その数字、美意識が足りなくてよ ――会計探偵みつ子の事件簿

@Kobatax

第一章:五月雨と、美しくない端数

1. 繁忙期の憂鬱

窓の外は、朝からしとしとと雨が降り続いていた。五月半ばの神戸は、春の華やぎを終え、梅雨へと向かう重苦しい湿気に包まれている。  


 阪急岡本駅から山手幹線沿いに少し歩いた場所にある、築五十年超のレトロな洋館風ビル。その三階にある「能勢(のせ)会計事務所」の窓からは、晴れていれば六甲山の瑞々しい緑が望めるのだが、今日ばかりは低い雲に覆われて鉛色に沈んでいた。




 だが、僕――鳥居雅之(とりい・まさゆき)にとって、天気など気にする余裕は一ミリもない。  なぜなら現在、当事務所は一年で最も殺気立つ「三月決算法人の申告期限(五月末)」を目前に控え、野戦病院さながらの惨状を呈しているからだ。




 「鳥居さん! 『株式会社六甲ベーカリー』の社長から電話! 『領収書の日付がにじんで読めへんのやけど、これ去年のやろか今年のやろか』って!」


 「あーもう、そんなの僕に聞かれても困りますよ! 小麦粉の仕入れなら納品書と突合(とつごう)してくださいって伝えて!」


 「了解!」




 飛び交う怒号。電話のベル音。レーザープリンターが「ウィーン、シュッ」と熱を帯びた紙を吐き出し続ける、無機質な駆動音。僕はデスクに積み上がった領収書の山を前に、頭を抱えていた。入社一年目、二十九歳。税理士試験には合格しているが、実務経験はまだ浅い「ペーパードライバー」ならぬ「ペーパー税理士」。この繁忙期の荒波は、僕のキャパシティを完全に超えていた。




 「……なんでコンビニのレシートって、感熱紙なんだろう。財布の中で擦れて、印字が消えかけてるじゃないか。『おにぎり』なのか『おしぼり』なのか判読できない……」




 ブツブツと独り言を漏らしながら、僕はコーヒーの染みついたレシートを睨みつける。あっちの社長は決算書が出来上がったあとで、追加で仕入の請求書を送ってきて、こっちの社長は月次で見込みの納税額を伝えているにもかかわらず、決算で確定した税金が多いと泣きついてくる。まさにカオスだ。窓の外の優雅な東灘区の空気とは裏腹に、事務所内だけ戦場の様相を呈している。




「はい、雅之くん。眉間に皺が寄ってるわよ」




 ふと、視界の端にパステルカラーの包み紙が差し出された。顔を上げると、そこには事務所の先輩であり、実質的な司令塔でもある川西撫子(かわにし・なでしこ)さんが立っていた。




 胸元まである黒髪は、流行りのゆるふわ巻きなどではなく、しっとりとした重みを残したストレートヘア。朝きちんと櫛を通したであろう清潔な髪が、邪魔にならないよう、ごく自然に左側で分けられている。服装もまた、彼女の実直さを体現していた。  


 濃紺のシングルジャケットに、膝丈のストレートスカート。インナーは飾り気のない白のラウンドネックブラウス。足元は低いヒールの黒パンプス。 一見すればどこにでもいる「事務職の女性」の装いだ。華やかさも、自己主張もない。


 だが、その無駄のなさと、崩れのない着こなしからは、この混乱の中でも決して揺らがないプロフェッショナルとしての「絶対的な安心感」が漂っていた。




 「糖分補給して。モロゾフのファヤージュよ。アーモンドとヘーゼルナッツ、どっちがいい?」 「あ、ありがとうございます……ヘーゼルナッツで。撫子さんは余裕ですね」 「ふふ、内心はパニックよ。でも、私たちが焦ると数字が逃げちゃうから」




 撫子さんは穏やかで知的、どんなトラブルにも動じない「事務所の羅針盤」だ。三十三歳という年齢を重ねて培われた落ち着いた所作が、僕たちの荒んだ心を癒やしてくれる。僕がクッキーを齧って一息ついていると、窓際の一等席から、場違いに優雅な声が降ってきた。




 「あら、騒がしいですわね。せっかくのダージリン・ファーストフラッシュの香りが台無しですわ」




 そこには、別世界があった。アンティーク調の猫足デスク。その上に置かれたウェッジウッドのティーカップからは、琥珀色の湯気が立ち上っている。  


 声の主は、絹延橋(きぬのべばし)みつ子さん。僕より二つ年上の三十一歳。元上場企業の経理担当という異色の経歴を持つ税理士だ。


 そして何より特徴的なのが、その出で立ちである。淡いベージュのブラウスに、首元にはボルドーのリボン。金髪に染めた(地毛という噂もある)髪は、見事な縦ロールを描いている。まるで、少女漫画から抜け出してきたような「お嬢様」なのだ。




 「みつ子さん……みんな必死なんですよ。少しは手伝ってくださいよ」


 「嫌ですわ。私の担当分は、三日前に全て終わらせましたもの」


 みつ子さんは紅茶を一口含み、ほう、と満足げなため息をついた。




 「それに、数字というものはデリケートな生き物です。心に余裕がない人間が触れると、数字も荒れて、本来の美しい姿を見せてくれませんのよ」




 出た。「数字の美学」。この人は常に数字を「美しいか、そうでないか」で判断する。  僕は心の中で「ここは芦屋のサロンじゃなくて、雑居ビルなんだけどな……」と毒づきながら、自分のモニターに向き直った。


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