深淵の踊り子

ぽこっち

プロローグ

第0項 方舟

旧帝国歴 765年ーー


「良いですかな、リートニッヒ殿下。政治とは、国という名の船を操る舵取りのこと。法とは、民という帆を広げるための手段なのです。」

チョビヒゲを生やしモノクルをかけた初老の男が、杖で分厚い本をポンポンと叩く。

「...うん」

リートニッヒは、ぼんやりと今日の昼食を想像していた。ハンバーグがいいな、うん。

「次は剣術のお稽古ですぞ。」

即座にハンバーグの夢が潰える。稽古のあとの食事は大抵喉に入らない。

項垂れるリートニッヒの視界の先には大きな窓があり、ナウゾロフ帝国の大地を一望できる。

ふと城下町が目に留まる。

『! そうだ、いいことを思いついたぞ』

眠くなるような講義を聞くよりも、もっと楽しく国を知る方法があるではないか。



数日後、宮城をこっそり抜け出して、城下町に降りてきていた。

王族専用の勝手口は、やはり見張りがいなかった。

「馬車の中からでしか、見たことなかったからな。」

リートニッヒは満足そうに頷く。思う存分に国を見て回ろう。

ーー夢中になりすぎたことが災いした。



「ここ、何処だ...?」

辺りを見渡すが、薄暗くて見えにくい。

まさか、ここが裏通りという所だろうか。

そう考えると、背中がスッと冷えていくのを感じた。

しばらくうろうろしていると、自分と同じくらいの歳の少年が宿屋から出てくる。共に宿から出てきたのは、小太りの、仕立てのよい服を着た中年男性。少年は男に手を差し出し何か言ったが、男は頭を振った。

しばらくの口論の末、男は少年を何度も殴りつけ道の端へ蹴り飛ばすと、舌打ちだけ残してリートニッヒとすれ違い、表通りへと去っていった。

少年が暴力を受けている間、途中で何度も助けに行こうとした。けれどリートニッヒの足は地面に釘で打ち付けられた様に動かなかった。男が去り、ようやく金縛りが解けると、傷ついた少年へと近寄った。

少しずつ腫れ上がってくる少年の顔に無力さを感じつつ、手当てをしようと触れるが即座に振り払われてしまった。

「おれに近づくな!おまえらきぞくから見たら、おれたちへいみんは、ゴミなんだろ!?」

自分に向けられた言葉がただの怒号ではないことは、カチカチと音を立てる彼の歯で判った。

薄暗くて悪臭のする裏通り。そのすべてが、たったひと言でどうでもよくなってしまう。

「ごめん」

貴族は人で、平民はゴミ。

教師には、そんなことは教わらなかった。

否定したい。君だって自分と同じ人だと言ってあげたい。でも、彼はきっとそれを薄っぺらい同情と捉えるはずだ。

実際リートニッヒは現状ただの皇太子で、彼は人間だと証明かいかくできる立場にいない。

だからリートニッヒは

「ごめんっ」

それしか言えなかった。


気がつけばリートニッヒは顔中をびちゃびちゃにし、鼻水をすすっていた。

「おいおい、おれよりひでえ顔じゃんか。

いいのかよ。"おきぞくさま"がそんなみっともねえつらして。」

そこで初めて少年は笑った。少年の顔は完全に腫れ上がり、髪は煤けている。それでも、肩まで伸びた彼の金色の髪は美しかった。

『そうか。民は民でも、平民は帆じゃない。法で定められた、積荷なんだ。』

理不尽を肯定するのは、他でもない政策。

薄い体躯に、青い顔。痩せこけた現皇帝を思い出した。リートニッヒの父は、政治の場にいる時以外は常に寝台で咳をしていた。

『彼らが船に乗せられた瞬間には、もう既に商品名と値札が付けられている。積荷は自ら名を名乗ることができない。

名付けるのはいつだって"人間"だ。』

恐らく皇帝ちちうえはもう長くない。

そうなれば、次に皇帝に担がれるのはーー

リートニッヒは鼻水をすすりながら、自らの手を見つめると握りしめた。

「決めたぞ。私はこの世全ての積荷を拾う。」

しばらくして、リートニッヒは突然独りでに頷いた。

「つみに??」

首を傾げる金髪の少年に、リートニッヒは真っ赤に腫れた目で微笑んだ。

とはいえ、何からすればいいのかわからない。進むべき方向だけが、彼を照らしていた。

でも、"自分の政治"ってものがほんの少しだけ顔を出した気がしていた。

「ああ。私の名前はリートニッヒ。今は力不足だが、いつか必ず君を迎えに来る。

それまで耐えていてくれ。」

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