左耳のイヤーカフ ~戦う広報室~

柴田 恭太朗

第1話 祝賀会リハーサル

 ミディアムの髪を耳にかけ、左耳に噛ませたゴールドの冷たさを指で確かめる。

 私の指がイヤーカフに触れるのは、思考を極限まで尖らせるための、意識のスイッチだ。一方で、右耳に掛けたインカムからは、設営スタッフたちの荒い呼吸と、配線が擦れるノイズが絶え間なく流れ込んでくる。


「……回線チェック。影アナのマイク、ハウってる。300Hzのフェーダー、3デシdB下げて」


 呪文のような指示が、調整室のミキサーへと飛ぶ。


 ここはホテルのバンケットルーム、 三千人は収容できる。

 明日の上場記念イベントに向け、舞台照明のムービングライトが生き物のように空を切り、床には「バミリ」と呼ばれる立ち位置指定のビニールテープが十字に貼られている。


 客席には、明日の記事を執筆する主要メディアの記者席が、獲物を待つ動物のように整然と並んでいる。


「次、羽鳥はとりCEOの祝辞。立ち位置、センター・ツラ(舞台端)まで一歩出して。……久住くすみ、スクリーンが違う。止めろ」


 インカムから、広報室長・三枝さえぐさの声が届く。

 視線を上げると、200インチの巨大LEDスクリーンに、予定にはない鮮烈な真紅のテロップが踊っていた。


『業界の停滞を、我々の速度が粉砕する』


「誰の指示?」

 私が問うより先に、舞台袖で照明のDMXコントローラを操作している男の背中が見えた。


――烏丸継人からすまつぐと

 上場を仕切る幹事の証券会社が、「ご祝儀相場を爆上げする演出家」として、強引に送り込んできた劇薬のようなイベントプロデューサー兼コピーライターだ。


「烏丸さん、何をしているんですか。そのテロップ、広報は未確認です」


 私が詰め寄ると、烏丸はブルーの地明かりの中で、ゆっくりと振り返った。目を細める。

「お嬢さん、誰?」

「久住です、広報の久住あかり」、 首から提げたネームプレートを示す。

「確認を待っていたら、祭りは冷めるんだよ、久住ちゃん。上場は祝賀会じゃない、資金調達の初日なんだ」

 烏丸の口元は笑っているのに、目が冷たい。

「初値が崩れたらどうなる。ロックアップ解除までの資金繰りが締まる。採用は止まる。開発ロードマップも先細る。投資家は『誠実さ』に金を払うんじゃない。次の四半期に伸びる『確度』に払う。だから、この台本で行く」

 烏丸が差し出してきたのは、金の箔押しが施された、指に吸い付くような厚手の原稿だった。

 私は一瞥し、二行目で指を止めた。


> 「……競合他社の停滞を、我々は清々しい凪(なぎ)として見下ろしている。数字に弱い部署は腐るだけ腐らせて、バッサリ……」


 視界の端が、熱くなった。

 三年前、私は一度、言葉で会社を殺した。

 前職のITスタートアップで、社長の「勢い」に任せた声明文に「赤」を入れられなかった。その記憶が、喉の奥に苦いものを生む。差別的だと切り取られ、法務リスクを突かれ、SNSの炎上渦中で会社が解散した、あの日の焼け跡の匂い。


「これは……、使っていい言葉じゃない」


 私の声が、自分でも驚くほど冷たく響いた。


「ただの火種です。烏丸さん、あなたは『腐る』という言葉で、切り捨てられた社員や提携先を挑発している。明日の朝、この一文がネットでどう切り取られ、燃え広がるか想像できないんですか?」


「想像しているさ。株価が跳ね上がる光景をね」

 烏丸が不敵に笑う。

「君の仕事は言葉を『ぐ』こと。私の仕事は言葉で『刺す』こと。どっちが企業の価値を上げるか、明白じゃないか」


「価値を上げるのは、明日の株価ではなく、明後日の信頼です」

 三枝がいつの間にか私の隣に立っていた。


 彼は烏丸を睨むのではなく、手に持った進行表キューシートを静かに指し示した。


「烏丸さん、主幹事の顔色は伺うが、現場の承認フローを無視する人間はここでは障害物でしかない。……久住、その原稿から『毒』をすべて抜け。一時間だ」


 烏丸は一瞬、鼻白んだ。すぐに作り笑いで表情を上塗りし、舞台袖の暗がりへと消えていった。

 スタッフたちは、烏丸のカリスマ性と、三枝の静かな威圧感の間で、板挟みになったように動けずにいる。


 私は再び、左耳のイヤーカフをなぞった。

 指先に伝わる金の滑らかさが、前職の「焼け跡」を忘れようとする自分を繋ぎ止めてくれる。


「演出、デフォルトに戻して。……原稿の精査に入ります」


 私はタブレットを開き、烏丸が書いた煌びやかで独りよがりな言葉を、一つずつ消去し始めた。

 三年前の私なら、この熱量に流されていたかもしれない。


 だが、今の私には、この原稿がどれほど鋭い刃に見えても、それが自分たちの喉元に向けられた、危ういナイフにしか思えなかった。


 リハーサルの開始を告げるベルが、会場に響く。

 私はインカムのスイッチを切り、現実の音を遮断して、羽鳥さんのために「生き残るための言葉」を探し始めた。

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