短編置き場
早川隣
ゴールテープ
目を覚ますまでの一日ちょっと、じっと暗い闇の中で膝を抱えていた。
体の表面から冷たさが染み込んできて、「ああこれが死というやつなのか」と心まで冷え込んでいく。
黒い絵の具の中に身を投げたような空間にはひとつも灯りはなかったけれど、大したことない人生の走馬灯がぼんやり浮かんで消えていった。
──こうして私は、誰にも見つかることなく死んでいくんだ。
そんな諦めが濡れた服みたいに纏わりついて、それが私の気分を一層暗くする。
けれど、それは唐突に降ってきた。光じゃない。声だった。
「なにしてんの、こんなところでさ」
温度のない声だった。
私は、声のする方へ顔を上げる。当然真っ暗だから顔なんて見えない。けれど微かな空気の動きから、そこに間違いなく何者かがいるということが理解できた。
「誰」
私は短く問いかける。
「さあ。行くよ」
その人は短く答えた。
「行くってどこへ」
「さあ。でも連れてこいって言われたから」
その人の声は、ひどく中性的だ。男性とも女性とも取れる、不思議と心地いい声。温度はないけれど、聞いていると安心する。
その人は「立って」と私に言う。私はその言葉に大人しく従った。
「こっち」
ぎこちなく立った私の手首を、なにかが掴んだ。なにかが、いや、その人が掴んだのだ。私の手首を随分と力強く掴んでいるのはその人の手のひらだ。
「ねえ、誰なのあなた。なんて呼んだらいいの」
「さあ。適当にして」
「じゃあやみこって呼ぶよ、いいの」
闇の子で、やみこ。安直すぎる。自分がそう呼ばれたら爆笑して拒絶するところだ。
けど、その人は笑わなかった。拒絶もしなかった。
「いいよ。なんでも」
本当になんでもいいらしい。変なの。
「……やみこ、どこへ行くの」
「さあ。でももっと明るくて暖かいとこ」
「ここはどこ?」
「さあて、ねえ」
「死後の世界ってやつ?」
「それはちょっと、違うかなあ」
はは、と笑ってやみこは言葉を続ける。
「君が帰りたい場所はどこ」
「……帰りたい場所は、家」
「家? 君迷子なの」
「迷子じゃない。病気だから入院してる」
「へえ。治りそう?」
「大人はそう簡単に治らないって言ってる」
「へえ、治るといいね」
「……そんなに簡単に治ったら、今まで必死に病気と闘ってきたのが馬鹿みたいじゃん」
「……治りたくないの?」
心底理解できない、と言った声音だった。
「そんなことない。でも、なんかすごいハードルを乗り越えてから治らないと、今までの自分が惨めになる」
「惨めになる?」
「うん。いろんなことを諦めてきたのに、ぽんとなにもかも嘘みたいに治ったら、今まで我慢してきた自分が可哀想じゃない?」
「ひねくれてるなあ。素直に喜んだらいいのに」
「わかってないなあ」
そう答えれば、乾いた笑い声がする。
「君ここそ、わかってないなあ」
心底楽しそうにやみこが言った。
「なんかすごいハードルを乗り越えるのは君じゃあない。ほら、見てごらんよ。上だ!」
その言葉と共に、ぶつりとなにかの組織が切断される音がする。
音に驚いて視線を上げれば、光があった。
暗闇が裂けるみたいにして、白い、白い光がそこにあった。
まっすぐに、白線みたいに、ゴールテープみたいに、暗闇に白い光が走っている。
「ハードルを飛び越えた周囲に感謝して、君も立ち上がりなさい」
その言葉のした方に目線を投げる。
……そこには、ベッタリと黒塗りにされた影のようなものが立っていた。
「ああ、バレてしまったね。『やみこ』はもはや、なんでもないということが」
影は私の手首から手を離す。
「なんでもないって、なに……?」
「なんでもないはなんでもないだ。もはやそこには意識なんてないという意味だ」
やみこは私に口を挟ませない。
「君はまだハードルどころか、走り出してすらいない。スタートを切るんだよ。特別にスタートの時にもテープを切らせてやるからさ!」
その言葉を飲み込み切れずに、白い光へ再び目をやった。
その瞬間、私は、目を覚ましたのだ。
***
青桐真美子。享年十八歳。
彼女は死んだ。
病気でもなければ自殺でもない、青天の霹靂と言うべき事故だったそうだ。
正確には死んだのではなく脳死だったのだが、運転免許証に記載された意思表示と家族の意向により臓器提供の対象となったらしい。
運よく綺麗に残った心臓は十六歳の女性に移植されて今も動いている。
***
田上みさき。現在十九歳。
私は生きた。
心臓病を患い、移植を受けられなければ長くは生きられないと診断された。
ままならない人生を諦め、このまま死んだって仕方がないと薄暗い日常を送っていた。
十六歳の時に運よく心臓を移植され、なんとか生きながらえている。
***
私は、青桐真美子の顔を見たことがない。
彼女は私に多くのものをもたらしたが、その真の姿は謎に包まれている。
……なんていうとどうにも格好よく感じるが、なんてことはない。どれだけ手紙を送っても青桐真美子の家族が返事を送ってこないのだ。
当然というか、ドナーやその家族とレシピエントはそうベッタリ仲良くするものでもない。むしろ対面する方が珍しいと言えるだろう。
私は当然のように彼女のことを知らないまま三年過ごした。
私は今、高校生をしている。
病気が悪化して人生をすっかり諦めていた私は高校受験をしなかったので、一年遅れての入学となったのだ。
現在は大学受験のため必死で勉強する日々を送っている。
スタートを切れ、と、やみこ──推定青桐真美子──は言った。
ハードルを乗り越えたのは周囲であって私でない、と。
その通りだと、今になって思う。
私は闘病していたが、周囲だって一緒に私の病気と闘っていた。医者や看護師、家族。
入院中の娘に付き添うために、母は仕事を早くに辞めている。医療費に関しては控除があっただろうが、医療以外にも金はかかる。一馬力で家族を養った父も、それはそれは苦労したことだろう。
己の人生を歪めながらも私の命を諦めなかった両親への感謝は計り知れない。
そして、それ以上の感謝を抱く相手がいる。無論、青桐真美子である。
私は、あの暗闇から目を覚まして事情を把握した時、「彼女に恩返しがしたい」と強く思った。彼女と同じように、この命で誰かを救いたいと。
けれど私は、誰かに心臓をあげることはできない。
もらった命を誰かに与えることは許されない。
誰かの血が混ざったこの体では、献血すら受けることはできないのだ。
だから私は、彼女の報いるために生きなければならない。
生きて、なにかを成さなければならない。
青桐真美子がどのような人で、なにを望んでいたかはわからないけれど、少なくとも人生を投げ出すことを望んだ人ではないだろう。
だからせめて人生のゴールテープが待ち構えるところまで、私は走っていかなければならないのだ。
道中にどれほど高いハードルがあろうとも、せめてレーンを外れることがないように。闇の中でじっと蹲ることのないように。
私は精一杯、前を向いて進み続けるのだ。
短編置き場 早川隣 @Tonarishobo
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