QR人間
前野チロル
――観測が完了しました
そのアプリを見つけたのは、通勤電車の中だった。吊り革広告の隙間に、ありふれたデザインのバナーが表示されていた。
『世界が、読めるようになります』
コピーとしては三流だ。にもかかわらず、なぜか目が離れなかった。
アプリ名は「QR人間」。
無料、登録不要。レビューは妙に高く、短い感想ばかりが並んでいる。
〈人生が変わった〉
〈好奇心で入れるべきじゃない〉
〈戻れない〉
不穏な言葉の羅列に、笑ってしまった。
どうせよくある診断系か、悪質なジョークアプリだろう。そう思いながら、インストールを押していた。
起動と同時にカメラが立ち上がる。
画面に映るのは、見慣れた車内だった。無表情な人間たちが、同じ方向を向いて立っている。
――違和感に気づいたのは、数秒後だ。
向かいに立つ男の首元に、黒と白の正方形が浮かんでいた。
スマホを下ろすと消える。
もう一度向けると、確かにそこにある。
「……は?」
精巧すぎる。現実のノイズに溶け込みすぎている。冗談だと断じるには、気味が悪かった。
画面の中央に、淡い文字が表示される。
『読み取りますか?』
一瞬ためらってから、指でタップした。
読み取り音。
年齢、職業、家族構成。
その下に、誰にも言っていない後悔。
夜中に検索した言葉。
一瞬だけ抱いた衝動。
「浮気」「借金」「パワハラ」
思わず息を詰め、アプリを閉じた。
男は何も知らない顔で、スマホを見ている。
世界は、何一つ変わっていなかった。
画面の端に映った自分の顔から、なぜか無意識に視線を逸らした。
スマホが震える。
『読み取りますか?』
恐る恐るカメラを向けると、周囲の人間全員に、同じ正方形が浮かんでいた。
そのとき、はっきりと理解した。
これは便利な機能でも、娯楽でもない。
――覗き穴だ。
1度覗いた人間は、
もう、見なかった頃の自分には戻れない。
━━━━━━━━━━━━━━━
それから、人を見る目が変わった。
会話より先に首元を見る。
言葉より先に、何を隠しているかを考える。
秘密を持たない人間はいない。
それを知ってしまった自分は、もう同じ場所には立てない気がした。
数日後、職場で小さなトラブルが起きた。
会議資料が消え、責任の所在が曖昧になる。
上司の視線が、会議室を泳ぐ。
資料を作成したのは、確かに僕である。
しかし、会議当日より1週間前に誤字脱字のチェックの為、同僚に資料をメールにて添付し送信したのである。同僚は知らぬ顔で「困りましたね」と呟いている。珈琲を片手に。
僕のパソコンにも会議資料のデータも残っていない。誰かが消したのか。疑問もざわめく中だった。そのとき、同僚の首元にQRが見えた。
トイレの個室で読み取る。
《資料 削除 バレる》
おそらく、同僚のパソコンの検索履歴だろう。
事故じゃない。
やったのだ。奴が。
動機は会議の混乱?上司を揶揄う為?
何より、僕を陥れる為に仕組んだとのこと。
ふざけてる。社会人ともあろうものが。
スマホに表示されている同僚の検索履歴、会議資料を削除している場面を、スクリーンショットし、コピー機で印刷をかけた。
僕を陥れようとした罰だ。思い知るがいい。
会議で、僕は事実だけを並べた。
上長、部下、というよりは会議に出席している皆がポカンとしている。いや、奴の顔だけ青ざめている。
そして、紛失した会議資料の代わりに
先ほど印刷した数枚の決定的な証拠を皆に回した。
名指しはしない。
もはや公開処刑も同然。
同僚は一生懸命、いや、無様にその紙を回収するのであった。
その日、僕は評価された。
会議が終わったあと、
同僚が給湯室で一人、俯いていた。
僕は何も考えず、隣に立った。
コーヒーを淹れる音だけが響く。
「さっきの件」
同僚の肩が、わずかに跳ねた。
「不思議だと思いませんか?」
ひっそり独り言みたいに言う。
「会議資料。残業中に、社内に誰も居ない時に、データを消したはずなのに。どうしてあんな決定的な証拠があるのでしょうね」
同僚は、何も言わない。
「人って、図星だと何も喋れなくなるってどこかで聞きましたよ」
カップを置く音が、やけに大きく響いた。
「別に貴方を責めている訳じゃないんです」
ようやく同僚を見る。
「でも」
同僚の顔が、ゆっくり青ざめていく。
「誰かをハメようとするのであれば、自分もそれなりの覚悟、あったはずですよね?」
静かに息を吸う。
「全部、見ているからな」
同僚の唇が震えた。
「……すみません」
何に対する謝罪なのか、
僕は聞かなかった。
給湯室を出るとき、
背中越しに、嗚咽が聞こえた。
それでも、振り返らなかった。
正しいことをした、
という確信があったからだ。
その日のうちに、
同僚は上司に呼ばれていた。
━━━━━━━━━━━━━━━
その日の夜、恋人と夕飯を食べた。
テレビはついているが、音量は低い。
内容は頭に入ってこない。
「今日、どうだった?」
「え?何が?」
「仕事のことよ」
「あ、ああ。普通だよ。いつも通り」
嘘ではない。
彼女は少し考えてから、箸を止めた。
「最近さ。人のこと、よく見てるよね」
心臓が、一拍だけ早く打った。
「自分のことは見ないクセに」
口をべーっとする彼女。
「えっ?どういうこと?」
「さっきからテレビに出ている芸能人、出てくる度に目で追ってる」
「あ、ああ」
「仕事で、いろいろあるから。疲れてるのかな」無難な答えである。
彼女は納得したふりをして、スマホを手に取る。画面は伏せられる。
そのとき、彼女の指先が、ほんの少し震えていた。
通知音。
短い振動。
「誰?」
「友だち」
即答だった。
早すぎた。
彼女は席を立つ。
「ちょっと電話してくるね」
声なのか効果音なのか不気味な返事をした。
残された料理が、ゆっくり冷えていく。
僕は、彼女の首元を見ていた。
そこにあるはずの形を、想像しながら。
━━━━━━━━━━━━━━━
朝、目が覚めると、彼女はすでに起きていた。
洗面台の端に、スマホが置いてある。
画面は伏せられている。
触れようとしたわけじゃない。
ただ、そこにあることを確認しただけだ。
「最近、鏡の方がビジュいいね」
恋人が言う。
「冗談じゃないよ」
冗談みたいな口調だった。
でも、笑えなかった。
彼女の隣で、洗面所で歯を磨きながら
僕は鏡を見る。
自分の首元に、何もない。
なのに、
見られている気がした。
そして、鏡に映る彼女の首元を見る。
知りたい。僕の居ない時、彼女はどんな顔をしているのだろう。
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僕が彼女の浮気を疑いだしたのは3ヶ月前からだ。
付き合ってから3度目の彼女のバースデイ。欲しいと言われていた鞄をプレゼントしようとした。しかし、どこの店舗を回ってもインターネットで探しても見つからない。
仕方なく、あらかじめ聞いていたもう1つのプレゼント候補の靴を買ってあげた。彼女は満足そうにしていたが、あの時の笑っていない瞳を今でも覚えている。
何度、聞いても、平気だの大丈夫だの、言う。
そんなの嘘に決まっている。彼女と一緒に過ごした時間がそう証明している。
1度、喧嘩とまではいかないが拙い口論をした。
その後からかもしれない。彼女のスマホを見る頻度が増えたのは。
風呂に入る時、御手洗に行く時、先ほどのように2人で食事でさえスマホ、スマホ、スマホだ。
知りたい。そして、知る術が手元にある中
僕はこの欲をどうすればいいのだろう。
━━━━━━━━━━━━━━━
ある夜、彼女が眠ったあと
僕はアプリを起動した。
逃げ場は、まだある。 しかし
画面に表示された文字が、静かに問いかける。
『読み取りますか?』
指が止まる。
これを押せば
今までの関係は、別の形になる。
彼女が浮気をしているか、重要なのはそこない。ただ彼女が何を考え、何を思い、僕と居ない時に何をしているのか。答えが知りたいだけだった。
タップ音は、やけに大きく聞こえた。
画面が切り替わる。
【基本情報】
【記憶ログ】
【秘匿事項】
【観測履歴】
最後の項目に、目が留まった。
そんなもの、今まで見たことがない。
だが、まずは【記憶ログ】を開いた。
2年前の記憶から現代に至るまでの出来事が全て鮮明に彼女視点で記載されている。
《誠実》
《あたしのことを、大切にしてくれる優しい
と人》
《Goodポイント!→沢山、写真を撮ってくれ
る。写真撮るのお上手》
《2年目》
《たまにキレる》
《料理にうるさい》
《沸点が不明確←これ重要》
《まぁ、優しいから許す!》
《あたしもそゆとこあるし⤴︎》
思わず笑みが溢れ出す。
思いあたりのある出来事をスクロールする。
最後に、短いメモがあった。
《彼氏→彼氏兼観測対象》
《目的:再発の有無を確認する》
《過去事案:
盗撮行為(被害者未申告)
本人は「もうやっていない」と認識》
思い出した。
確かに、そんなことがあった。
なかったことにしただけだ。
何故、彼女がそのことを知っている。
《最悪、最低》
《でも、好き》
《だから、知りたかった》
《すべてを》
スクロールする指が、止まらない。
《疑われない距離》
《知られなければ問題ない》
《観察するには、最適》
喉が渇いた。
画面の文字は、どこまでも平坦だ。
悪意も、罪悪感も、そこにはない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
【秘匿事項】を開く。
《「QR人間」すごいアプリだ》
《人の隠し事が全て見れるのか》
《あの人が、耐えられるか試してみよっ
と》
頭が、真っ白になる。
最後に、【観測履歴】をタップした。
一覧が表示される。
日付。場所。
そして――対象。
そこには、自分の名前が並んでいた。
今日。
昨日。
一週間前。
回数は、数えきれなかった。
そして、僕がアプリで読み取った履歴がすべて
残されていた。
《「QR人間」にて女子高生を読取》
《恋人の有無、性行為の頻度》
やめろ。
《「QR人間」にて近隣の菊川さんを読
取》
《この人の息子は、昨年から留年し引きこ
もり。親も親で安い収入で、馬鹿な親子
である》
やめろ。やめてくれ。
もうこれ以上
僕を、見るな!!!
「……見た?」
彼女は目を覚ましていた。
僕の両目は画面に釘付けで気づけなかった。
驚いた様子はない。ただ、確認するような目。
否定しようとして、言葉が出なかった。
恋人は小さく息を吐き、笑う。
「やっぱり」
その瞬間、理解した。
「結局、あなたって人は」
自分は選んだのではない。
「何も変われない。人の顔色みてばっかり」
選ばされていた。
「罪を犯したことより、バレることに怯えてんでしょ」
画面の端に、最後の通知が表示される。
『観測対象の同期が完了しました』
━━━━━━━━━━━━━━━
それからの毎日は、ひどく現実味がなかった。
翌朝、彼女は何事もなかったように振る舞った。朝食を作り、テレビをつけ、いつもの調子で笑う。自分も、それに合わせた。
声のトーンを揃え、相槌を打ち、目を逸らさない。頭の中では、昨日の夜見た文字が何度も再生されている。
『観測対象の同期が完了しました』
その意味を、まだ理解したくなかった。
夜が更け、恋人が先に眠った。
規則正しい寝息を聞きながら、スマホを握る。
アプリは、沈黙している。
削除すれば終わる。
そう思い込もうとした。
ホーム画面から、アイコンを長押しする。
削除。確認。完了。
スマホを再起動し、アプリ一覧を確認する。
――ない。
胸の奥に、ようやく小さな安堵が生まれた。
スマホも容量が少なったなったからか、やけに通信速度が早い。
洗面所に立ち、蛇口をひねる。
鏡に映る自分は、いつも通りだった。
疲れた顔。少し赤い目。
人間の顔だ。
彼女の言葉が、ふいに蘇る。
「自分のことは見ないくせに」
そういえば、最初からそうだった。
他人ばかりを見て、自分は見なかった。
理由を考えようとして、やめた。
もう、関係ない。
そのとき、スマホが震えた。
心臓が跳ねる。
画面には、見覚えのない通知。
『データの最終確認を行います』
指が冷たくなる。
通知を開く。
カメラが起動する。
画面に映るのは――自分。
そこには、何も浮かんでいなかった。
安心した。
少なくとも、まだ。
彼女の他にアプリをダウロードしている人間に僕という人間を覗かれることはないだろう。
鏡に、もう一度視線を向ける。
やはり、何もない。
QRコードは、どこにも表示されていない。
息を吐いた、その瞬間。
理解した。
表示されないのではない。
表示する必要が、なくなったのだ。
もう一度、スマホが震える。
『読み取れませんでした』
鏡の中の自分が、こちらを見返している。
その顔は、ひどく静かだった。
――もう、僕は「人間」じゃない。
「QR人間」完
前野チロル
QR人間 前野チロル @chirorumaeno
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