SPICE(スパイス)
@hakutarou
第1話香りのない覚醒
額が、ひどく熱かった。
目を開けると、見知らぬ木造の天井が視界に映る。
焦点が合うまで、しばらく時間がかかった。
「……ここは……」
声を出した瞬間、喉がひりつく。
身体は重く、頭の奥に鈍い痛みが残っていた。
無意識に額へ手を伸ばす。
包帯の感触。
――事故の、傷。
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
理由は分からない。だが、思い出してはいけない何かが、確かにそこにあった。
扉が開く。
「起きたか」
落ち着いた低い声。
白衣は着ていないが、立ち姿だけで医師だと分かる男だった。
「君は助かった。だが……ご両親は」
それ以上の言葉を、俺は聞けなかった。
男は何も言わず、静かに頭を下げた。
数日後、身体は歩けるほどに回復した。
ここは山奥の一軒家。
風の音と、木の軋む音しか聞こえない。
家の中を歩いていると、ひとつだけ異様な部屋に気づいた。
棚に並ぶ、古い医師免許証。
机の上には、消毒液、注射器、見慣れない医療器具。
――全部、俺を治療したものなんだろうか。
なぜか、長居したくなかった。
首元に手をやる。
事故の日から外せないネックレス。
透明な装飾の中に、無色の粉末が封じられている。
「……何なんだ、これ」
答えは返ってこなかった。
「東京へ行くといい」
夕食のあと、医師は唐突に言った。
「君の事故を調べた。だが、公式記録と合わない点が多い」
「単なる事故とは言い切れない」
「……誰かが、やったってことですか」
「断定はできない。ただ、“力”が関わっている可能性はある」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「君自身にも、まだ知らないことがある」
それ以上、医師は何も語らなかった。
翌朝。
荷物は少ない。
家を出る前、医師は俺を見て言った。
「もし“香り”を感じたら、深く吸いすぎるな」
「人は、簡単に変わってしまう」
意味は分からなかった。
玄関を出る直前、奥の部屋から微かな物音がした。
――がさり。
「……?」
「おや」
低く、楽しげな声。
「起きたかい」
誰に向けた言葉なのか。
俺には分からなかった。
東京へ向かう途中、廃れたサービスエリアで男に呼び止められた。
「金と荷物、置いていけ」
男の手には吸引器。
中の粉末から、甘く腐った匂いが漂っている。
――偽スパイス。
なぜか、そう確信した。
男はそれを吸い込み、身体が歪む。
獣のように膨れ上がった腕が、俺に振り下ろされた。
殴られ、転がされ、立ち上がる。
勝てない。
そのとき、記憶の底から声が蘇った。
『力はな、透』
『守ると決めたとき、初めて意味を持つ』
胸元が、熱い。
無意識にネックレスを開き、
俺は中の粉末を吸い込んだ。
香りは、なかった。
代わりに、世界が変わった。
視線が高くなる。
身体が、知らない重さと強さを持つ。
敵の動きが、遅い。
拳を振るう。
一撃で、男が吹き飛んだ。
強い。
強すぎる。
胸の奥で、何かが笑う。
止まらない。
倒れた男に、さらに拳を――
「そこまでだ」
風を切る音。
肩に鋭い衝撃が走り、力が抜けた。
地面に崩れ落ちる直前、
弓を構えた少女の姿が視界に映る。
冷静な目。
迷いのない構え。
少女は俺を見下ろし、静かに言った。
「……普通のスパイスじゃ、ない」
その声を最後に、
俺の意識は闇に沈んだ。
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