ヴァレンティア記
@Haruuika
第1話 北の番犬
木小屋の粗末なテーブルは、置いていた手を離すと、ガタリと音を立てて傾いた。
薪ストーブの赤々とした炎が部屋を照らし、飲みかけのスープはまだ湯気を昇らせている。
火の方に手をかざしながら、ユーリは界溢(かいいつ)番の詰所は想像していたよりもずっと快適だと思った。
ユーリの出身地である北方でこの任に就く者は、罪人や素性の知れないならず者も多いが、子供の頃によく凍傷で失われた指数の足りない手や足を見せられては、脅かされ揶揄(からか)われたのを思い出した。「冬の界溢は地獄よりひどい。」禿げ上がった刺青入りの強面を寄せながら、よく自分にそう言い聞かせてきたボーライの親父の顔が頭に浮かぶ。父の古い友人だったが、2年前、まさに雪深い森の中で死んでいた。
それにひきかえ、ここアステリアの土地は遥かに暖かく、ユーリはこの分なら自分は指を落とさずに済みそうだと軽い安堵を覚え、残りのスープを飲み干した。
街には僧侶が常駐している教会もあれば、差入れをよこしてくれる自警団もある。
「アイス・エッジに憧れたか?」
先輩討伐士であるガルドが尋ねた。
「…いえ、別に。ただ食い扶持を求めただけですよ」
言ってから、この後の会話の展開を想像すると、ユーリは同意しておいた方が良かったかと少し後悔した。
「ノルドの出身者で討伐士になっておきながら、珍しいな」
試すような、値踏みするような、そんな口ぶりだ。
「地元だと良いことばかりを見聞きするわけではありませんのでね。おっかないもんですよ。でも、そうですね、結局こうしてるってことは、僕もノルド人だったってことだとは思います」
多少郷土への誇りを隠しながらふざけた調子でそう答えると、ガルドは得心がいったように静かに笑った。
実際、ユーリの父も兄も討伐士だった。中でも兄のラキルは剣技に優れ、若くしてアイス・エッジの一員となった一族の自慢だった。
過酷な環境であるノルドレイムの中でも最北の国境で、魔物と異民族を迎え撃つノルドレイムが誇る討伐士隊。ノルドの子供なら誰もが一度は憧れ、他国にもその名を知らしめる誉高い部隊である。
ユーリも当然、父や、特に兄の背を見て強くあこがれていた。10年前の大界溢で兄がその愛用していた剣だけとなって戻って来るまでは。
「そろそろ交代だ。準備しろ」
先ほどまで寝台で横になっていたサラが、白い毛皮の外套を羽織りながらそう告げた。
ユーリは何故自分がこうしているのか改めて考える間もないまま、腰のロングソードを確認して外套を羽織ると、戸口へと立った。
霜熊(フロストベア)の暑皮鎧に氷狼(アイスウルフ)の白い外套。黒いブーツや手袋の内側は雪国のポーパルバニーの絨毛が張られている。
ノルドレイムほどではないが、それでも夜の冬の外気は冷たい。
「ユーリ、指示があるまでは剣を抜くのを禁じる。万が一のとき、貴様はここに戻って応援を呼んでもらう」
「了解」
柄に添えていただけの左手を、無意識に握り込んだ。
「心配するな、どうせ抜く暇もないまま終わる」
あくびを噛み殺しながらガルドはそう言って、戸を開いた。
冷たい外気が流れ込み、軽く身を震わせる。
だがこの身震いは寒さだけによるものではないことをユーリは知っていた。
「行くぞ」ランタンを手にした隊長であるサラを先頭に、詰所を出て森の小道へと入る。
界溢に接近すること自体は初めてではない。昔、父と兄がまだ同じ部隊にいた頃、隊長を務めていた父が今回のような小さな現場へとユーリを連れてきてくれたことがあった。夏のことで寒くはなかったはずなのに、界溢付近独特の、獣の気配が消え、妙な悪寒がするあの感覚。楽しみにしていた幼い頃の自分が、界溢に近づくにつれ、来たことへの後悔を募らせていったのをよく覚えている。
「怖いか?新人」
不意な問いかけに、過去の思い出からユーリは我に帰った。
余程不安そうに見えたのかもしれない。
「いえ…ただ、この変な感覚は、ちょっと嫌ですね…」
「この規模でそれを感じられるなら、才能あるかもしれんな。でも強がりではなく本当に恐怖がないなら、惜しい、プラマイゼロだ」
「ハハ…ごめんなさい、本当は結構怖いです」
不思議と、それほど恐怖というものはなかった。皆無といったら嘘になる。魔物の恐ろしさは兄のことをはじめ、北方の出身である以上十分知っている。しかしユーリには、自分でも不思議なこの落ち着きが、想像力の欠如からくるものではなく、何か別の要因によるものであることを確信していた。それが具体的に何であるのかは、分からなかったが。
しばらく進むと、幾つかの松明によって照らされた少し開けた場所へと出た。
中央を取り囲んでいた三人の討伐士がこちらを振り向く。
「ご苦労だった。交代だ」
サラがそう言うと初老の男の顔に笑みが溢れた。
「ようやくか、足が棒になっちまうところだったぜ。結局ゴブリン一匹だけだ」
「そうか。嗅ぎ犬は?」
「ああ、さっき様子を見に来た。もうすぐ閉じるってよ。俺たちは詰所に戻ったら少し酒を飲んでるぜ」
「好きにしろ」
「ありがてぇありがてぇ。それじゃあな、あとは任せた」
三人の討伐士は小道へと入り詰所へと戻っていった。
静寂が戻ると、あたりの空間の違和感が際立った。鳥や獣が離れ、ひりつくような異様な静けさがあたりを満たしている。
時折傍で燃えている小さな焚き火の薪が、燃え爆ぜる音だけが響いた。
数十分後、異変はなく退屈したガルドがユーリに近寄って話しかけた。
最初はあまり歓迎されいていないと感じていたユーリだったが、その傷跡の幾つかある無骨な顔面とは裏腹に、案外話好きなのかもしれなかった。
「もう閉鎖間近だってからこのまま何もないかもな」
「それは残念ですね」
「まぁ、出たところでゴブリンかせいぜいワーウルフ程度だけどよ」
「にしても、俺らが寒い中、こうして命まではって働くよりも、商人どものが稼ぐんだから納得いかねえよな」
「そうですね。でも下っ端商人はそうでもないかもしれませんよ。友人が一人商人ギルドの運送局で運び屋やってますけど、割に合わないっていつもぼやいてますもん」
「へぇ、大陸商連か?」
「です」
「かー、下々のもんはどこも似たようなもんかね」
突然、強烈な違和感がユーリを襲った。悪寒が全身を駆け巡り、思わず固唾を飲んだ。
無駄口を叩いていたガルドもそれを感じとったのか、黙って中央の空間を睨みながら一歩前に出る。
「来るぞ。ガルド、構えろ。ユーリは後退して様子を窺え」
サラとガルドが剣を抜き中央を見据えながら構える。中央の空間の光が屈折して歪んだかと思うと、間も無くそれはガラスが浮き出てきたかのように、透明な形を浮かび上がらせていく。
胴体のような部位から2本の脚に爪、長い尾に長い首、頭部、そして、ーーー広い翼。
「おいおい…!この規模で話が違うぞ!ワイバーンじゃねぇかよ!」
「騒ぐな!実態化したら即攻撃を加える。ユーリ!すぐに応援を呼びに行け!」
サラがユーリの方を向いて命令を飛ばす。駆け出そうとしたが、先ほどまで透明だった中央の魔物が黒い表面を現しており一瞬目を奪われた。
「サラ!思ったより早い!もう実態化するぞ!」
「チィッ。行け!ユーリ!」
雄叫びとともに二人が魔物へと切り掛かるのと同時に、ユーリは踵を返して小道へと飛び込んで詰所をめざした。
薄暗闇の中を全速力で走りながらユーリの脳裏に即座に疑問が浮かぶ。
走って応援を引き連れて、戻ってくるのに少なくみてもおよそ10分はかかる道のりだ。果たして二人だけでそれまで持ち堪えられるだろうか?ワイバーンは中規模以上の界溢でしか出てこないはずで、少なくとも熟練の前衛3人以上に魔導士もいておかしくない。
ユーリの脳は明確に否を提示していた。
命令に背く事の重大さは重々承知している。実戦経験のまだ無い自分一人が戻ったところで、全滅の可能性の方が大きい。それでもユーリは詰所へと向かう足をいつしか止めていた。兄は何故死んだ?自分が側にいれば救えたのではないか?子供の頃から繰り返し問い続けてきた問が頭をよぎる。自分は少しでも兄のような人間を減らすために、志半ばだったであろう兄の意志を継ぐために、兄の死後も剣の鍛錬を続けてきたのではないのか?結局討伐士になったのも…
気がつくとユーリは剣を抜き再び来た道を戻っていた。
広場にもどるとガルドがワイバーンに踏みつけにされ、サラが一人で応戦していた。サラは、翼をはためかせながら襲ってくるワイバーンの牙をロングソードでいなしてはいるが、ワイバーンの注意がそれずに一対一の状況のため中々踏み込めずにいる。ガルドは意識はあるようだが、傷を負っている上にワイバーンの力が強く身動きが取れないようだ。
まだ魔物も二人も自分に気が付いていないことを悟ったユーリは、木陰に一度身を隠すとワイバーンの背後へと回り込んだ。
ある程度主要な魔物の特徴は把握している。ワイバーンは背面が硬い鱗に覆われいているため鱗の無い懐に飛び込むのが最良だが、背後から攻撃するなら、下から上に突き上げる形で正確にその鱗の隙間を通すしかない。
ユーリは攻撃のために状況を確認しようとワイバーンに目をやった。仔細に観察すると、この状況について、より正確な意味するところが見えてきた。
まず二、三流血していることから実体時の先制攻撃は倒し切るには至らなかったものの、成功しているはずだ。
そしてガルドはただ踏みつけられているのではなく、しがみついて飛翔を阻止しているようだ。部隊の全滅よりも、すぐさま飛ばれて街が襲われることの方を絶対に避けなければならないと判断し、おそらく実体化と同時に羽ばたきはじめたワイバーンの翼か脚部に攻撃すると同時に、しがみついて自分が重しとなった結果今の状況になったのだろう。それほど巨体ではないこのワイバーンは大人一人を軽く運ぶほどの飛行力はないし、それに地を上手く蹴れなければ飛翔するのに時間がかかりその間隙を晒すことになる。
ワイバーンとしてはガルドごと飛ぶにせよ、邪魔なガルドに攻撃を仕掛けるにせよ、どちらもサラに隙を晒すことになるためそれが出来ない。現にすでにそれで一発貰ったのか、サラをやけに警戒している。つまり、ワイバーンの注意はすでに他にさく余地がないことになる。しかしそれも、爪が食い込みガルドがいつまでもつか分からないため、あまり猶予はないだろう。
状況を整理すると、剣の柄を両手で握り込んで、ユーリは一つ深呼吸をした。
「セラの光よ、我が剣を導きたまえ。試練の炎の中で、汝の慈愛を忘れず」
兄が教えてくれた戦場での祈りの文言を囁きながら、ユーリは静かに飛び出すと、ワイバーンの背をめがけて走りだした。
「弱き者を守り、己を捧げん。我が剣に慈愛を、試練に力を…うおおおお!」
漆黒のワイバーンの背を貫いた。鱗の隙間から剣を滑り込ませ、確かな手応えが返ってくる。やがて重さが剣に乗り、思わず手を離すと、ワイバーンは地に倒れた。
見ると手が激しく震えている。
自分でも想像以上のそれに、思わず笑ってしまう。
傷口を抑えたガルドと笑みを交わし、驚きで目を丸くしているサラと視線を合わせた。
サラが普段通りの冷たく鋭い表情を取り戻すと、口を開いた。
「貴様、応援はどうした?」
「すみません、僕です」
「ハッ、上出来だ」
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