私が守りましょうか?

邑山 葵唯

第1話

【一】

 ずきりとした痛みに意識が覚醒した。

 女はゆっくりと瞼を開ける。頭は割れるように痛み、どれだけ瞬きを繰り返しても暗闇は晴れない。

「誰か、誰かいないの? そら?」

 掠れた声が空間に響いた。息子の名を呼んでも返事はない。頬が冷たい床に触れ、やけに寒い。

「あの愚図」

 昨晩のことを思い出そうにも記憶は朧げだ。勤め先のクラブを出てタクシーに乗り込んで、それから……それから?

 思い出そうとするたび、鋭い痛みが走る。二日酔いだろうか? ここまで酷い二日酔いになったことは一度もない。

 もう一度息子の名を呼び、返答がないことに舌を打つ。

 そこでようやく自分の身動きが取れないことに気が付いた。縛られてるわけじゃない。

 それなのに、指一本動かせない。

 ここにきてようやく女の感情に焦りが浮かぶ。頬の筋肉すらぴくりとも動かない。動かせるのは己の唇のみ。

 助けを呼ぼうにも大声は出せそうにもない。


 ぴちゃん、と水滴の落ちる音がして女は小さく悲鳴を上げた。いったいここはどこなのか、つい先ほどまでは自分の家だと信じて疑わなかった。嫌な予感が込み上げる。頬に当たる感触もフローリングとは思えない。もっと冷たいコンクリートのような何か。

 

 かつん、かつんとヒールを鳴らすような音に女はきゅっと唇を閉じた。

 身動きは取れず、暗闇でどこにいるかも定かじゃない。出来ることは口を閉じることのみ。

 本能的に、それが助けではないことは理解できた。

 ぴたりとヒールの音が止む。パチリとスイッチを押すような音がして、視界の端が明るくなった。そこで目隠しされていることを知る。

 誰が、なんの目的で、こんなことを。疑問は浮かぶも、恐怖で言葉にならない。

「お目覚めですか?」

「ひっ……」

 柔らかい声が聞こえた。反射的に悲鳴を上げるも、聞き覚えのあるような声に安堵してしまう。それほど、女に掛けられた声は丁寧で落ち着いていた。

「あの、あのあのここは」

「大丈夫ですよ。心配はいりません」

「ここはどこなんですか?」

「ここは安全です。何も怖いものはありません。貴方を苛立たせるものは何一つ、ありませんからね」

 傍らに声の主がしゃがみ込む気配。それからカチャカチャと何かの準備をしているような音。

 会話が成立しているようで、何も成立していない。

 ゾッと、全身が粟立った。逃げなくては。家には待ってる人がいるのだから。

「帰してください。仕事に行かなくちゃ。颯ちゃんだって家に。そうだ颯ちゃんは? 颯ちゃん、助けて颯ちゃん」

 体に力を込めようとしても、まるで力が入らない。心細くなった女は恋人の名を口にする。

「やはり貴方はそらくんよりも、颯ちゃんなんですね」

「当たり前でしょう」

「安心してくださいと伝えたでしょう? 颯ちゃんもいますよ。貴方の目の前に」

 優しい手付きで目隠しが外された。眩しさに目が眩み、幾度か瞬きを繰り返す。ぼやっとした視界の先に、恋人が寝かされているのが見えた。

 仰向けに、両手をお腹の上で祈るように組んでいる。

「颯ちゃん、起きてよ颯ちゃん」

「貴方はそらくんと颯ちゃんどちらを選びますか?」

「颯ちゃんに決まってるでしょう。そらが欲しいならくれてやるわよ。だから早く帰らせて」

 女は恋人の名を呼び続ける。決して大声ではないが、小さくもない。通常ならば起きてくれるはずなのに、何度呼んでも目を覚まさない。

「わかりました。ではそらくんはわたしが育てましょう。おやすみなさい、日菜子さん」

「颯ちゃん颯ちゃん颯ちゃ…………え?」

 チクリとした痛みと、自身の名を呼ばれた驚き、そして…………聞き覚えのある声。

 女の思考はそこでぷつりと途切れたのだった。

 何かを片付ける音がして、部屋のスイッチが切られる。

 残されたのは眠るように横たわる男女。

 それだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る