二、違和感





 ——本当のことは口にしてはいけないんだ、と思ったのはいつのことだったか。


 本当のことを口にしてしまったとき、周囲は璃子を攻め立てた。

 ある人は怒鳴り散らし、ある人は黙っていればよかったのにと泣いた。それからずっと口を噤んできた。明らかに間違っていることも、理不尽なことも。

 全部。

 全部。

 けれど、彼らは璃子に口を噤めというのに、それによって窮地に立たされた璃子を助けはしない。

 それからどんどん璃子の喉は締まっていく。

 話をしようとしても、自分の声を出そうとするたびに言いたいことが喉に詰まって声が出ない。

 誰かになじられるのが怖くて、誰かに謂れのないことを言いふらされるのが怖くてどんどん言葉が出なくなっていく。

 そうして言葉の出なくなった璃子は、周りから「自己主張ができない駄目な子」と言われるようになった。




***




 ふっと意識が明瞭になっていく。

 璃子が重い瞼を開くと、カーテンから差し込んだ太陽光が淡く部屋を照らしていた。結構日が高いのかもしれない。随分と眠っていたようだった。柔らかな木の匂いが心地いい。

 磨きこまれた飴色の木製のベッド、白いリネンの心地いい手触り。ベッドサイドの床頭台にある間接照明とガラスのピッチャー。ベッドと同じ色の木製の柔らかなクローゼット。柔らかい色のフローリングに白い壁紙。まるでどこぞのコテージの一室のようだった。

 璃子は深呼吸してから布団を出て着替える。あまりにも居心地のいい部屋なので、さっさと動かないとこのままいつまでも寝てしまいそうだったから。

 昨日の服はなくなっていて、クローゼットの中に、ミナの物か来客用のどちらかと思われるクリーム色のワンピースがあったのでこれを着ることにした。髪は元々ショートカットなのであまり寝癖が付く方ではないが、クローゼットの扉についてある鏡で確認してから部屋を出る。

 

 階段を下り、扉を開いてから一階に降りた瞬間、大きな声が聞こえて璃子は身をひるませた。

 昨日のダイニングの方から聞こえてきたので、そっと物音を立てずにそちらへ向かう。ダイニングの入り口からそっと顔をのぞかせると、そこで端末片手に頭を掻きむしっているミヤコがいた。

 どう声をかけようかと迷っていた璃子だったが、それよりも先に、ミヤコが振り返って特に驚いた風もなく、話し始めた。


「おはようございます、夜森さん。早速ですが俺はあなたに謝罪をしなければなりません」


 苛立ちと諦め半分のような顔でこちらを見たミヤコは「本当に申し訳ありません」と九十度に腰を折った。


「え、ちょっと、なんですか? 何かあったんですか?」

「うちのバカ店長が、その、いろいろとやらかしまして」

 

 おずおずと頭を上げたミヤコは、両手で顔を覆ったまま、


「今日の午後十四時に、貴方の部屋の荷物がここに届きます」

 蚊の鳴くような声で言った。

「え! 何ですかそれ!」

「本当に、本当に申し訳ないです」


 顔を覆ったままその場にしゃがみ込んでしまったミヤコは、ぶつぶつと呪詛のように「あのボケ店長次帰ってきたら処す」と繰り返している。


 璃子はダイニングの時計を見ると、現在、時計は正午過ぎを指していた。

「後二時間しかないじゃないですか」

「あのバカが、勝手に引っ越し手続きして、あなたの部屋も引き払ってしまったらしいです。本当にごめんなさい。もう本当に謝って済むことじゃないんですけど」

「というか私がいないのによくそんなことできましたね」

「うちはそういうことに関してはちょっといろんな伝手やら方法を持っているので。普段はこんなやり方しませんけど。……あのヒトが直接動き回るといろいろと加減が分かってないので、普段は俺とか他の奴らがやるんですけど……あー、もうこれだから嫌だ」

「ま、まぁ、ミナさんが帰ってきてから、私から聞いてみますよ」

 

 先程からずっと頭を抱えたまま落ち込んでいるミヤコが不憫で、璃子は空気を換えようとそう提案した。


「夜森さん。もう一つ残念なお知らせが」

「え?」

「ミナさんは今日からしばらく帰ってきません」

「は?」

「次いつ帰ってくるのか本人の気分次第なので、俺も分からないんです。たまに公衆電話から今日の何時に帰るとか一方的な電話があるぐらいで……。本当にごめんなさい!」


 ——ナ、ナンダッテー……。


 絶句。


 目の前のミヤコがひたすら謝って落ち込んでいるので、何とか平静を保っているがそうじゃなかったら危なかった。

 これが自分よりパニックになっている人がいると落ち着く理論だろうか。

 思わず現実逃避してしまった。

 ゆらりとおもむろにミヤコが立ち上がった。


「ちょっと待っててください。あの人ほどではないけれど、俺もそれなりに伝手があるんで何とかしてみます」

 そういいながら、端末で電話をかけ始めながらキッチンの暖簾をかき分けて消えていく。

 だが、数分後、ミヤコが暗い顔で戻ってきたので、駄目だったのだと悟った。

「……まぁ、何とかなりますよ」

 璃子はこの短時間ですっかりやつれたミヤコを不憫に思った。

 急に連れてこられた人間の世話をさせられるだけでも負担だろうに、上司に無茶ぶりをされ続けている。同情を禁じ得ない。

「……ご飯、食べられますか?」

 それでも疲れた顔に微笑を乗せながらこちらのことをやろうとするのだから、プロ根性がすごい。

「あ、はい。あの、手伝います」

「いやいや、夜森さんは依頼人なので座っていてください」

「でも、私は一応ここで働くことになったので、少しはお手伝いさせてください」

「そうでした。……そっちの問題もあった」

 がくり、とうなだれながら暖簾をかき分けてキッチンに消えていく。入ってもいいということだろうかと、追いかけてその先へ入ると、とても広い空間があった。

 窓際のコンロと流し台、そして調理スペースが広い。食器棚と大きめの冷蔵庫、そしてテーブルが入っていても、問題なく食事をすることもできる。

「普段、俺たち従業員はここで飯食ってるんですよ。簡単なもので恐縮ですが座って待っててください」

 四人掛けのテーブルの半分は瓶に入った果実やら梅干し、炊飯器がおいてあって埋まっている。

 ——結局、手持無沙汰になっちゃった。ちょっと申し訳ないな……。

でもこういう時、迷惑になるんじゃないかと思って声が出ない。そういうところが「積極性がない」「気が利かない」と言われてしまうのだろう。

 そう思った瞬間、

「ご飯茶碗そこに置いてあるので、食べる分よそってくださいね。麦茶のボトルが冷蔵庫に入ってるんで、そっちの食器戸棚からコップ出して使ってください」

 じゃ、と卵と何かを炒めながらミヤコが声をかけてきたので、「あ、はい」と返事をしてから立ち上がる。

 ——ご飯茶碗とコップ。そうだ、箸も出そう。

 ちょうどミヤコが二つ目のコンロに火を入れていたが着火できなかったのか、何度かコンロのつまみをひねっている。聞くのが悪いと思い、

 ——一番端の抽斗ひきだしの中……。

 中段にある抽斗を開けるとそこにはたくさんの箸が入れてあった。

 箸を取り出した瞬間、じっと射るような視線を感じた。

「あ、」

 視線の方を見れば、皿に乗せたスクランブルエッグを持ったまま立ち往生しているミヤコと目が合った。

「か、勝手にすみませんでした」

「今……」

 ミヤコは呆気にとられたように目を瞬かせた。

 その目が僅かに淡い紅色を帯びる。

——目が……。

「夜森さん、どうぞ座ってください」

 その色を見止めた瞬間、ミヤコはその瞳を隠すように目を細めて笑顔を張り付けた。

「……はい」

 璃子は自分の行動を咎められるのを避けるため、ミヤコの言葉に頷いた。

 席に着いた璃子の前に、プレートでベーコン入りのスクランブルエッグにレタスとトマトが鮮やかに盛り付けられている。大根とじゃがいもの味噌汁がほこほこと湯気を立てていた。

「いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 おどけたようにそういうミヤコは柔らかく笑う。マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れお湯を注いでいる仕草を、璃子は食事をしながら視界の端にとらえていた。

 ——さっき、目の色が変わったような……。

 璃子自身も気付かれたくなくて誤魔化してしまったが、昨日もそう見えたのは気のせいではなかったようだった。

 昨日から思っていたことだが、ミヤコはあまりにも察しがよすぎる。こちらが考えていたことをタイムリーで口にする。思ったことがそのまままるで分っているかのような。

 ——いやいや、ないない。でもなぁ……。

 こうして考えていてもミヤコの表情にほころびは見られない。

 不意に試してみたくなった。


 ——ミヤコさん、さっき私が何をしたのか、分かりましたか?

 心の中でそう問いかけてみたが、彼は向かいの席で、何食わぬ顔で端末を弄りながらコーヒーを口にしている。

 ——やっぱり気のせい?

  こういう時、相手の不意を突くようなことを考えてみよう。

 ——うーん…、あぁ、そうだ。下ネタとか? 猥談とか。


「ぶっ」

 そう考えた瞬間、ミヤコが盛大に噴いた。コーヒーで口元と濃いグレーのスウェットの上につけていた黒いエプロンがびしゃびしゃになった。

「失礼。気管に入って」

 さっさと布巾でそれらを拭いて片付けている。

「あの、やっぱりわかってますよね」

「何がですか?」

「私の考えていること」

「まさか。ファンタジーじゃあるまいに」

 碌な下ネタが言えないので、これは個人情報の開示しかない。

 ——うーん……。じゃあ、私の個人情報なんですけど、身長一五五センチ、体重四十八キロ、この前会社を辞めた理由が、

「待て! ……っ」

「……ファンタジーですね」

「いや、今、その、蚊が飛んでいたというか」

「こんな季節に蚊なんていませんよ」

「……じゃあコバエ」

「往生際が悪いって言われません?」

「…………あー、もう……昨日からずっとミスりっぱなしだ。それもこれも全部あのバカのせい……」

 両手で顔を覆って俯いてしまった。

「えっと、すみません。なんか昨日から違和感があって」

「……思った瞬間に、俺がドンピシャなこと言うからでしょ」

 ミヤコのやけくそめいた声に頷くと、彼は深く溜息を吐いた。

「あんまり話すの得意じゃないみたいだったから、お節介が過ぎました。ごめんなさい」

「まぁ、そうですね。あまり得意じゃないです」

 

 沈黙。

 

 ——気まずい。

 璃子ははっと顔を上げた。今思ったこれもミヤコにはばれていると思ったから。


「うん。俺には伝わっている。だから、早めに決めた方がいい」

「何を?」

「職と住む場所」ミヤコは苦笑した。「こんな奴といたら気が休まらないでしょ」


 こんな奴、という言葉に彼のすべてが集約されているような気がした。


「あの、私は、えっと、……物の記憶をよみとることができます。今風に言うと、サイコメトリー、でしたっけ? 多分、そんな、感じです」


 喉が詰まっていってどんどん声が小さくなっていく。本当のことを話そうとするとどんどんこうなっていってしまう。多分一種のトラウマのようなものなのかもしれないけれど。 

 でも璃子は、今言わなければならないと思った。

 たくさん言われてきた。「なんでそんなことが分かるのか」とか「気持ち悪い」とか。逆に変な人間に「私のことなんでも分かってくれている」と誤解されてしまったこともある。璃子には分からなかった。見ればだいたいのことが分かってしまうからこそ、どこまでが普通で、どこからがそうではないのか。

 いつもその境界線を間違えて、人の中に入りすぎてしまう。

 誤解で済めばいい方で、それが大当たりしてしまって先生や大人から褒められてしまうと、周りから疎まれた。周りには璃子が何かずるをしているようにしか見えないだろう。

 でも、璃子にも分からないのだ。何を見ないふりをすればいいのか。周りに同じことができる人がいなかったから。自分で手探りするしかなかった。

 だから、ミヤコのこの踏み越えて他人のことをやってしまう癖や、自分のことをこんな奴と言ってしまいたくなる気持ちを何とか払拭したかった。


「だから、大丈夫、です」

 

 喉が絞まって声がうまく出なくて、頭で考えたことの半分も言えやしない。でも、璃子を見ていたミヤコは目を瞬かせた後、笑った。


「うん、ありがとう」

 

 その顔を見た瞬間、伝わっていると分かった。声なき言葉を拾うことに長けたこの人は、璃子の心をしっかりと受け取ってくれたのだ。

 声を出さないで伝わるなんて、甘えだと思う。

 でも、今だけはそれをありがたいと思ってしまった。





***




「助っ人を呼びました」

 食後にミヤコがそういった。

「助っ人ですか?」

「はい。荷物の運び入れと、午後の店番。本当は夜に行かなければならない依頼があって、それの要員だったんですけど。今から来てもらうことにしました」

 ミヤコは端末の操作を終えてポケットにしまってからこちらを見た。

「あー、その、ミナさんよりはまともですけど、ちょっと変わっている奴なんで驚かないでください」

 それはどういう意味で変わっているのか。もっと具体的に説明してほしいところだが、時刻は十四時まであと十五分もないので準備をするべきだろう。その瞬間——玄関の呼び鈴が鳴った。

「来ましたね」

 ミヤコが玄関へ向かうので璃子もそれに倣ってついていく。戸を開くと、そこにいたのは長身の女性。ミナさんよりも、そしてミヤコよりも少し高い身長。平均身長よりも低い璃子はほぼ見上げる形になってしまう。

 黒髪の短めのボブ。まっすぐに切りそろえた前髪の下にある涼し気な一重の釣り目は、なんだかカラスの瞳に似ていた。高い鼻とはっきりとした大きめの唇。意志の強そうな顔立ちはミヤコと璃子を交互に見てから、再度璃子に視線を戻した。

「大丈夫?」

 少しハスキーな声。真顔でそう問われて、璃子は面食らって言葉に詰まる。

 何を聞かれているのか分からなかったからだ。女性はそのまま視線をミヤコに移し、沈痛な面持ちになり、目を押さえた。

「ミヤコ、お前とうとうやったのか」

 深い溜息を吐いた後、女性は璃子の方へ歩み寄りミヤコから遠ざけるように割り込んだ。

「誘拐は駄目だよ。いくら人間の女の子が好きだからって。……自首しよう。な」

「えっと……」

「な、じゃない。あのさ、昨日もそんな感じの件があったんだけどさ。なんなの? 皆して夜森さんの俺への心証を悪くするのが流行ってるの?」

「え、じゃあこの子は?」

「依頼人兼従業員(仮)ですけど」

「嘘つくな、女誑し」

「風評被害が凄まじいんですが。俺のことなんだと思ってんの」

「ヤンデレ製造機」

「語弊しかない」

「……あの、引っ越しのトラックが着いたみたいですよ」

 璃子のその言葉でようやっと二人の雪崩のような応酬が止まった。

「御免ね。私はイナサ。エンゲツ堂の従業員。ミナさんからあなたのことは聞いているよ。よろしく」

 すっと大きな白い手が差し出されて、握り返す。イナサは緩くその手を上下に振ってから手を離すと、ダウンジャケットを脱いでミヤコの胸元に押し付けた。

「搬入手伝ってくる。二人は家の中にいて。夜森、さんは玄関で待ってて、服とか家具とか持ってくるから。重めの物はミヤコと私に任せて」

「は、はい」

「いってらっしゃーい」

 てきぱきと出て行ってしまったイナサを見送ってから、ミヤコをじっと見上げる。ミヤコが的確に璃子の心を読み取って、呆れを含んだ目でこちらを見てくる。

「あのね、本当に女誑しでもヤンデレ製造機でもないから。誘拐もしてないから」

 本当に? と口には出さずに見返すと、ミヤコは溜息を吐いた。

「それが全部本当だったら、今頃君はどうなっちゃっているんだろうね」

「たしかに」

「くだらないこと考えてないで、これからあいつが持ってくる荷物一緒に片しちゃってね」


 ほどなくして荷物のほとんどが玄関先に並べられた。一人暮らし用の冷蔵庫とか洗濯機とかベッドとかは今ここで必要ないものなので、奥にある物置に運び入れてもらい、本棚とか衣服類、こまごまとした日用品の入った段ボールをせっせと三人で二階の部屋に運び入れた。すべて運び入れた後、ミヤコは店番があると言って出て行ってしまい、衣服や小物の出し方をイナサと璃子の二人ですることとなった。

 衣服をクローゼットの中にハンガーで閉まっていると、段ボールから書籍を出していたイナサと目が合った。


「夜森さんは、ここで働くの?」


 そう聞かれてちょっと視線を逸らしながら首肯した。イナサは目が鋭いからか、雰囲気のせいかちょっと気圧されるのだ。

「ミナさんの決定だからあまり口出しするのよくないと思ってるんだけど、早めにちゃんとしたところに仕事と住むところ決めて、ここから出て行った方がいいよ」

「え、あ、それ、は……」

 やっぱり迷惑だったのだろうかと、璃子は視線を泳がせる。

「あー、夜森さんのせいじゃないよ。でもね、うーん、なんて言ったらいいのか……」

 それまで迷いなく話していた彼女の言葉の滑りが悪くなる。

「理由は二つ。詳しくは言えないんだけれど、私たちと貴方は決定的に違うから。だからその違いが貴方にいらない苦労をさせることになると思うから。そして、もう一つは、」

 イナサは手元に持った本に視線を落とす。以前民俗学が好きな人からお薦めされていまだに目を通してない本だった。タイトルは綺麗な明朝体で「鬼という存在について」と記してあった。どうでもいいが、何でそんな本貰ってしまったのかと思い至り、璃子は一度断捨離が必要だなと脳裏で考えていた。そんなぼんやりとした思考は次の言葉で現実に戻された。

「ミヤコには気を付けた方がいい」

「えっと、」

 言われている意味が分からない。璃子は言っている意味を模索したが、男女が一つ屋根の下で二人きりはよくない、ぐらいしか思いつかなかった。

「あの、それはどういう意味ですか?」

「うん。詳しくはあいつの個人情報になるから私から話すのはよくないんだけど。ミヤコはちょっと、精神的に不安定なんだ。あいつ自体ミナさんが保護したから。ミナさんはミヤコの上司で、師匠で、親代わりで。ミナさんはミヤコに何かあっても、何とかできるひとだよ。彼女も一緒にいるなら安心だけど、ミナさんがいないエンゲツ堂で、私たちじゃ、あいつがパニックを起こした時に、貴方をあいつから守り切れるか分からない」

 だから貴方の安全のためにも早くここから出た方がいい、とイナサは真剣な面持ちで言い切った。璃子はどう返答すればいいのか分からなくて、手にしたハンガーに目を落とした。

「変なこと言って御免。でも、覚えておいて。これからしばらく私がここに泊まる。貴方がいる間はできるだけ、私か、もう一人の子が泊まることにしたの。この家の中で、あと人気のない場所でミヤコと二人きりにあまりならないでね」

 よくわからないけれど、これ以上言及してもきっと何も教えてもらえないことは肌身で分かる。「わ、かりました。よろしくお願いします」とか細い声で言うのが精いっぱいだった。


 その後は作業中ずっとイナサの言葉が離れなかった。

 なぜそんなミヤコのことを警戒しなければならないのか。異性だから、というには過剰すぎる。今のところ、彼のことで分かるのはテレバスであるということぐらいだ。精神的に不安定ってどういうことだろう。

 ただ、一つだけわかることは、これを璃子に話すことでこういった警戒心を持たれていることがミヤコには筒抜けとなる。だが、イナサはそれが分かっていてやっているのだろうということだった。


 つまり——。


「本人も自覚しているほどのやばい状況になるかもしれないってこと?」

「そうかもね」

「うわ!」

 ダイニングで綺麗に焼かれたアイシングクッキーに目を落としながら思考していたら、声に出ていたようだった。

 作業が終わり十六時に差し掛かっていた。休憩のおやつということでミヤコが焼いたらしきアイシングクッキーと、紅茶で一息ついていたのだ。

 璃子は声の主がミヤコであることを知って顔を青くさせたが、当の本人であるミヤコは特に気にしていないといったように紅茶を口にしていた。当然のことながら、璃子の隣には先程忠告してきたイナサもクッキーをほおばりながら座っている。

「あの、いや、もう何でもないです」

 この人たちの関係性があまりよく分からない。仲がいいのか悪いのか、信頼しているのかしていないのか。璃子からすれば滅茶苦茶に見える。

 そんな思考を読んだミヤコが苦笑している。

「まぁ、自分たちの長所短所に自覚的なだけだよ」

「はぁ」

 そういうものなのだろうか。

「夜の依頼は何時からだっけ?」

 この話はおしまいといわんばかりにイナサがミヤコに問いかける。

「二十一時。ここからタクシーで少し」

「りょーかい」

 二人のやり取りを聞いて、夜にも依頼が入っていると日中に話していたことを思い出す。

「ねぇミヤコ、夜森さんは留守番なんだよね」

 イナサが睨みつけるような視線を向けた。確認しているようで言外に置いていけと言っているのが隣にいる璃子にも分かる。だが、それをミヤコはやんわりとした態度で黙殺した。

「連れていくよ。うちの従業員(仮)だから」

「ちょっと待って、本当に仕事やらせるの?」

「仕事の見学もあるけれど、この家に夜森さん一人残して何かあったら大変でしょ」

「か、……過保護なんだよ、お前は。そうやって面倒事を増やしている自覚を持て」

「いや、安全上の問題。この家は別にセキュリティ万全なわけじゃないし。イナサと俺の近くに居た方が安全だから」

「お前が一番あぶねー奴なんだよ」

「語弊」

「あ、あの!」いたたまれなくて割って入る。「た、多分ご迷惑になるので、留守番をさせていただきます」

 ね、と璃子はおどおどしながら二人を諫める。おそらくどちらも璃子に気を使ってのことなのだろうが、揉められるのは困る。ミヤコはにこっと有無を言わせない笑みを浮かべる。

「夜森さん。俺は確かに君にここから早く出ていくように言いましたし、その気持ちは今も変わっていません。でもね、君がここから出ていくにしろ、まだその安全や身柄については俺に責任があるんです。だからちゃんと安全確保をさせてほしいんです」

 璃子の頭には疑問符が飛び交った。なんだかもっともらしいことを言っているように聞こえるのに、つまりは「璃子を連れていく」という部分しか分からないし、理由にも合理性があまりないように聞こえる。

「……これだから無自覚は」イナサが深い溜息を吐いて「勝手にしろ」と折れた。

「でも、夜森さんはくれぐれも余計なことはしないように。危ないから」

「は、い」

 ちょっと、否、大分不満そうなままイナサが紅茶をグイっとあおった。もうそれはお酒の飲み方ではないだろうか、なんて全然関係ないことを考えていると、それを見ていたミヤコが「ちょっとー、結構いいお茶なんだからそんなヤケ酒みたいに飲まないでー」と言ってにやにやしていた。こっちはこっちで勝手に心を読まないでいただきたい。

 ——本当に大丈夫かな……。

 つんとしたイナサと緊張感のかけらもないミヤコを見ていると、不安は募るばかりである。







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