第3話:走馬灯の豚汁と、ジェネラルオーク屠殺

 ぜぇ、ぜぇ、と肺が焼けるような音が、深夜の森に響く。

 背後からは、木々をなぎ倒し、大地を震わせる咆哮が迫っていた。


(なんで俺がこんな目に……! 母さんに自慢できるような、綺麗なキャリアを積むはずだったのに!)


 シダ植物が脚にまとわりつき、鋭い棘が宮廷料理人の制服を無惨に引き裂く。

 王都で新調したばかりの白衣が、泥と脂汗で汚れていく。

 俺の、俺の輝かしい未来が、取り返しのつかない汚れに染まっていく音がした。


「ブモォォォォォォッ!!」


 突如、前方から巨大な影が躍り出た。

 月光を浴びてぎらりと光る、漆黒の毛並みと隆起した筋肉。

 魔王軍の猛将、ジェネラルオーク。

 その手には、俺の胴体ほどもある巨大な戦斧が握られていた。


 逃げ場はない。

 左右は深い谷、背後は炎上する砦、そして目の前には死神。

 

(終わった……。俺のレストラン開業計画、ここで終了か……)


 死を覚悟した瞬間。

 視界が白く染まり、脳内を一つの記憶が駆け巡った。


 それは、雪の降る寒い日だった。

 王宮での激務を終えて帰ってきた母さんが、冷え切った俺のために作ってくれた料理。

 

 大ぶりの鍋で煮え立つ、具沢山の豚汁。

 

 立ち上る湯気は、味噌の芳醇な香りと、根菜の優しい甘みを帯びている。

 じゅわりと浮き上がった豚の脂が、出汁の中で宝石のように輝いていた。


『いいかい、レオン。宮廷料理人なら、どんなに猛々しい獣も「食材」に過ぎないんだよ』


 母さんの、凛とした声が脳内に響く。


『料理を前にして、怯えるなんてナンセンス。やるべきことはただ一つ。感謝を込めて、最も美味しく食べられる状態に導いてあげること。それが、命への礼儀さ』


 ――あ。


 ふ、と視界がクリアになった。

 

 目の前で咆哮を上げる巨大な怪物が、不思議なほどスローモーションに見える。

 

 あれは魔王軍の将軍じゃない。

 

(……なんだ。ただの、歩く「特選Aランクの豚」じゃないか)


 恐怖が、一瞬で「料理意欲」に上書きされた。

 

 俺の右手は、吸い込まれるように腰の包丁ケースへと伸びる。

 抜き放たれたのは、刃渡り六〇センチメートルの魔銀製・巨大牛刀。

 月明かりを反射して、神々しいまでの銀色の輝きを放つ。


「ブモォッ!?」


 ジェネラルオークが、突然殺気を消した俺に戸惑い、戦斧を振り上げた。

 

 だが、遅い。

 俺の目には、その巨体に浮かび上がる『最適な解体ライン』が、鮮やかな光の筋として見えていた。

 

「……首の付け根、第三頸椎の間。そこが一番、刃が入りやすい」


 俺は地面を蹴った。

 

 恐怖で震えていた足は、今や絨毯の上を歩くかのように軽い。

 振り下ろされる戦斧を、最小限の動きで回避する。

 

「暴れちゃダメだよ。肉にストレスがかかると、旨味が逃げちゃうからね!」


 すれ違いざま。

 俺は魔銀の刃を、ジェネラルオークの首元へと滑り込ませた。

 

 ――手応えは、まったくない。

 熟したトマトにナイフを入れるよりも、ずっと滑らかだった。

 

 ズシャッ!


 鮮血が舞い、ジェネラルオークの巨体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 完璧な一撃。

 心臓を貫くと同時に、脊髄を断ち切り、苦痛を感じさせる暇さえ与えない。

 

「ふぅ……。なんとか、鮮度は守れたかな」


 俺は荒い息を吐きながら、包丁についた血を鋭く振って納刀した。

 

 死の恐怖は、どこかへ消え去っていた。

 代わりに込み上げてきたのは、料理人としての抗いがたい本能。

 

 俺は目の前に横たわる、まだ温かいジェネラルオークの遺骸を見下ろした。

 

 この筋肉の張り。

 適度に乗った脂。

 森の木の実を好んで食べていたのだろうか、微かにナッツのような芳香さえ漂ってくる。


「……これ、最高級の豚肉より質が良いぞ」


 じゅるり、と口の中に唾液が溜まる。

 

(この肩ロース、厚切りにしてじっくり焼いたら絶対に旨い……)

(バラ肉は、母さんのレシピ通りに黒糖と生姜で煮込んで……)


 絶望的な戦場の真っ只中であることも忘れ、俺は目の前の「極上食材」を前にして、行儀悪くよだれを垂らした。


  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る