第3話 飛翔 たった一人で
冷たい風が「ビュッ」と吹く。
学校の校舎に沿って一陣の風が翔一を押しのけて去っていった。
放課後、先生に教室のごみを捨ててきてと頼まれ、翔一はゴミ箱を手に校舎裏の焼却炉に向かっていた。表側と違って同じ校舎でも裏側は何となく不気味な感じがする。
しかも何故か今日は翔一ひとりだ。
「何かおっかないな。さっさとごみ捨てて教室に戻ろう」
翔一は焼却炉の階段を駆け上がった。
焼却炉の鉄蓋が空いている。焦げ臭いにおいが立ち上っている。中を覗くと、牛乳パックだの、わら半紙だの雑多なものが捨てられている。
翔一はごみ箱を逆さにして勢いよく上下に振った。「ドサッ、パラパラパラ」気持ちよくごみが落ちていく。
「うぅん、もう無いかな?」
ごみ箱をひっくり返して中を見る。紙切れが、底の方にくっ付いてる。もう一度ゴミ箱を逆さにして小刻みに振ると、「ヒラヒラ~」と落ちた。
「よし、戻ろう」
翔一は、階段を駆け下り、その勢いで走り出した。
と、そのとき、校舎の壁際に平らに折り畳まれた段ボールの山が目に入った。
「何であんな所に段ボールが置いてあんだ?…」
翔一は走りながら考えていたが、やっぱり立ち止まり、向きを変えて段ボールに近づいた。
縛ってあったビニールひもをほどき、そっと一枚取り出して、広げてみた。
結構大きい。英語の文字とカモメのデザインが印刷されている。
「何の会社の箱なんだろう?」
突然、風が「ビュッ」と吹き付けると思わずよろけてしまい、翔一は地面に倒れ込んだ。
立ち上がって、また段ボールを掴む。
翔一は何かを思いついたようで、段ボールを小さく折り畳むと、表の校庭に向けて走り出した。
確か校舎の角っこは風が強かったはずだ。よく注意して慎重に通り過ぎる。校庭が見えると、翔一は更に加速した。
「ハアハアハアハア…」
息が荒い。段ボールを膝の間に挟んで両手を膝に置き、翔一は目を閉じたまましばらく息を整える。
「ゴオーーー、ゴオーーー」
「うん、何の音だろう?どこから聞こえてくるんだろう?」
翔一は目をつぶったまま、しばらく耳を凝らした。
とっ、気が付いた。
「上だ!空だ空。ずっとずっと上の上の空だ!」
翔一はかっと目を見開き、ただ真っ直ぐに空を見上げた。
真っ青に晴れた冬の空は、どこまでも澄んで高かった。ほんの僅かばかりの筋雲が空の高さを一層際立たせている。
「あれは天の声なんだろうか?」
地響きのような「ゴオーーー」っという低い音が、空から響いてくる。
と、そのとき冷たい風が「ビュッ」と吹いた。
翔一は思わず前かがみになり身体に力を入れて、ぐっと堪えた。風は通り過ぎた。
我に返った翔一は、さっきの閃きを思い出した。
「よし、今だ!」
と、膝に挟んでいた段ボールを大きく広げた。翔一の背丈よりも大きくなった。両手で段ボールの端を掴み、身体の前に構えた。
「次に風が吹いたときがチャンスだ」
そう自分に言い聞かせて、じっとそのときを待った。
不思議なもので、待っているときはなかなか風は吹いてこない。目の前は段ボールで覆われている。翔一は、段ボールに印刷されたカモメのロゴをじっと見つめていた。
「まだかな…」
時折起こる風が段ボールを揺らす度に翔一は「はっ」となって身構える。まるで、釣りをしていて「当たり」があったときの緊張感のようだ。
でもすかされたように風は溶けるように消え、段ボールの重みが戻ってくる。
翔一が目をつぶるとカモメのロゴの残像がまぶたの裏に現れた。翔一はぼーっと考えごとをした。
「確かカモメって海にいるんだよな。俺、本物のカモメ見たことないかも」
と、翔一の身体は大きく後ろにのけ反り、耐え切れずにそのまま吹っ飛んだ。翔一は背中から地面に倒れ暫く茫然としていた。
痛くはない。
段ボールは掴んだままだった。身体を横にひねって立ち上がった。
「よし、来たぞ!!次は失敗しないぞ、乗るぞ!!」
翔一は心持ち膝を折って、少し前かがみになって身構えた。そう、50メートル走でのスタートの構えのように。
翔一は足が速い。特に短距離走はクラス1だ。
加速するときに顔を切る空気の感じや視界が前方に一気に絞られていく感覚がたまらなく好きだ。走っているときは疲れなんて全く感じない。前を走る友達を、笑いながら一気にごぼう抜きする翔一は、いつしか「ターボ」と呼ばれるようになった。
今の翔一は、そんなスタート前の緊張に包まれていた。
じっと前を覆う段ボールを凝視する。
でもさっきみたいにぼーっとはしない。集中集中。風を耳で感じ、身体全体で感じる。
と、段ボールの上側がこちらへ倒れ始めた。すぐに段ボール全体に圧力がかかる。
「今だ!」
翔一は、伸ばしていた両肘を曲げ、全身を段ボールに押し付けた。
風は強い。先端が更に上がりだし、気を抜けばさっきみたいに後ろへ吹き飛ばされそうだ。
翔一は踏ん張り、更に身体を段ボールに預ける。段ボールは水平に対して45°位だろうか、前は見えない。
いや、今の翔一に前を見る余裕などないし、横すらも見えなかった。
ただ風の中にいる。その空間は真っ暗なのか、それとも色はあるのだろうか、翔一には認識できなかったが、その風という空間に彼は1人でいた。
風に逆らい抵抗を続ける段ボールが上下に、ときに左右に激しく揺れる。翔一は両手で段ボールをしっかり握りしめ動きをコントロールしようと必死だった。
先端が更に上がってしまうのを感じた翔一は、頭突きをするように顔を段ボールに押し付け、曲げていた肘を伸ばし、上体を前に放り投げた。
とその瞬間、身体全体が段ボールに乗っかり、つま先がフワっッと地面から少しばかり浮いた。
「あっ」
本当にあっと言う間だった。
そのまま風に流され、数メートルほど後ろで地面に転げ落ちた。
痛くはなかった。
「今のは飛んだのかな?それとも浮いたのかな?…」
傍から見れば、ただ風に煽られて吹っ飛んだだけなのかもしれない。
しかし思い込みとは恐ろしいものだ。翔一は、「飛んだ」と強く確信した。バッと立って、さっきの位置に着く。
「さっきの感覚だ、思い出せ、同じにやるんだ」
翔一は自分に言い聞かせ、段ボールを両手で更に強く握りしめた。
ちょうど目の高さにカモメのロゴがある。「カモメ」と頭の中で呟いた瞬間、
「来た!!」
先端が上がり段ボール全体が身体に向かってぶつかってきた。翔一も同時に肘を曲げて、全身を段ボールに向かって叩きつけた。
今回は、全ての動きがかみ合った。後ろへ倒れる様子はない。段ボールが風で煽られ激しくブレる。
「ここを抑え込んでいこう」
翔一は時折身体が段ボールから滑り落ちそうになるのを必死に堪えた。
手だけじゃだめだ。ときどき足を使って右や左に動いたりもする。全身を使って風をコントロールする、そんなコツが何となく掴めてきた。あとはタイミングだ。
堪えながら、その瞬間を探る。状態は悪くないと思う。
タイミング、タイミング。
ふと目の前の景色が一瞬見えた刹那だった。
「来た!」
翔一は両足で飛び上がり、風に乗った。
そう、風に乗ったのだ。
翔一の身体は、下から吹き上げられるように軽くなった。
あれだけ強かった風が暴れなくなった。まるで風に受け入れられたかのようだ。
その時間はどの位だったのだろうか。翔一には結構長く感じられたが、おそらくは一瞬の出来事だったのだろう。
突然現実に引き戻されたかのように、翔一は今度は前のめりに地面に叩きつけられた。
急に風の動きが変わったのだ。
たぶん自分が思っていたよりも低い位置で浮いていたのだろう、どこも痛くないし怪我もしていないみたいだ。
「うわっ!後ろに吹っ飛ばされないことだけ注意してたけど、前にガクンとくるなんてマジ焦るな…。次は前も後ろも注意だな」
風が弱くなった頃合いを見て翔一はすっと立ち上がった。
よし、さっきの構えだ。
翔一は慣れてきた。風を待つ構えが様になってきた。膝肘の角度、腰の落とし具合い、目付けの位置、そのすべてを一挙動で終えた。
段ボールの先端が小刻みに揺れる。翔一はじっとしていた。
じっとして、目で耳で身体で、五感を集中させてただひたすらその風を待った。
「ゴオーーー、ゴオーーー」
「あっ、あの音!
と思った瞬間、
「来た!」
段ボールの先端がこちらに向けてしなり出した。さっと、身体全体を段ボールに預ける。
「よし、いい手ごたえの風だ。これに乗れそうだ」
そう頷きながら、翔一は暫く重心をそのままに保った。さっきは後ろに倒れないことばかりを考えていてフェイントで前に倒されてしまった。
「押すだけじゃだめだ、バランスをよく考えていかなきゃ」
慎重に慎重に、翔一は更に前に体重をかけていく。まだ段ボール全体が暴れてる。この状態じゃとても乗れたもんじゃない。乗れたとしてもまた前か後ろへ転げ落ちるだけだ。
「もう少しこの状態で耐えるんだ」
興味があることは覚えが早い。翔一はかなりコツを掴んだようだ。
「さっきと同じ感じだ!」
翔一の身体は段ボールの上に張り付いた。
安定している。段ボールは大人しくなり、斜め前に重心をかけた翔一の身体を穏やかに支えている。
翔一は、しっかりと掴んでいた両手から少し力を抜いた。まるでベッドに寝そべっているみたいだ。とても心地が良かった。
とは言っても翔一の家にベッドなど無かったが、突然現れた快楽が翔一にそう想像させた。
「なんか、ずっとこのままでもいいかもな…」
風との均衡に翔一の心は和んだ。
「でもまだだ。まだ足は地面を離れていない」
そう、翔一は地面に足を着け、言わば斜めに立っているだけだ。だからこの先を待っている。余分な力を抜きながら全神経を研ぎ澄ます。
と、段ボール全体に当たりがきた。段ボールの裏から突き上げてくる感触だ。
翔一はさっきよりほんの一瞬早く両足で地面を蹴り、身体を前に投げ出した。
両足が地面から離れる。段ボールの先端は、やや上方に上がり続け、翔一は顔を段ボールに押し付け必死にコントロールしようとする。
結構上体が立ち出した。翔一は滑り落ちないように、再度両手で段ボールの端をしっかりと握りしめた。
「このままじゃ、また後ろへ反り返っちゃうかも…」
不安がよぎった。
と、そのとき、段ボールは一切の抵抗をやめ、翔一の身体はまるで無重力のようにふわりとその状態で留まった。正に浮いていると言っていいと思う。先ほど経験した感覚とは違う。
翔一は喜んでいいのか不安になるべきか戸惑った。
が、もうそんな暇はなかった。今度は何と、足元が上に浮き出した。と同時に先端がぐわっと下がり始めた。正面の景色が目に飛び込んできた。
「今度は前のめりか!?」
一瞬ヒヤリとするも、段ボールは翔一を乗せたまま前へと滑りだした。ぐっと後ろから持ち上がるような感覚で、段ボールはまるで下り坂を滑るように加速していく。
「段ボールが走り出した!」
翔一はそう感じた。
が、段ボールの底が地面に近づく。
「ザザアー」
段ボールは音を立てて地面に着地した。大した距離は移動していなかった。
しかし、翔一は興奮していた。
「雪山をそりで下ったみたいだ」
地面に寝そべったまま、しばしその余韻に浸っていた。
やがて立ち上がり元のスタート位置に戻る。と言っても、たった10メートル位後ろだったが。
段ボールを確認してみる。底が少し擦れているけど問題なさそうだ。
突っ立ったまま、今までのことを頭の中でおさらいしてみる。
「俺の予期しないことが起こったから、また新しい何かが起きるかもなあ。まあでも、これまでに掴んだコツでやっていくしかないな」
と自分に言い聞かせ、翔一は再びいつもの構え(もうこれはライディングポジションと呼んでもいいだろう)をとった。
すっかり板についている。五感を集中させて、その風を待った。
「ゴオーーー、ゴオーーー」
あの音が聞こえる。
「よし、チャンスは近いぞ」
やがて、段ボールの先端がこちらに向けてしなり出した。
さっと、身体全体を段ボールに預け、風に乗るタイミングを測る。今回は、幾分力を抜いて暴れる段ボールをコントロールできている。段ボール1枚を隔てて翔一は風と均衡を保っているのを感じた。とても心地良い、さっきも感じた感覚だ。
「さあ、そろそろだ」
あとはタイミングだ。両足でタメを作ったままその時を待つ。
「グワッ」
段ボール全体に当たりがきた。
「スッ」
翔一はきれいに跳び上がった。
「乗った、成功だ!」
両足は地面を離れている。段ボールが、若干前後に揺れる。翔一は、かすかに微笑んだ。
ここを上手くやり過ごせば、風ともっと仲良くなれる気がした。力で抑え込むのではなく、風は今どう吹いてるのかを感じる。
さっきまでは怖かった風に、少し親しみが持ててきた。
翔一は気づいていないが、翔一を乗せた段ボールは均衡を保ったまま既に2メートル程の高さに達していた。翔一は宙に浮きながら、次のタイミングを待っていた。
「来た!」
ぐっと段ボールの後ろが持ち上がり、前へと滑りだした。段ボールの先端が下がり、目の前が見えたとき、翔一は初めて自分がかなり高い位置まで上がっていることに気づいた。
段ボールは加速する。翔一の髪は後ろへ流れ、顔を切る風に快感を覚えた。
「気持ちいい!」
今までの苦労が一気に吹っ飛んだ。
「そうそう、これだよ俺がやりたかったのは。やっぱり出来たんだ」
翔一は前のめりにならないよう重心を後ろに掛け続け、それがまた更なる加速を生んだ。まるで氷の上を滑るように翔一の段ボールは直線を描いて、正門へと向かった。
と、正門を越えてしまうかと思われた瞬間、正面から大きな風を受け、翔一の段ボールは急ブレーキが掛かったように減速した。
「うわ~っ?」
今度は段ボールの先端が上がり出し、翔一の身体は直立不動をするような形となった。
「このままでは後ろにひっくり返る」
必死に段ボールにしがみつき、頭で段ボールを押さえ付け耐えた。
「あ~ダメか?」
翔一が諦めかけたとき、
「フワ~」
身体全体が無重力になった感覚になり力が抜けた。
「俺は今どうなってるんだ?」
自分が置かれている状況が把握出来ない。
正面は段ボールで覆われているため、視線を横に向けてみた。すると、何と景色が後ろに流れている。
「あっ、俺は後ろに流されているのか?」
不思議と風の抵抗は感じない。代わりに何の抵抗もできない。全身が風に包まれて後ろに運ばれているように感じる。
「一体いつまで流されるんだろ?」
翔一は少し不安になった。
「このままい行けば、校舎にぶつかってしまうかも」
翔一は背後に建つ校舎を想像して、益々不安になった。
と、風の力が弱まったのだろうか、翔一を乗せた段ボールは緩やかに止まり、そのまま宙に浮いた。
風が無くなったのではない。まだ前から吹いているので、その風に上手く合わせてバランスを保った。どうやら一段落したようだ。
翔一は落ち着きを取り戻した。
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