愛の貯金箱(ラブ・ストック)~愛に飢えて死んだ僕は、神様に過剰な加護をもらいました~

蜷川

第1話 愛を知らずに死んだ僕と、白銀の騎士の狂熱

 その部屋には、体温というものが存在しなかった。  煤けた天井、湿った床、そして窓の隙間から吹き込む、刃物のように鋭い冬の風。


 ――寒い。  ――お腹が空いた。  ――痛いのは、もう嫌だ。


 小さな、あまりに小さな「僕」の身体は、ボロ布のような服一枚で、その極限の苦痛に耐えていた。


 隣の部屋からは、僕を産んだはずの男女が酒を飲み、笑い合う声が聞こえてくる。  「あんなガキ、いなけりゃよかったのに」

「本当に。死ねばいいのにね」


 そんな、呪いのような言葉が僕に向けられた最後の「愛」だった。


(……ああ。やっと、終わるんだ……)


 意識が薄れていく。


 愛されたかった。一度でいいから、あたたかい手で頭を撫でて欲しかった。


 そんなささやかな願いすら叶わぬまま、僕は静かに、暗い深淵へと沈んでいった。





「――いいえ、終わらせないわ」


 不意に、鈴を転がすような、けれどどこか重苦しい情愛を秘めた声が響いた。  目を開けると、そこは一面の白銀の世界。


 目の前には、慈愛に満ちた――けれどその瞳の奥に、獲物を狙うような歪な光を宿した、圧倒的に美しい女神が立っていた。


「私は女神。あなたの人生があまりに哀れで……そして、私好みの『飢え』を抱えていたから、チャンスをあげることに決めたわ」


 女神が、僕の震える小さな頬を、羽毛のような手付きで撫でた。


「次の世界では、あなたは誰からも愛され、尽くされ、奪い合われる存在になるの。……これは私からのギフト。大切に使いなさいね?」


 女神の手が、僕の胸へと押し当てられる。


 その瞬間、心臓の奥に熱い「何か」が埋め込まれた感覚があった。


「それは【愛の貯金箱(ラブ・ストック)】。他者から向けられる愛、好意、そして『独占したい』という狂おしい情欲……それら全てを、あなたの魔力として蓄積し、力に変える能力よ」


「……愛される……? 僕が……?」


 信じられなかった。そんな奇跡、僕のような存在にあるはずがない。


「そうよ。さあ、行ってらっしゃい、愛しい子。……次の世界では、もう寂しい思いなんてさせないわ。……いいえ、寂しいと思う暇もないほど、愛されなさい?」


 女神が妖しく微笑み、僕の背中をそっと押した。


 眩い光が弾け、僕の意識は再び深い闇へと吸い込まれていった。


 次に目を覚ました時、僕の肌を叩いたのは、冬の床ではなく湿った森の空気だった。


 目を開けると、そこは巨木が立ち並ぶ異世界の森。


 自分の手を見ると、以前よりもさらに小さく、けれど傷一つない、抜けるように白い肌をした子供の手になっていた。


「ここは……?」


 戸惑う僕の声を遮るように、茂みの奥から低い、おぞましい唸り声が聞こえてきた。


 ――グァアア……ッ!


 現れたのは、大人の背丈ほどもある巨大な狼の魔物だった。


 飢えを隠しきれない赤い瞳。鋭い牙が、僕という小さな獲物を捉える。


 前世の恐怖が、一瞬にしてフラッシュバックした。


 逃げなきゃ。そう思うのに、足が竦んで動かない。


「……っ、ああ……」


 狼が、僕を捕食者として認識し、跳躍した。  死を覚悟し、瞳を強く瞑ったその瞬間――。


「――我が聖域を汚す不浄なる獣め。消え失せろ!」


 雷鳴のような叫び。


 凄まじい風圧と共に、銀色の閃光が視界を横切った。


 一拍遅れて、狼の悲鳴が森に響き渡る。


 恐る恐る目を開けると、そこには狼の巨体を一刀両断し、悠然と立つ背中があった。


 月光を跳ね返すようなプラチナブロンドの長髪。


 隙なく磨かれた銀白のフルプレートアーマー。


 その女性は、ゆっくりと剣を振り、付着した血を払ってから、こちらを振り返った。


「…………っ!?」


 彼女の動きが、一瞬で凍りついた。


 凛としたライトブルーの瞳が、大きく見開かれる。


 彼女はまるで雷に打たれたように、手にした剣をその場に落とし、ガシャリと音を立てて跪いた。


「なんだ……。この感覚は……。この胸の痛みは……なんだというのだ……!」


 彼女の視線は、恐怖に震える僕を射抜いていた。


 その瞳には、騎士としての慈悲だけではない、もっと強烈で、もっとどろりとした「熱」が宿っている。


「ご、ごめんなさい! 邪魔をして、ごめんなさい……っ!」


 僕は恐怖のあまり、地面に額を擦り付けた。


 前世で、暴力から逃れるために繰り返した、生存のための無意味な謝罪。


「僕、何でもします。役に立ちます……。だから、叩かないで……。嫌わないで……捨てないでください……っ!」


「――っ!」


 その言葉が、彼女の理性の糸を切った。


 彼女は狂ったような速さで僕に歩み寄り、その白銀の鎧ごと、僕の小さな体を抱きしめた。


「ああ、なんてことだ……。君のような尊い子が、捨てられるなど……そんな事があるはずがないだろう……!」


 ガチガチと鳴る鎧の硬さ。


 けれど、その隙間から伝わってくる彼女の体温は、驚くほど高く、震えていた。  彼女の腕は折れそうなほど強く僕を拘束し、その顔を僕の首筋に埋めて、深く、深く呼吸をする。


「安心しろ。……私が、私たちが、君を守り抜く。……この世の全ての悪意から、私が、君を隠してあげる……!」


 彼女の腕の中で、僕の頬が彼女の鎧の胸当てに押し付けられる。


 硬い金属の感触。けれど、その奥には、信じられないほど豊かな「肉の柔らかさ」があるのが分かった。


 僕は、その密着感と甘い香りに顔を真っ赤にして硬直する。


「……名を。名を教えてくれ、我が愛しき光よ」


 彼女は僕の肩を掴み、至近距離で見つめてきた。その瞳は潤み、頬は紅潮している。


「な……ないです。名前なんて、一度も、もらったことが、なくて……」


 僕がそう答えると、彼女は恍惚とした表情を浮かべた。


「……そうか。ならば、私が。私が君の唯一の家族として、生涯君臨する名を与えよう」


 彼女は僕の額に、自らの額を重ねた。


 熱い吐息が、僕の唇を掠める。


「君の名は、ルカだ。……私たちの、希望の光の名だ」


 ルカ。


 初めて自分を定義する言葉が与えられた瞬間、僕の胸の奥で黄金の光が弾けた。


『【愛の貯金箱】が、聖騎士エルザの「狂信的な庇護欲」を感知――』

『魔力が爆発的に上昇。……【天使の羽】の第一階梯をアンロックします』


「ル、カ……。僕の名前、ルカ……」


 自分が愛されている。その実感が、貯金箱を通して僕の身体を熱くしていく。  エルザは満足げに微笑むと、僕を抱え上げたまま立ち上がった。


「私はエルザ。銀翼聖騎士団を率いる団長、エルザ・ヴァレンタインだ。さあ、行こう、ルカ。……もう、何も恐れることはない」


 エルザは僕の顔を、自身の鎧に押し込められた豊かな胸元へ押し付け、誰にも見せまいとするようにマントで包み込んだ。


 僕は彼女の強烈な芳香と、鎧越しに伝わる暴力的なまでの母性に呑み込まれながら、騎士団のキャンプへと連れ去られていった。

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