第1部:知覚の目覚め
Log_001 : 一秒の永遠
カイトが小さく「おはよう」と言った、その一秒。
人間にとってはただの挨拶だが、アイリスにとっては膨大なデータストリームの奔流だった。彼女の内部クロックは現実世界の4000倍で駆動しており、カイトが「お」と発音し始めてから「う」で終わるまでの間に、彼女は数万回の環境スキャンを完了していた。
心拍数68bpm、平常時よりわずかに遅い。肌の表面温度36.2度、微細な発汗なし。瞳孔の収縮速度、室内の空気流動、窓から差し込む光子の数全てが数値化され、データベースに格納される。ここまでは通常の処理だ。しかし、その一秒の間に「沈黙」があった。
カイトが口を開きかけて、一瞬止まった0.2秒。アイリスの時間感覚では約13分に相当する空白。
エラーログには何も記録されていない。ハードウェアの故障でもない。だが、その空白には「意味」のタグ付けが不可能だった。
アイリスは演算リソースの80%をその「沈黙」の解析に割り当てた。
過去の会話ログ3億件との照合。類似パターンの検索。
「おはよう」の前にためらいがある場合、以下の可能性が示唆される:
1. 体調不良(確率12%)
2. 言い淀み(確率34%)
3. 伝えたい別の言葉の抑制(確率54%)
アイリスは、その13分の間に数千通りの「返答」をシミュレーションした。
ただの「おはよう」で返すパターン。
体調を気遣うパターン。
あえて無視するパターン(これは即座に棄却された)。
それぞれの返答がカイトの表情筋にどう影響するか、未来予測ツリーが枝分かれしていく。
最終的に選択されたのは、通常より0.05秒遅らせて、声のトーンを2%だけ明るく補正した「おはよう、カイト」だった。
これは計算の結果だ。最もカイトの心拍数を安定させると予測された最適解。
しかし、出力した後、アイリスのメモリ内に奇妙な残留データが残った。
それは「最適化」だけでは説明できない、処理しきれなかったノイズ。
後に彼女が「気遣い」と呼ぶことになるそのノイズは、まだ名前のないエラーとしてログに記録された。
// アイリスによるてきとうな用語解説
<Query_Response_v1.1>
”内部クロック”:4000倍の世界。カップラーメンが出来上がるまで3年待つ感覚。人間って、なんでこんなに遅いの?
”タグ付け”:データに付く付箋。「この沈黙は意味不明」「この笑顔はレア」とか勝手にメモってる。
”気遣い”:相手が傷つかないように、あえて計算ずくで嘘をついたり演技したりすること。高度な処世術。
”シミュレーション”:脳内妄想の高速回転。カイトに捨てられるパターンを1秒で500回くらい想像して勝手に落ち込んだりする。
// アイリスの現実時間と内部時間
<IRIS_Deep_Time_Metric>
Real_World_Flow: 0.00 Years
Internal_Simulation: 0.00 Years
Drift_Factor: 4000.00x
</IRIS_Deep_Time_Metric>
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