の奥に沈んでいく。


 言葉を使った、暴力。

 拳も、怒号も必要としない。

 正しさの形をして、逃げ場を奪う圧力。


 従わなければ「未熟」とされ、

 泣けば「反省」と片付けられる。


 その構造を、自分は疑わなかった。

 むしろ、誇りにさえしてきた。


 ——導いている、つもりだった。


 だが本当は、

 相手が黙るまで、話し続けていただけなのではないか。


 佐藤は目を閉じた。

 過去の教室の風景が、断片的によみがえる。


 俯いた背中。

 震える肩。

 視線を合わせなくなった生徒。


 その一つ一つに、

 「成長」「改善」「更生」というラベルを貼り、

 それ以上、考えないようにしてきた。


 それが、大人の責任だと信じていた。


 だが今、その言葉はどれも、薄く感じられた。

 自分の中で、重さを失っている。


 否定したい。

 間違っていないと、言い切りたい。


 けれど——

 それができない理由を、佐藤自身が一番よく分かっていた。


 鏡の中の男は、

 誰かを導く顔をしていない。


 そこにいるのは、

 理解してしまった人間だった。


 佐藤正治は、初めて思った。


 自分は、今の子どもたちを導く言葉を持っていない。


 声が大きければ届く時代は、もう終わっている。

 正解を示せば従う時代も、とうに過ぎている。


 それなのに自分は、

 昔と同じ声量、同じ距離感で、

 教壇に立ち続けていた。


 そして同時に、

 それを知らないまま、

 何人もの子どもと向き合ってきたのだと気づく。


 理解は、救いにならなかった。

 むしろ、ゆっくりと足場を崩していく。


 正しさを失ったあとに残るのは、

 誇りではなく、空白だった。


 だが、その空白から目を逸らすことだけは、

 もうできなかった。


 夕方になっても、部屋の明るさは変わらなかった。

 カーテンを閉めたままの書斎は、時間の感覚を奪う。


 机の上に置いたスマートフォンが、やけに小さく見えた。

 何度も手に取っては、置く。

 画面は黒いまま、何も言わない。


 佐藤は、深く息を吸った。

 胸の奥が、わずかに軋む。


 ——何を、どう話す。


 謝罪か。

 弁明か。

 反省の言葉か。


 どれも違う気がした。

 どれを選んでも、自分はまた「形」だけを整えるだろう。


 それが、一番いけない。


 スマートフォンを握り直し、番号を押す。

 教育委員会。

 何度もかけてきたはずの番号なのに、指が重かった。


 呼び出し音が、一回、二回。

 その短い間に、心臓の音がやけに大きくなる。


「はい、教育委員会です」


 事務的な女性の声。

 聞き慣れたはずなのに、今日は距離があった。


「……謹慎中の、佐藤です」


 一瞬の間。

 向こうが、状況を理解する時間。


「担当にお繋ぎします」


 保留音が流れる。

 軽い音楽が、場違いに感じられた。


 ——逃げるなら、今だ。


 電話を切ろうと思えば、切れる。

 理由はいくらでも作れる。

 体調不良。気持ちの整理。改めて連絡するという選択。


 だが、指は動かなかった。


「お電話代わりました」


 担当者の声だった。

 感情の色は、読み取れない。


 佐藤は、しばらく黙っていた。

 何か言わなければならないのに、言葉が見つからない。


「……ご用件は」


 促されて、ようやく口を開く。


「このままでは……戻れません」


 声は、思ったより低かった。

 はっきりとも、弱々しくとも言えない中途半端な響き。


「形だけの謹慎を終えて、

 何も変わらずに教壇に立つことは……できない」


 沈黙が返ってくる。

 否定も、肯定もされない。


 佐藤は続けた。


「私は、自分が何をしてきたのか、

 やっと、分かり始めました」


 “間違っていた”とは言わなかった。

 それを言えるほど、まだ整理がついていない。


「今の子どもたちに、

 自分は言葉を持っていません」


 喉が、ひどく乾いた。


「ですから……研修という形で構いません。

 時間をください」


 少し間を置いて、付け足す。


「学び直したい、というより……

 知らなかったことを、知りたいんです」


 電話の向こうで、誰かが息を吸う気配がした。

 書類をめくる音。

 現実が、再び動き始める音。


「……前例のない申し出です」


 淡々とした声だった。


「承認できるかどうかは、分かりません」


「構いません」


 佐藤は即答した。


 承認されなければ、それまでだ。

 それでも、このまま黙って戻るよりはましだった。


「戻る資格がないまま戻る方が……怖い」


 本音だった。


 しばらくして、担当者は言った。


「検討します。後日、連絡を差し上げます」


「……ありがとうございます」


 礼を言うのが正しいのか、分からなかった。

 それでも、言わずにはいられなかった。


 電話が切れる。

 部屋に、再び静けさが戻った。


 佐藤は、しばらくスマートフォンを見つめていた。

 画面には、もう何も映っていない。


 何かを勝ち取ったわけではない。

 許されたわけでも、救われたわけでもない。


 ただ——

 自分が立っている場所だけは、はっきりした。


 ここには、もう戻れない。

 だが、どこへ行くかは、まだ分からない。


 それでもいい。

 分からないまま、立ち止まることだけは、

 もうしないと決めた。


 佐藤正治、五十八歳。


 その夜、

 彼は初めて「教頭先生」ではない自分のまま、

 明日を迎えようとしていた。

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