『D&I要件で不適格となった天才脚本家は、白人男性の汚名を着ながら、影で$500万ドルの傑作を書き上げる。』

品川太朗

第1話 【落日】かつての天才と、100万ドルの屈辱

ピィィ、と甲高い電子音が、停滞した部屋の空気を切り裂いた。


電子レンジが吐き出した、プラスチック容器の歪む熱と、冷凍食品の人工的なソースの焦げ付く匂い。


それが、ほこりと酸っぱいビールの残り香が混じり合う、このワンルームアパートの支配的な香りだった。


「……クソが」


アダムは、床に転がる空のアルミ缶を、つま先で無造作に蹴った。

カラン、と安っぽい音を立てて転がったそれは、壁際に積み上げられた「傑作」になるはずだった脚本の束にぶつかり、虚しく止まる。


三年前。あの夜は、こんな音はしなかった。


三年前のハリウッド。

スワロフスキーのシャンデリアが放つ無数の光の破片が、シャンパンの泡の中で弾けていた。


『凍てつく国境線』。

彼、アダム・ハリソンの名を業界に刻みつけたスパイサスペンスのプレミア試写会。そのアフターパーティー。


熱に浮かされたような賞賛が、アダムを包んでいた。


「アダム・ハリソンこそ、現代のビリー・ワイルダーだ!」

皺の深い大御所の批評家が、その手を握りしめてきた。


「構造の完璧さ! あの第二幕の転換点は教科書に載るぞ」

「伏線回収の芸術性だ。最初の一分で、最後の一分が仕込まれている」

「何より、登場人物の心理だ。悪役ですら、観客は愛してしまう」


スポットライトの中心。

冷えたグラスを傾けながら、アダムは、自分の才能が世界を動かせると本気で信じていた。その高揚感は、アルコールよりも強く彼を酔わせた。


     *


彼は使い古されたラップトップに向き直った。

画面には、ここ数ヶ月の心血を注ぎ込んだ企画書――環境アクティビストを主人公にしたSFの、無慈悲な「お祈りメール」が映し出されている。


『拝啓 アダム・ハリソン様。

……地球環境への切実なメッセージは素晴らしい。しかし、商業的に観客を惹きつけるには、プロットが複雑すぎます。


また、率直に申し上げますと、このテーマの深みを、白人男性の視点で描き切れるとは、我々には判断できませんでした』


「不適格、か」


アダムは嘲るように呟いた。

三年前、「完璧」と賞賛された才能は、今や「不適格」という一つの属性で裁断される。


彼はその企画書データを、ゴミ箱アイコンにドラッグ&ドロップした。

クリック音は、まるで断頭台の刃が落ちる音のように、静かな部屋に響いた。


コン、コン。


乾いたノックの音が、淀んだ思考を遮った。

借金取りか、家賃の催促か。


アダムは舌打ちし、うんざりしながら重いドアを開ける。

そこに立っていたのは、このゴミ溜めのようなアパートには場違いなほど、完璧に仕立てられたアルマーニのスーツを着こなした男だった。


リチャード・ストーン。


大手スタジオで最も冷徹と噂されるプロデューサー。

かつて、三年前のあの夜、アダムの才能を誰よりも高く評価し、絶賛した男だ。


リチャードは、アダムの荒廃した部屋を一瞥しても、眉一つ動かさない。

その視線は、室内の汚物と、アダム自身とを、同等の「処理すべき対象」としてしか見ていなかった。


「アダム。君の才能がこんな場所で腐っているのは、業界にとって損失だ」

「……お前たちのシステムが、俺を腐らせたんだろう」


アダムは、ドアノブを握ったまま、低い声で応じた。

その声には、怒りよりも乾いた諦観が滲んでいた。


「その通り。そして、君の属性は今のシステムに受け入れられない。だが、我々は合理的な解決策を見つけた」


リチャードは、アダムの返答を待たずに部屋に足を踏み入れる。

ビールのシミがついたローテーブルの上に、高級な革のブリーフケースから取り出した二つのファイルを、音を立てて置いた。


一つは企画書。

もう一つは、法務部が作成した分厚い契約書。


「『コードネーム:アリア』。スタジオが最重要(ハイ・プライオリティ)に指定したプロジェクトだ」

リチャードは、契約書の表紙を、磨かれた爪先でトン、と叩いた。


「報酬は、前金で100万ドル。成功報酬を含めれば、最大で500万ドルだ」


アダムは息を呑んだ。

100万ドル。その数字が持つ質量が、一瞬、部屋の埃っぽい空気を歪ませた気がした。


「……なぜ、俺に?」


アダムの声は、乾燥した喉のせいで掠れていた。

この三年、スタジオは彼を「時代遅れの才能」として徹底的に排除してきたはずだ。


「この企画の『旗(フラッグ)』は、君ではないからだ」


リチャードは冷ややかに企画書を開いた。

そこには、情熱的な瞳をした若い女性の写真。


「イザベル・ロドリゲス。ラテン系移民のコミュニティ出身。社会の不平等と闘う、情熱的な若手だ。D&I(多様性と包括性)要件は完璧。スタジオの上層部は、彼女の『声』に惚れ込んでいる。彼女は、我々にとって『理想の旗』だ」


リチャードは、もう一つの薄いファイル――イザベルが書いたという初期稿を、アダムに押しやった。


アダムは、疑念を抱きながらページをめくる。

数ページ読んだだけで、リチャードが自分を呼んだ理由を、胃の腑に落ちるように理解した。


イザベルの脚本は、熱量に満ちていた。

人種差別や貧困の描写は、それを経験した者でなければ決して書けない、生々しい怒りに溢れている。


だが、物語としては、完全に破綻していた。


プロット構造は崩壊し、登場人物の動機は一貫せず、クライマックスはただ主人公が叫んでいるだけで、何の解決もカタルシスも生み出していない。


「……ひどいな。これじゃ誰も最後まで見ない」

「その通り」


とリチャードは頷いた。


「彼女の『声』は必要だ。政治的にも、マーケティング的にも。だが、このままでは間違いなく失敗する。そこで、君の『骨格』が要る」


リチャードは、アダムの目を真っ直ぐに見据えた。

「君は、彼女の情熱を殺さずに、大衆が熱狂する完璧な骨格を、この脚本に埋め込むんだ。ゴーストライターとして」


ゴーストライター。


その言葉は、熱湯を浴びせられたかのような激しい屈辱をアダムの全身に走らせた。


自分を追いやったシステム。

そのシステムが掲げる「新しい才能」の影武者になれというのか。


しかし、同時に、アダムの指先は疼いていた。

イザベルの初期稿は、確かにひどい。だが、その「熱量」は本物だ。


(この熱量を、俺の『骨格』で支えたら? 最高の物語が創れる……)


創作への、飢えにも似た渇望。

そして、来週には差し押さえられるかもしれない、このアパートの家賃という、冷たい現実。


「……イザベルは、自分がゴーストを使われていると知っているのか?」

「まさか」


リチャードは鼻で笑った。


「彼女には、君が『構成のプロのコンサルタント』として入る、と説明する。彼女のプライドと、何よりスタジオの『理想の旗』というイメージを傷つけないために、君の存在はあくまで『影』だ」


それは、完璧に用意された欺瞞だった。


アダムは、500万ドルの契約書を手に取った。

彼の視線は、ある条項に釘付けになる。


『生涯にわたる守秘義務(NDA)』


違反した場合、前金100万ドルを含むすべての報酬の即時返還。

および、違約金として、500万ドルを支払う。


それは、才能を売る契約であると同時に、才能を封印する「檻」の契約だった。


アダムは、ペンを握りしめた。


震える指で、契約書の最終ページに、自分の名前を書き殴った。

インクが紙に染み込んでいく様は、まるで自分の魂が吸い取られていくようだった。


リチャードは満足そうに契約書を回収し、ブリーフケースに収めると、一言も発さずにアパートを出ていった。


一人残されたアダムは、荒れた部屋の真ん中で、イザベル・ロドリゲスの初期稿を睨みつける。


その熱量だけの原石に、アダムは静かにペンを入れた。

屈辱と、500万ドルへの安堵と、そして何よりも、物語を構築することへの抑えきれない歓喜とともに。


そこに生まれ落ちたのは、完璧な構成美を宿した、誰も知らない「天才の筆致」だった。


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