教頭先生、答え合わせの旅に出る

涼風琉生

第1話 崩壊と拒絶


その日、校長室の空気はやけに乾いていた。

湿気の多い六月だというのに、喉の奥がひりつくような感覚がある。

エアコンの送風音が、必要以上に大きく耳についた。


壁に掛けられた校訓の額が、やけに白々しく見える。


「規律・努力・信頼」


たどれも、佐藤正治が三十年以上、疑いなく信じてきた言葉だった。


「……佐藤教頭」


教育委員会の職員が、淡々と名前を呼んだ。

感情を削ぎ落としたような声。

その手が、机の上に一枚の書類を滑らせる。


紙が木目に触れる音だけが、室内に不自然なほど大きく響いた。


佐藤は視線を落とさなかった。

こういう場で、先に目を伏せるのは負けだ。

生徒指導の現場で、何度も学んだ“姿勢”だった。


佐藤正治、五十八歳。

この公立中学校で三十年以上、生徒指導一筋でやってきた男だ。


荒れた時代も、不登校が増えた年も、問題児と呼ばれる生徒たちとも向き合ってきた。

逃げた覚えはない。手を抜いた覚えもない。


規律、礼儀、努力。


守るべきものは明確だった。


そして、それを守らせるのが大人の役目だと、疑ったことは一度もなかった。


「内部告発、ですか?」


口に出してみて、初めてその言葉の軽さに違和感を覚えた。

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

心臓は規則正しく打っている。手も震えていない。


「内容は、パワーハラスメントおよびモラルハラスメント。複数件。いずれも深刻です」


職員は、原稿を読むように続けた。

そこには評価も非難もなかった。

ただ、事実として処理する声音。


佐藤は小さく鼻で息を吐いた。


今どきの言葉だ、と思った。

パワーハラスメント。モラルハラスメント。

いつから、叱ることにそんな名前がつくようになったのか。


厳しく言えばハラスメント。


突き放せば冷酷。


では、どうすればいい?


甘やかして、見守るだけで、子どもは育つのか。


そんなものを恐れて、どうやって子どもを導くというのか。


「誤解がありますな」


佐藤は背筋を伸ばした。


「私は常に、生徒の将来を——」


「——本日付で、自宅謹慎を命じます」


言葉を、正面から断ち切られた。

反論の余地は与えられなかった。


一瞬、耳鳴りがした。

それだけで、佐藤の中で何かが軋んだ。

長年、積み上げてきたもののどこかに、目に見えない亀裂が走る。


校長の方を見た。

助け舟が出るとしたら、ここしかない。


だが校長は、机の書類から視線を上げなかった。

その態度が、すべてを物語っていた。


庇ってくれると思っていた。

少なくとも、「佐藤先生はそんな人間じゃない」と、一言くらいは。


だが現実は、もう結論が決まっている顔だった。


この場で、自分は“処理される側”なのだ。


正義は、こんなにも簡単に切り捨てられるものなのか。


会議は、驚くほど早く終わった。

説明、形式的な注意、今後の連絡。


すべてが、予定調和の流れで進んでいく。


立ち上がったとき、足元がわずかに揺れた。

だが、誰にも気づかれなかった。


その日の夕方、佐藤は職員用の出入口から学校を出た。

生徒と顔を合わせないよう、配慮された導線だった。


廊下には、まだ部活動の声が響いている。

笑い声、掛け声、ボールの弾む音。


どれも、昨日までと何一つ変わらない。


自分だけが、突然ここから排除されたような感覚。


下駄箱の前で、ふと立ち止まった。

いつもなら、靴の揃え方一つで注意を入れていた場所だ。


今日は、誰もいない。


外に出ると、夕暮れの風がスーツの袖を揺らした。


校舎を振り返ることは、しなかった。


背中に、誰の視線も感じなかった。


それが何より、こたえた。



家の玄関を開けた瞬間、生活の匂いがした。

味噌と洗剤と、どこか湿った空気。

それだけで、ほんの少し肩の力が抜けそうになった。


「……ただいま」


返事はなかった。

リビングのテレビの音だけが、妙に明るく響いている。


靴を揃え、いつものようにネクタイを外し、上着をハンガーにかけた。

体が、勝手に動いている。

三十年以上、同じ時間に帰宅してきた人間の動作だ。


台所から、包丁の音が聞こえた。


「……聞いたわよ」


妻の声は、背中越しに届いた。

振り向く前に、それが“労い”ではないと分かった。


「教育委員会から、電話があった」


佐藤はゆっくりと振り返った。

妻は手を止めていたが、こちらを見ていない。

まな板の上の野菜だけを、じっと見つめている。


「事実無根だ」


即座に、そう答えた。

考えるより先に、言葉が出た。


「誰かが、私を陥れようとしている。最近は、指導が厳しいと——」


「あなたね」


妻は、包丁を置いた。

金属が台に触れる、乾いた音。


「昔から、そうやって言うわよね」


初めて、視線が合った。

だがその目には、怒りよりも、疲れが浮かんでいた。


「時代が悪い。生徒が変わった。親が過保護だって」


「事実だろう」


「……それがね」


妻は、一度言葉を切った。


「ズレてるのよ。あなた」


その一言が、思った以上に深く刺さった。


「正しいかどうかの話じゃない。

 今のお父さんは……怖いの」


「怖い?」


聞き返す声が、わずかに上ずいた。


「私は、家族を守ってきた。生徒も、家庭も——」


「守ってるつもりなのは、あなただけ」


きっぱりと言われた。


「正しい顔をして、人の話を聞かない。

 反論されると、すぐ“甘え”だって切り捨てる」


佐藤は言葉を探した。

だが、頭の中で整然と並んでいたはずの理屈が、なぜか形にならない。


リビングから、足音がした。


「……お父さん」


娘だった。

もう社会人で、家を出ているはずなのに、今日はたまたま帰ってきていた。


その視線は、どこか距離があった。

昔、進路のことで言い争った時と、同じ目だ。


「お願いだからさ」


娘は、少し困ったように言った。


「今は、反論しないで」


その言葉で、佐藤の中の何かが崩れた。


家族の中でさえ、

自分は“聞いてもらえない側”に回っている。


夕食は、用意されていた。

だが誰も、「座って」とは言わなかった。


佐藤は一人で席に着いた。

妻と娘は、少し離れた場所で、静かに食事を始めた。


味は、分からなかった。

箸を動かしている感覚だけが、やけに現実的だった。


テレビでは、誰かが楽しそうに笑っている。

その音が、この家の中だけ、異物のように浮いていた。


——ここにも、居場所はない。


そう思った瞬間、胸の奥が、ひどく冷えた。


学校でも、家でも。

自分が信じてきた「正しさ」は、どこにも居場所を持たなかった。


佐藤正治は、その夜、初めて気づいてしまった。


自分は、もう誰にも導かれていない。


そして同時に、

誰も、自分についてきてはいないのだと。



夜中、ふと目が覚めた。

時計を見ると、まだ三時にもなっていない。


家は静まり返っていた。

冷蔵庫の低い駆動音と、遠くを走る車の音だけが、断続的に聞こえる。


佐藤は布団の中で目を閉じたまま、昼間の会話を反芻した。


妻の声。娘の視線。


どれも、責める調子ではなかった。

だからこそ、逃げ場がなかった。


起き上がり、書斎へ向かう。

電気をつけると、壁一面の本棚が視界に入った。

教育論、生徒指導の事例集、管理職向けのマニュアル。

積み上げてきた年月が、そのまま並んでいる。


——自分は、間違っていない。


そう言い聞かせるように、棚の下段から分厚いファイルを引き抜いた。


生徒指導記録。


何百人もの名前と、「指導内容」と「結果」が整然と並ぶ、成果の証明。


椅子に腰掛け、最初のページを開く。


「授業妨害のため厳重注意。反省文提出」


淡々とした文章。

感情は挟まれていない。

だからこそ、当時は「正しい記録」だと思っていた。


次のページ。


「態度不良のため、本人を厳しく叱責。涙を見せるが、その後改善あり」


改善。

その一言で、すべてが片付いている。


佐藤は、指で紙をなぞった。

文字は揺れていない。

書いたのは確かに自分だ。


だが、ふと違和感が生じた。


——この子は、何を言っていた?


記録には、生徒の言葉がない。

泣いた理由も、黙り込んだ理由も、書かれていない。

あるのは、行動と評価だけ。


ページをめくる手が、少しずつ重くなる。


「甘えを断ち切るため、敢えて突き放す指導を行う」


「体罰に近い指導も辞さず」


息が、詰まった。


当時の自分は、迷っていなかった。

これは必要なことだ、と胸を張っていた。


だが今、その文章は——

言い訳の集合体に見えた。


佐藤はファイルを閉じ、深く息を吸った。

胸の奥が、ざらついている。


立ち上がり、書斎の隅にある姿見の前に立った。

電気の白い光が、現実を容赦なく照らす。


そこに映っていたのは、

背筋を伸ばした、疲れた中年の男だった。


眉間に刻まれた深いシワ。

無意識に、口角が下がっている。


——この顔で、何人の子どもを見下ろしてきた?


そんな考えが、唐突に浮かんだ。


否定しようとしても、言葉が出てこない。

反論の理屈は、どこかへ消えていた。


鏡の中の男は、こちらを睨んでいるようにも見えた。


いや、違う。

睨んでいるのは、自分自身だ。


佐藤は、初めて気づいた。


外から壊されたのではない。

教育委員会でも、家族でもない。


ずっと前から、自分の中に亀裂はあった。

それを「正しさ」で押さえつけ、見ないふりをしてきただけだ。


拳を握る。

だが、怒りは湧いてこない。


代わりに、ぽっかりとした空白が胸に広がった。


——分からない。


今の子どもたちが、

何を怖がり

何に傷つくのか。


どんな言葉が

救いで

どんな言葉が刃になるのか。


自分は、それを知らない。


鏡から目を逸らし、椅子に崩れるように座った。


佐藤正治、五十八歳。

初めて、自分の肩書きを外したまま

そう思った。


このままでは、もう教壇には立てない。


だが同時に、

このまま終わることもできないと。


それは決意というほど強いものではなかった。

ただ、瓦礫の中に残った、かすかな意地だった。


——知らないなら、知るしかない。


教科書も、マニュアルも、もう信用できない。

それでも、自分自身から逃げるわけにはいかなかった。


外の世界は、すでに佐藤を拒絶している。

ならば次は、

自分自身が、自分を直視する番だった。

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