不思議の国のヒロシ

月霧(tsukiri)

第1話 鳥居の向こうの招待状


「今日はつぶれるまで、飲むぞ!」


既につぶれかかった状態で、兄貴はそう言った。正月でもなければ、無制限無定量で飲むことは、ほとんどなくなってしまった。兄弟がそろって正月を迎えるのも、随分久しぶりだ。


「何年ぶりだ? おれたちが揃うのって……?」


弟が言う。酒の回った頭で考えても、ちゃんとした答えは出て来ない。


「あ~……五年ぶり? ……いや、もっとか……?」

「ゆう君が生まれてから、初めてじゃないか?」

「じゃあ、八年以上経っているのか」


年数を数えることに意味なんてない。ただ、揃って飲む酒が旨いだけだ。俺たちは親父に倣って、酒は日本酒と決めている。兄弟らしいところ、兄弟が似ているところは、これくらいだろうか。


今回の正月は、本当に珍しく、兄弟家族全員が実家に里帰りをした。バスが一日何便あるのか、電車も何往復あるのかわからない、絵に描いたような田舎に、俺たちの実家はある。


実家は、農家だ。親父もお袋も、俺たち男ばかりの兄弟に、後を継げとは言わなかった。それに甘えて、俺たちは自由に故郷から離れてしまった。

兄貴は大工、弟は公務員、俺は会社員を続けている。

実家に帰れないわけじゃない。跡を継ごうとしなかった後ろめたさも、俺たち兄弟が里帰りをしにくくなった原因だ。正月どころかゴールデンウイークもお盆も、仕事や家族を理由に帰ることを拒んできた。


「親父が倒れた」


去年の秋、突然かかってきたその電話に、心が乱れた。親孝行したいときに親がいないなんて、誰も想像しようとしていなかったのだ。幸い、親父が倒れたのは、単なる過労だった。夏の異常気象で畑作業も大変だったろうし、収穫の心労も重なったのだろう。


俺たちはみな、今回の正月の里帰りを決めた。そうして集まって、飲み交わしているのだ。親父とお袋は、久しぶりに会う孫たちに首っ丈。兄貴の嫁と弟の嫁は、街の初売りに出かけてしまっている。残された俺たちは、正月番組を見ながら、飲みつぶれるしかないというオチだ。


「ヒロシは結婚しないのか?」

「まずは、相手を探すところからだな」

「兄さんは、本当に仕事人間なんだね」


兄貴も弟も結婚していて、子供がいる。


俺?


三人兄弟の真ん中の俺は、仕事に没頭していて、気が付いたら、四十歳も過ぎた。独身貴族、ってやつだ。『仕事に没頭して』なんて格好いいセリフを吐いているが、エリートではない。もちろん、出世コースに乗っていない。


「誠兄貴や修みたいに、仕事と私事を両立できなかったんだよ。あぁ、ほら、あれだ。『自分、不器用ですから』とか、あるだろ?」


酔いがきつくて、まともに考えがまとまらない。結婚に至るような私事なんて、俺の人生にあっただろうか?


「浩兄さん、真面目だね~」

「公務員の修に、言われたくないね」

「ヒロシもオサムも、会社や役所に、よく勤められるよな」


とりとめのない会話が、だらだらと続く。正月のテレビ番組も、初日の出だの初笑いだの、とりとめのない内容がだらだらと続く。昔は兄弟でテレビのチャンネル権を争い、本気のケンカを繰り広げていたものだ。


俺たちは大人になった。

親父とお袋は、歳を重ねた。


「何かあったら、誰か……継ぐか?」


兄貴が、ぽつりとつぶやいた。

本当は、話し合わなくちゃいけない。わかっているが、今、元気に孫と遊んでいる両親を見て、また、想像できなくなっている。

継ぐか継がないか、ではない。この元気な両親がいなくなってしまうことが、考えられないのだ。


「万が一の時は、万が一が起きてから考えればいいんじゃないのか?」

「それじゃ、間に合わないだろ? 継ぐにしろ、継がないにしろ……」

「だって、ずっと元気かもしれないぞ? あの、二人」

「そうあってくれれば、もちろんそれに越したことはないが……」

「いいんだよ。きっとそれで」


心配する兄貴に、俺は本気でノー天気な回答をする。


「万が一が起きたら、それから考えよう。それまでは、兄弟が三人もいるんだからさ。ちゃんと……後悔しないように、里帰りくらいしようぜ?」

「ヒロシ……」

「確かに、浩兄さんの言う通りかも。まだまだ、元気でいておかしくない歳だし。僕たちが親孝行しようとしなかった罰が、父さんの過労だったのかもね」


田舎で飲む酒は、格別だ。空気もおいしい。正月というイベントも、味わいに深みを出している。浮かれた正月の、俺たちの里帰りのカタチ。


「初詣に行かないか?」

「こんなに飲んでいるのに、出掛けるの?」

「もう少し、飲み足してから出掛けるか」

「これ以上飲んだら、さすがに出掛けられないだろ?」


酔いに酔った俺たち三人が出かけたのは、家から歩いて十分ほどの場所にある神社だった。この神社の裏手には公園があって、子供の頃はみんなが神社と公園で遊んだ。夏には神輿を担ぎ、秋には収穫祭や子供相撲が行われていた。

鳥居から神社まで、長い上り坂になっている。そういえば、ここは何の神様が祀られているのだろう?

正月三が日の、真昼。他の参拝客はいない。太陽の明るさとしんとした雰囲気と冬の寒さが、酔っぱらった俺たちに突き刺さる。吐く息は白く、吸い込む空気は澄んでいて心地よい。


「何を願おうか?」

「おみくじ引きたい」

「宝くじに当たって億万長者」


俺たちは好き勝手なことを言いながら、三人で鳥居の前で立ち止まった。ここから境内までは、長い上り坂である。


「ん?」


まだ、俺たち三人は、鳥居をくぐっていない。見つめる鳥居の向こうに、何やら白い生き物が見える。飲み過ぎの幻覚だろうか。


「ウサギか?」


どうやら俺だけの幻覚ではなく、兄貴にも弟にも同じ生き物が見えているらしい。鳥居の向こうの白い生き物は、ゆっくりゆっくりと動いている。


「あ~……たいへんだ~……。いそがなくちゃ……いそ…」


どう見ても急いでいる速さじゃないそのウサギは、俺たちに聞こえるようにしゃべりはじめた。


『!』


「……えぇと…遅刻しちゃ……う…?」


『遅いわっ!』


ゆったりと動く上に、しゃべるウサギに耐え切れず、俺たちは揃って突っ込みを入れてしまった。


「あのウサギ……」

「?」

「なんか、浩兄さんに似ているよね」


修は、俺とウサギを見比べて、小さく笑った。

白ウサギは、ピンク色の瞳をしていて、黒のベストを着ている。ベストのポケットから、何やらごそごそと取り出そうとする素振りを見せているのだが、大きなお腹にひっかかって、うまく取り出せないようだ。


「中年太りかよ…」


そりゃ俺だって、昔に比べれば、ベルトの上にお腹の肉が乗るようになってしまった。定期的な運動もしていない。おいしいものを食べるのが、唯一の趣味と言ってもいい。

白ウサギはもぞもぞと、ようやくポケットから時計を取り出せたようだ。金色の懐中時計で時間を確認している。しかし、本当に動作がゆっくりだ。


「…急がなく…ちゃ……?」

「全く急いでねぇ」


鳥居の向こう。

俺に似ている白ウサギ。


「本当にあのウサギがしゃべっているのか?」


誠兄貴が言うのは、もっともだ。俺たちみんな、酔っぱらっている。三人揃って、幻覚を見ているのかもしれない。


鳥居の向こう。

俺に似ている白ウサギ。


「どれ、捕まえてみるか」


俺は、白ウサギのそばまで、何の注意も払わずに近づく。酔っていなければ、もっと慎重になっていたのだろうか。

鳥居をくぐった先で、俺は白ウサギと目が合った。


にやり。


緩慢なしゃべり口調と動作からは想像できない、白ウサギの表情だった。


「ヒロシ!」

「浩兄さん!」


二人の声が俺の頭上を行き過ぎる。

俺の足元には、ぽっかりと大きな穴が空いていた。俺は吸い込まれるように、穴の中に堕ちていく。


「あ~…急がなくちゃ……ね!」


だるい声の白ウサギは、俺に続いて、穴に飛び込んでくるのだった。

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