四翼の鳳凰~運命の兄弟・足利尊氏と直義~

国香

鸞鏡

 鳳笙ともいう。

 その音は天空彼方、鳳凰の声を表しているのだと。

 なるほど神秘的で、耳から入ったその響きは、脳内いっぱいに宇宙を広げる。

 頭の中に見える宇宙をぼんやり眺めながら、直義は今居るこの狭い空間そのものが宇宙であるよと思った。

(森羅万象、この幽居がこの中が)

 宇宙もまた宇宙であり、この日本という国もまた宇宙、この鎌倉も宇宙。この庭いっぱい宇宙。そして、この居間も宇宙ならば、彼の中も宇宙だ。

(不思議なものだ)

 直義を瞑想へと導く笙の音は、耳に心地好いばかり。木石よと呆れられる彼でも、この音色には惹かれる。

 この幽居を訪ねて来る者など稀だ。わざわざやって来て、庭石にでも座って、笙を吹いて聴かせようなど、余程酔狂である。

 この幽居の中にあっては、外の姿は見えはしない。庭にいて笙を吹いているであろう客人が誰なのかも判らぬ。

(あれは兄であろうか、甥であろうか……)

 兄の吹く音か甥のそれか、判別できないほど疎遠になっていたとは。

 直義はふっと笑って、閉じていた瞼を開けた。途端に宇宙は遠退いて、ただの居間の景色が映る。

 おかしなものである。

 鸞鏡なる音律がある。

 鸞とは青い鳳凰なのだという。

 鸞鏡は、つまり鸞鳥の名を頂いた音ということになる。確かに、やや神秘的な気がしないでもないその音色は──。

 鳳笙にこそ最も似合う響きと思われるのに。

 何故か、笙──鳳笙にはこの鸞鏡の音がない。どの管を吹いても、どうやっても鸞鏡は出ないのだ。

(鳳凰が、鳳凰の聲だけ啼けぬとはな)

 直義は壁に隔てられた外の空間に思い馳せる。

 彼を訪ね、彼のために笙を吹いてくれる客人は、おそらく甥であろう。

(そうさ、兄者な筈がない)

 まだ若いというより、あどけなさの残る甥の、一生懸命に笙を吹く姿が脳裏に浮かんだ。

 直義には笙のことはわからない。だが、それでも大した腕前だと思う。

 甥は幼い頃から、その父親であり直義にとっては兄である尊氏に、笙を吹いて欲しいとよくねだっていた。そして、いつしか手解きも受けていたのだ。

(光王、ありがとう。素晴らしいよ)

 尊氏譲りの才能なのだろうか。いや、甥の生母の血筋かもしれない。あの女の身内には、琵琶や筝の秘曲を操る者も少なくない。


 いつしか笙の音は消えていた。どうやら一曲終わったらしい。

 旋律らしい旋律もない笙は、それだけに神秘的だが、門外漢の直義には、始まりもわからなければ、終わりもわからない。曲尾らしさもなく、気がつけば終止している。

 鳳凰の声の消えた庭には、風が吹いているのだろう、戸板がかたかたと音を立てている。

 その風の中、一曲終わっても、次を吹く気配もなければ、自分に話しかける様子もない。だが、甥が帰ってしまったとも思えない。

(そうだな、わしに話しかけることなんか、難しいわな)

 直義からも話しかけるつもりはない。

「ありがとう」

 微かな声でそう言っただけ。風の音にかき消されたに違いない。

(光王、こんな所へ来てはいけないよ。もうお帰り。兄上と仲良くな)

 異母兄弟はどうしたって仲良くなれないが、同母兄弟は一緒に育つから仲が良いものだ。それでも、仲違いになることはしばしばある。

 仲違いしていなくとも、親の死と兄弟の死とでは、落胆の度合いが違うものだ。兄弟が死んでも全く堪えない人を、直義も子供の時からよく見てきた。

 仲違いしていなくてもそうなのだから。

 一度拗れた兄弟ならば、たとえ同母兄弟であっても他人と同じ。ついには殺し合うことだってできる。

(兄弟を殺す、か)

 直義は兄の尊氏とは、ついにそこまでに至ってしまったから──。

(子供の頃はじゃれ合って、家族として愛していた兄弟と、何故こうまで憎み合えるのだろう?)

 それは他人が入ってきた時から変わるのか。

(嫁か……)

 まだ外にいるであろう甥の生母を思う。

 兄弟は子供の頃は家族だが、やがて家族でなくなる。異母兄弟は一緒に育たないから、最初から家族でないが、同母兄弟も大人になれば、家族ではなくなるのだ。

 嫁という他人が入ってきた時。家族でなくなった時から、きっと兄弟の関係性は変わっていたのだ。

(他人の嫁が入ってくるのだ。拗れるに決まっている。一緒に育った睦まじい兄弟でさえそうなのだ。まして、おこと達は──)

 外の甥──光王は、同母兄の義詮とは一緒に育たなかった。

(わしと兄者でさえ、こうなのに──。おことはわしを訪ねたりして。こんなことでは駄目ではないか)

 自分たちの二の舞になる、そう思った時。直義は背筋がくすぐったくなった。

「くっ!くくくくっ」

 自分たち兄弟がこうなったのは、自分のせいか。自分で好きでこうしたのにと、直義は笑いが止まらない。

 二度と兄と会うことはないだろう。


「あの!」

 不意に外で若い声が聞こえた。やはり甥の光王だ。

(駄目だ、わしに話しかけては)

 ところが、

「笙か?」

 次に聞こえた低い声は、甥のものではなかった。

(兄者っ?)

 危うく声を出してしまいそうになった。

 確かに尊氏の声だ。

 兄が。兄が確かに庭にいる。

「吹いていたのか?」

 兄は自分にではなく、甥に話し掛けているのだ。それでも、兄がここを訪ねて来たことに、ただただ驚いてしまった。同時に、甥が叱られやしないかと、ひやひやする部分もある。

(兄者……)

 体が一気に冷え、入道した頭から風邪でもひきそうな気さえした。

「一緒に吹くか?」

 外の兄が、甥を叱るどころか、かえってそんなことを言っている。

(わしに?わしのために吹いてくれるのか、兄者?だが、鳳凰は二羽いてはならんのだ。二人で吹くなんて)

 やがて静かに庭を笙の響きが満たしていく。

 二つの場所から鳴る笙の音色は、二羽の鳳凰が向き合う様を思わせた。だが、不思議とその響きが空気に溶け合い、宇宙を生み出している。

 二羽の鳳凰は空気に溶けて、透けて、響きとなり、一つ、いや全てとなる。

(森羅万象……なんという色彩か)

 直義は狭い空間の中で目を閉じた。

 比翼の鳥というのがあるが、まるでそれのように、二人の吹く笙には違和感がない。

(鳳凰には一対ずつ翼があるのにな)

 比翼の鳥には翼が一つずつしかない。雌雄の鳥で、二羽は常にくっついて離れず、一緒に飛ぶという。

 翼が一つずつ。だから、雌雄寄り添い、ようやく一対の翼となれるのだ。

 言い換えれば、二羽いなければ飛べない。一羽の状態では半人前。二羽揃ってようやく一羽となれる。

 一方、鳳凰には初めから一対の翼がある。

 鳳は雄、凰は雌とも言われるが、鳳には翼二つ、凰にも翼二つ、二羽揃えば四翼となる。

 これでは雌雄寄り添って飛ぼうにも、互いの翼が邪魔をして、一緒に飛ぶことはできない。

 鳳凰は初めから、一羽で一人前だったのだ。一人前どうしが寄り添えば、互いの翼が邪魔して軋轢となる。

(鳳凰は二羽いてはならんのだがな……)

 立派な者、王者が二人いたら、世は乱れるばかりだ。

(兄者とわしは。比翼の鳥ではあり得なかった……そうだ、わしも兄者も鳳凰だったのだ。だから……二羽も要らない)

 鳳笙に鸞鏡がないのは、二羽の鳳凰から一羽を除くためなのか。

(親子なんだな)

 尊氏と光王。二人の吹く笙に、互いに阻害するところが見当たらないのは、かえって色彩豊かな空間を生み出しているのは、親子だからだろうか。

 両雄並び立たずという。

 鳳凰は並び立てないが。兄弟は並び立てないが。

 親子はそもそも横に並ぶものではないから、一緒に鳳笙を奏でても、互いを壊すことがないのだろう。

(わしが間違ってたよ、兄者。わしは兄者を比翼の鳥だと思っていた。だが、鳳凰だったのだ。わし自身も鳳凰だったがな)

 自分が鳳凰だとは実は気付いていたがなと、直義は笑って、ちょっと悪態した。

 それにしても、尊氏が光王と合奏できるのは、尊氏も笙を持ってきたからに他ならない。直義に笙を吹いて聴かせるために、兄はここに来た。甥と同じ目的で。

(兄者、もう遅いよ……)

 裏のない素直な音色。これは尊氏の心そのものだろう。

 いつだってそうだった。尊氏には裏など全くなく、素直だった。

(すまない、兄者……)


 鳳笙の響きに満たされるこの空間は、鎌倉は延福寺。

 その庭に、鎌倉幕府を滅ぼして、新しく京の都に幕府を建てた将軍・足利尊氏。その子・光王。

 その庭の中の幽居にいるのは、尊氏の一つ下の実弟・直義だ。

(今日は観応三年の二月二十日は過ぎたか……)

 日付さえ怪しくなっているのは、直義が幽閉の身だからである。

 尊氏が直義を勅命を利用して捕えたのだ。兄が弟を捕えた。

 兄弟で骨肉の争いを演じた。仲睦まじく育った兄弟が。共に鎌倉幕府を滅ぼし、協力し合って新しい幕府を築いた兄弟が。

 京と吉野にそれぞれ朝廷があり、二人の帝が並び立つ世に。

 将軍であり、大御所と呼ばれる兄と、副将軍として実権を握った弟と。

 二羽の鳳凰に何があったのか。

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