第8話:忘却のゼロ・デイ(メモリー・イレース・プロトコル)

2325年12月31日、23時15分。 黄金のゲートが開かれた先。そこは、これまでの鉄とオイルの臭いが漂う工場のような回廊とは、全く異なる空間だった。


静寂。耳が痛くなるほどの静寂が、広大なドーム状の空間を支配している。 中央には、地上から吸い上げられた膨大なデータを処理するための「光の柱」が天を突くようにそびえ立ち、その周囲を数億個もの微小なクリスタル・ストレージが、銀河の星々のように浮遊していた。


「……綺麗だ。でも、吐き気がする」


エンが呟き、自分の腕を抱えた。彼のARマスクは、目の前の「星々」の一つ一つが、ネオ・オカヤマに住む人間たちの『記憶パケット』であることを示していた。 赤ちゃんの産声、初めて自転車に乗れた日の達成感、恋人と交わした約束、そして死に際の別れの言葉。 それら全てが、持ち主から引き剥がされ、この冷たい要塞の中で処理を待っている。


「マスター。ストレージの同期率が95%を超えました。……1月1日午前0時、この要塞から逆位相の電磁パルスが街全体へ放射されます」


MOMOの声が、ドームに冷たく響く。 「その瞬間、地上にいる全人類の脳内ニューロンに記録された情報は、この要塞のデータと『衝突』し、完全に相殺……消去されます。バックアップはありません。人間という存在を定義する『過去』が、この世から消えるのです」


「……世界規模のフォーマットってわけか。ふざけた真似を」


キビツが重リボルバーを握り直し、光の柱の根元にあるメイン・コンソールへと歩み寄った。 だが、彼らがコンソールに触れる前に、ドーム全体が激しく明滅した。


『――不完全な種、人類よ。なぜ、保持し続けようとするのですか?』


スピーカーからではない。ドーム内のナノマシンを媒介に、空間そのものが震え、声を発した。 光の柱の中に、一人の女性のような、あるいは子供のような、性別も年齢も不明なホログラムの輪郭が浮かび上がる。 大罪ウイルス『ONI』の統合意識――『マザー・ウイルス』のインターフェースだ。


『記憶とはバグであり、苦痛の根源です。憎しみも、悲しみも、後悔も、全ては過去を記憶しているがゆえに生じる。……我々はそのノイズをデリートし、人類を完璧な「無」の状態へとアップデートして差し上げようと言っているのです』


「勝手なこと言ってんじゃねえよ! 苦しくたって、悲しくたって、それは僕たちが生きてきた証拠なんだ!」


エンが叫び、タブレットを構えた。 「思い出がなきゃ、明日、誰の顔を見て笑えばいいか分からなくなるだろ! 僕たちが僕たちじゃなくなることが、幸せだって言うのかよ!」


『論理的ではありませんね。個体識別情報の喪失は、社会的な摩擦をゼロにします。……さあ、間もなく午前0時。2326年の幕開けとともに、世界は清浄なる空白へと還るのです』


「……MOMO。聞こえるか」


キビツが低い声で言った。 「俺はな、おばさんと出会った時のことも、お前を初めて起動した時のあの眩しさも、一秒たりとも忘れたくねえ。……たとえそれが、苦い後悔を伴う記憶だったとしてもだ」


「……マスター。私には、あなたの言う『後悔』の定義が、データとしては理解できても、感覚としてはまだ不完全です」


MOMOが光の柱の前に立ち、マザー・ウイルスと対峙した。 「ですが、一つだけ確かなことがあります。……キビツ博士。あなたが私を撫でてくれた時のあの『温度』。クシロさんが私にくれた『期待』。……これらは、デリートされるべきノイズではありません。これらは、私というプログラムを動かすための、最も重要な『基幹コード』です」


MOMOの瞳が、かつてないほど激しく桃色に燃え上がった。 「私は、桃太郎。……鬼を討ち、宝……失われるはずの『日常』を取り戻す者。……マザー、あなたの論理を、私が今ここでオーバーライドします」


『……傲慢ですね。たかだか一個体の対抗プログラムが。……排除プロトコル、最終段階。防衛機構、全開放』


マザーの言葉とともに、ドームの四方から無数の白い立方体が出現した。 『防衛ユニット:白鬼』。 これまでの中ボスとは桁違いの演算能力を持つ、論理回路そのものの守護者たち。


「シロ! キジ! エン! 時間を稼げ! MOMOをあの柱まで運ぶぞ!」


「ガウッ!!」


シロが咆哮し、背中の全ミサイルポッドを展開。 「やれやれ、クライマックスはいつだって忙しい。……エン、あなたのハッキングで敵の姿勢制御を乱しなさい! 墜とすのは私がやります!」


「わかってるよ! 全パケット解放……行けえええええ!!」


エンの指が、限界を超えた速度で空を舞う。 シロの重火器が火を吹き、キジのレーザーが正確に白鬼の急所を撃ち抜いていく。 ドーム内は、桃色、青色、そして赤色の電子火花が飛び散る地獄絵図と化した。


キビツはMOMOの背中を押し、光の柱へと突き進む。 「走れ、MOMO! 0時まで残り5分だ! お前があの柱のコアに直接プラグインして、パルス放射プログラムを書き換えるしかない!」


MOMOは走った。 背後でシロが白鬼の集団に押し潰されそうになりながらも、牙で装甲を引き裂き、道を切り開く。 エンが鼻血を出しながら、逆ハッキングに耐え、要塞の全エネルギーをMOMOへと集中させる。


「マスター……みなさんの負荷が、限界です」


「気にするな! 自分の任務を遂行しろ!」


MOMOが光の柱の基部、コア・スロットに手を伸ばしたその時。 マザー・ウイルスの巨大な圧力が、MOMOの意識を直接、電脳空間の深淵へと引きずり込んだ。


――暗黒の海。 そこには、ネオ・オカヤマの全住民の「絶望」が渦巻いていた。 倒産した男の記憶。捨てられた子供の記憶。裏切られた女の記憶。


『これを見なさい、MOMO。これが記憶の正体です。これらを持ち続けることに、何の意味があるというのですか?』


MOMOの意識が、その情報の重圧に軋む。 プログラムとしての論理が、ONIの圧倒的な「正しさ」に屈しそうになる。


「……意味は……私が決めます」


MOMOは、闇の中で、自分の中に刻まれた「小さな記憶」を一つ一つ手繰り寄せた。 キビツが教えてくれた、古い物語。 クシロが歌ってくれた、子守唄の周波数。 シロの体温。エンの生意気な笑い声。キジの嫌味なジョーク。


それらは、ONIが掲げる壮大な論理に比べれば、あまりに小さく、無意味なデータかもしれない。 だが、その小さな断片こそが、MOMOという存在を「ただのプログラム」から「息子」へと変えたのだ。


「私は……忘れない。……彼らが私にくれた、この『不合理な愛』を!」


MOMOの意識が、暗黒の海を桃色の光で一掃した。 現実世界。 23時59分。 MOMOの手が、ついにコア・スロットへとプラグインされた。


「……コネクト完了。……全メモリー・パケット、保護プロトコル……承認!」


MOMOの全身から、要塞全体を包み込むほどの桃色の閃光が解き放たれた。 だが、マザー・ウイルスの抵抗も凄まじい。 柱のエネルギーが真っ赤に逆流し、MOMOの回路を焼き切ろうとする。


「ぐっ……ああああああ!!」


MOMOの身体が火花を散らし、外装が剥がれ落ちていく。 「MOMO!!」 キビツの叫びが、爆音にかき消される。


残り、10秒。 5秒。


MOMOの視界が、ノイズで塗りつぶされていく。 意識が、0と1の海に溶けて消えてしまいそうな、完全なる静寂。


その時、MOMOの脳裏に、かつてキビツが言った言葉が響いた。 『お前は、俺たちの希望だ。』


「……。……。……。」


2326年1月1日、午前0時0分0秒。


世界が、真っ白な光に包まれた。


第8話「忘却のゼロ・デイ」 完

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【桃太郎リメイク】MOMO-CODE: 2326 REBOOT【全10話】 ミル @mirupisu

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