花弁
埴輪庭(はにわば)
第1話
◆
春の陽射しが中庭の薔薇を照らす頃、サーシャ・ヴォルコフは自分がこの学園において異物であることを、骨の髄まで思い知らされていた。
廊下を歩けば令嬢たちが扇で口元を隠して囁き合い、食堂では誰もが彼女の隣の席を避ける。商人の血が混じった成り上がりの娘──その烙印は彼女の父が男爵位を買い取った日から、サーシャの額に見えない文字で刻まれていたのだ。
「ねえ、聞いた? ヴォルコフ家って元は布地商人ですって」
「まあ、道理で。あの娘、レースの見分け方も知らないのよ」
聞こえよがしの囁きにサーシャは俯いて歩くしかない。反論したところで何になろう。彼女たちの言葉は事実であり、事実ほど鋭い刃物はこの世に存在しないのだから。
新宰相ハインリヒ・フォン・ベルクが就任してから、王国は激しい変革の渦中にある。
商工業の振興、税制の改革、そして──平民の貴族への取り立て。「新貴族政策」と呼ばれるそれは国庫の逼迫を補うための苦肉の策であると同時に、古い血統を誇る貴族たちにとっては許しがたい侮辱でもあった。
サーシャの父、ニコライ・ヴォルコフは三年前に男爵位を得た新貴族の一人である。布地貿易で財を成し、王室への多額の献金と引き換えに爵位を手に入れた。娘を貴族学院に入れたのは見栄であり、野望であり、そして愛情の歪んだ発露でもあったのだろう。だがその愛情がサーシャにとってどれほどの重荷であるかに想いを馳せようとはしなかった。
「ねえ、そこの成り上がりの雌犬」
凛とした声が廊下に響いたのは入学して一月が経った頃のことだ。
サーシャが振り返ると、そこには一人の令嬢が立っていた。亜麻色の髪を高く結い上げ、薄紫の瞳が冷ややかな光を湛えている。フレデリカ・フォン・アイゼンシュタット。公爵家の一人娘であり、学院において最も高貴な血筋を持つ存在である。
「その歩き方は何かしら」
フレデリカは眉を顰め、サーシャの足元を見下ろした。
「踵から着地して、爪先で床を蹴っているでしょう。まるで荷馬車を引く農婦のようですわ。貴族の娘が廊下を歩くときは足裏全体で床を撫でるように、滑るように進むのです。分かって?」
「は、はい……申し訳ございません」
「謝罪は要りません。直しなさい」
それだけ言うと、フレデリカは踵を返して去っていく。サーシャはしばらくその後ろ姿を呆然と見送っていたがやがて自分の足元を見下ろし、ぎこちなく歩き方を直そうと試み始めたのだった。
それからというもの、フレデリカはことあるごとにサーシャの至らなさを指摘するようになる。
「紅茶の持ち方が下品ですわ。小指を立てるのは成り上がりの証拠よ」
「その髪飾り、季節外れですわね。雪花樹の意匠は三月までと決まっているの」
「笑うときに歯を見せないで。貴女は馬ではないのでしょう?」
どの言葉も棘があり、侮蔑が滲んでいる。だがサーシャは気づいていた。フレデリカの指摘は常に正確で、彼女の言う通りにすれば周囲の嘲笑は確かに減るのだということを。他の令嬢たちは陰で嗤うだけで、決して教えてはくれない。フレデリカだけが冷たく、残酷に、しかし確実にサーシャを貴族として形作ろうとしていたのだ。
「どうしてわたくしに構っていただけるのですか。いえ、とても助かってはいるのですが……」
ある日、サーシャは思い切って尋ねてみた。
フレデリカは不思議そうに首を傾げる。
「構う? 助ける? 何を言っているの。貴女のような成り上がりが学院の品位を下げているから、仕方なく最低限の躾をしているだけですわ。飼い犬が粗相をしたら叱るでしょう? それと同じこと」
その言葉にサーシャの胸がちくりと痛んだのは確かだが同時に妙な安堵も覚えていた。フレデリカは嘘をつかない。彼女の言葉には裏表がなく、それゆえに信頼できる。陰で何を言われているか分からない他の令嬢たちよりも、面と向かって罵倒してくれるフレデリカの方がサーシャには遥かに親しみやすく感じられたのだ。
◆
夏が近づく頃、サーシャの周囲に小さな変化が訪れる。
「ヴォルコフ嬢、よろしければこの席へどうぞ」
声をかけてきたのはエーリッヒ・フォン・ヴァイスベルク伯爵令息だった。金髪碧眼、彫刻のように整った顔立ち。学院の女生徒たちの憧れの的であり、由緒正しい伯爵家の嫡男である。
「わ、わたくしで宜しいのですか」
「もちろんです。貴女とは以前から一度お話ししたいと思っていたのですよ」
エーリッヒの笑顔は眩しく、差し出された手は温かい。サーシャの心臓が早鐘を打ち始めたのを、彼女自身も止めることができなかった。
エーリッヒはサーシャに対して紳士的だった。舞踏会では必ず一曲を共に踊り、庭園を散歩する際には日傘を差しかけてくれる。彼の態度は他の貴族たちの目にも留まり、サーシャへの風当たりは目に見えて弱まっていったのだ。
「商人の出とはいえ、ヴォルコフ嬢もなかなかやるじゃないの」
「エーリッヒ様に見初められるなんて、運がいいこと」
囁きの質が変わった。嘲笑から、嫉妬へ。それはサーシャにとって、ある種の勝利であるようにも思えたのである。
ただ一人、フレデリカだけは何も言わなかった。
いつものように歩き方を直せだの、扇の使い方が下手だのと小言を言うくせに、エーリッヒの話題になると口を噤んでしまう。その沈黙がサーシャには不思議でならなかったが問いただす勇気もないまま日々は過ぎていく。
ある午後、サーシャがエーリッヒとの逢瀬から戻ると、廊下でフレデリカとすれ違った。薄紫の瞳がサーシャを捉え、何かを言いかけるように唇が動く。だが結局、フレデリカは何も言わずに通り過ぎていったのだった。その背中を見送りながら、サーシャは胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えていた。
◆
秋の訪れとともに、婚約の話が持ち上がる。
「サーシャ、エーリッヒ様から正式に申し込みがあった」
父ニコライの声は上擦っていた。商人として成功を収めた男がこれほど興奮している姿をサーシャは見たことがない。
「伯爵家との縁組だぞ。我が家もようやく本物の貴族として認められるというものだ」
サーシャもまた嬉しさに胸を膨らませていたが婚姻契約書に目を通したとき、一つの文言が引っかかったのも確かだった。
『甲は乙に対し、白百合の加護を与え、乙は甲に対し、その根を支える土壌としての全き忠誠を捧ぐものとする』
「お父様、この一文は何でしょうか」
「ああ、私も気になって先方に確認した。古い慣例で、形式的に入れるものらしい。意味はないそうだ」
それでもニコライは用心深い商人である。貴族院に問い合わせを送り、数週間後に返答を得た。
『当該条項は旧時代の婚姻契約における慣用句であり、現行法上特段の問題は認められない』
返答はそれだけだった。一文の意味についての詳しい説明はなく、削除の要否についての助言もない。ニコライは首を傾げたものの、問題がないと言われた以上は大丈夫なのだろうとニコライは自分に言い聞かせ、契約書に署名が交わされたのだった。
婚約発表の夜、サーシャはエーリッヒの腕に手を添えて舞踏会場に現れた。周囲から祝福の言葉が降り注ぎ、羨望の視線が突き刺さる。これまで蔑まれてきた成り上がりの娘が名門伯爵家の嫁となるのだ。
だがその夜、サーシャの目はなぜか会場の隅に立つフレデリカを探していた。薄紫の瞳と視線が絡んだ瞬間、フレデリカはすぐに顔を背けてしまう。その横顔に浮かんでいたのは軽蔑だったのか、それとも別の何かだったのか。サーシャには分からなかった。
◆
変化が訪れたのは婚約から二月ほど経った頃である。
「エーリッヒ様、これは……」
サーシャは言葉を失っていた。学院の裏庭で、婚約者が見知らぬ令嬢と睦み合っているのを目撃してしまったのだから。
「ああ、サーシャか」
エーリッヒは悪びれる様子もなく、相手の令嬢から身体を離した。
「何を驚いている。貴族の男が妾を持つのは当然のことだろう」
「で、ですがわたくしたちは婚約したばかりで……」
「だからどうした。契約は契約、遊びは遊びだ。貴女は私の妻になる。それで十分ではないか」
サーシャの胸の内で、何かが音を立てて崩れていく。エーリッヒの碧い瞳は冷たく、そこにかつての優しさの欠片も見出すことはできない。
「お父様、婚約を破棄したいのです」
屋敷に戻ったサーシャは震える声で父に訴えた。ニコライもまた、娘から事情を聞いて顔を真っ赤にしている。
「なんということだ。話が違うではないか」
ニコライは即座にヴァイスベルク伯爵家に書簡を送り、婚約破棄を申し入れた。だが返ってきた返答は予想もしないものだったのである。
『契約書を再度ご確認いただきたい。当方に非はない』
サーシャは何度も契約書を読み返した。しかしどこにもエーリッヒの行為を正当化するような文言は見当たらない。父もまた商人の目で隅々まで確認したがやはり問題は発見できなかったのだ。
「フレデリカ様、お願いがございます」
藁にも縋る思いで、サーシャは公爵令嬢の元を訪れていた。差し出した契約書を、フレデリカは一瞥もせずに受け取る。
「何ですの、これは」
「婚姻契約書です。どこかにおかしな点がないか、教えていただきたいのです」
フレデリカの薄紫の瞳が契約書の文面を滑っていく。やがてその唇がゆっくりと弧を描いた。それは笑みであり、同時に深い軽蔑の表れでもある。
「まあ、まあ、まあ」
フレデリカは声を上げて笑い始めた。扇で口元を隠すことすらせず、腹を抱えるようにして。
「これほど見事な罠に嵌まるとは。流石は布地屋の娘、頭の中身まで安物の木綿で出来ているようですわね」
「フレデリカ様……」
「貴女のお父様も同罪ですわ。商人として財を成したのでしょう? 契約の怖さを誰よりも知っているはずなのに、この程度の罠も見抜けないとは。所詮、平民は平民ということかしら」
サーシャの目に涙が滲んだがフレデリカは容赦しない。
「泣いても何も変わりませんわ。いいこと、この一文を御覧なさい」
長い指があの条項を指し示す。
「『甲は乙に対し、白百合の加護を与え、乙は甲に対し、その根を支える土壌としての全き忠誠を捧ぐものとする』。貴女はこれを形式的な文言だと思ったのでしょう?」
「貴族院からも、問題はないと……」
「貴族院は嘘をついてはいませんわ。彼らにとって『問題がない』というのは現行法に抵触しないという意味に過ぎない。この条項が何を意味するのか、新貴族ごときに親切に教えてやる義理など、彼らにはないのです」
フレデリカの声には嘲りと同時にどこか諦めにも似た響きがあった。
「貴族社会とはそういうものですわ。知っていて当然のことを、わざわざ教えてはもらえない。知らないのは知らない者の落ち度。それがこの世界の掟」
サーシャは唇を噛んだ。貴族院は嘘をついていなかった。ただ、教えてくれなかっただけなのだ。それがどれほど残酷なことか、今になってようやく分かる。
「この『土壌』という言葉」
フレデリカの声が急に冷たく硬質なものに変わる。
「古来より貴族の婚姻契約において、これは土地、屋敷、そして将来生み出される収益を含む全資産の管理権を指す隠語ですのよ。八百年前、王国建国期に定められた婚姻規範書に記載がありますわ。当時は領地を巡る争いが絶えず、婚姻による財産移転を秘匿する必要があったの。だから表向きは美しい言葉で飾り、実質的な意味は口伝でのみ継承されてきた」
サーシャの顔から血の気が引いていく。
「そして『白百合の加護』とは単に家名を名乗ることを許すというだけの意味。つまり、貴女は伯爵家の名を買う対価として、実家の全てを売り渡すと署名したのですわ」
「そんな……」
「商取引の契約書なら、このような曖昧な表現は使いませんわね。だからお父様にも見抜けなかった。これは貴族社会という閉じた世界の、暗黙の了解に基づいた罠なのです。代々の貴族ならば幼い頃から自然と学ぶ知識を、新貴族は持ち合わせていない。その無知につけ込んだ、卑劣な手口」
フレデリカは契約書をサーシャに突き返した。
「ヴァイスベルク伯爵家の財政が火の車だという噂はわたくしの耳にも届いておりましたわ。エーリッヒ様が突然、新貴族の娘に近づいた理由も、今なら分かるでしょう?」
サーシャは膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。全てが最初から仕組まれていたのだ。優しい言葉も、差しかけられた日傘も、あの眩しい笑顔も。
「どう、すれば……」
「さあ。わたくしに聞かれても困りますわ」
フレデリカは肩を竦める。
「法的には契約は有効です。貴女の署名がある以上、知らなかったでは済まされない。それが貴族社会の掟というもの」
サーシャの頬を涙が伝い落ちる。フレデリカはしばらくその姿を見下ろしていたがやがて小さく溜息をついた。
「……本当に、使えない娘」
もう駄目だ、サーシャはそう思った。
しかし。
それから三日後、ヴォルコフ男爵家に一通の書簡が届いた。差出人はアイゼンシュタット公爵家。
『貴家の件につき、当家として仲裁の労を取る用意がある。詳細は使者に託す』
使者の口から告げられたのは驚くべき内容だった。アイゼンシュタット公爵家がヴァイスベルク伯爵家に対し、婚約の白紙撤回を求めるというのである。
「し、しかし契約書が……」
「公爵閣下は当該契約が新貴族の無知につけ込んだ不当なものであると判断されました」
使者は淡々と続ける。
「王国法においては確かに有効な契約でありますがそれとは別に、貴族間の名誉規範というものがございます。詐術をもって婚姻契約を結ぶことは伯爵家の名誉を著しく傷つける行為。公爵閣下はこの件を貴族院に提訴し、ヴァイスベルク家の不名誉を公にする用意があるとのことです」
それはつまり、ヴァイスベルク伯爵家にとって、金銭的利益と引き換えに社会的信用を完全に失うことを意味していた。
結末は呆気ないものだった。
ヴァイスベルク伯爵家は婚約の白紙撤回を受け入れ、契約書は破棄される。エーリッヒは貴族院から厳しい叱責を受け、彼の女遊びの数々も白日の下に晒されることとなった。醜聞にまみれた伯爵令息は社交界から事実上追放されたのである。
「どうして助けてくださったのですか」
サーシャは改めてフレデリカの元を訪れていた。
「勘違いしないで」
フレデリカは冷たく言い放つ。
「父上が動いたのはヴァイスベルク家のやり口が目に余ったからですわ。放置すれば、同様の手口で他の新貴族も被害を受ける。それは王国の政策を歪め、ひいては公爵家の利益を損なうことになる。貴女を助けたかったわけではありません」
「それでも、わたくしは感謝しております」
サーシャは深く頭を下げた。フレデリカは鬱陶しそうに視線を逸らす。
「感謝など不要ですわ。それよりも、この一件で少しは学んだでしょう? 貴族社会は貴女が思っているほど甘くはない。綺麗な言葉の裏には必ず毒がある。それを見抜けなければ、次は誰も助けてくれないと心得なさい」
その言葉を、サーシャは胸に刻み込んだ。
だがこの日を境にサーシャの中で何かが変わっていた。
それは夜、寝台に横たわっているときに訪れる。目を閉じると、フレデリカの姿が瞼の裏に浮かぶのだ。あの冷たい薄紫の瞳、棘のある言葉、そして誰よりも正直で、誰よりも残酷な優しさ。胸の奥が疼くように熱くなり、サーシャは何度も寝返りを打った。
エーリッヒに惹かれていたときとはまるで違う感覚である。あれは眩しいものに焦がれる蛾のような、浅はかな憧れに過ぎなかった。だが今、サーシャの胸を占めているものはもっと深く、もっと暗く、もっと抗いがたいものだったのだ。
それからの日々、サーシャはフレデリカの周囲をうろつくようになる。
「また貴女ですの。纏わりつかないでくださる?」
「申し訳ございません。でも、もっと色々なことを教えていただきたいのです」
「教えを乞うなら然るべき師を探しなさい。わたくしは貴女の家庭教師ではありませんわ」
罵倒されても、追い払われても、サーシャは懲りずにフレデリカの元へ通い続けた。不思議なことに、フレデリカも完全には拒絶しない。口汚く罵りながらも、サーシャの質問には答えてくれるし、誤りがあれば正してもくれるのだ。
「貴女、この間より紅茶の注ぎ方が上達しましたわね」
ある午後、フレデリカがぽつりと言った。
「本当ですか?」
「素直に喜ばないで。まだまだ人前で出せるような腕前ではありませんわ。ただ、最低限の水準には達したというだけのこと」
それでもサーシャにはこの上ない賞賛に聞こえたのである。
季節は巡り、冬が過ぎ、再び春が訪れようとしていた。
「サーシャ、少し話がある」
父ニコライが妙に改まった表情で娘を呼び出したのはそんな頃のことだ。
◆
「縁談の申し入れが届いた。相手はブラント子爵家のご嫡男だ。先方は真摯な方で、今度こそ信頼できる縁組になると思う」
ニコライの声にはあの一件以来の慎重さが滲んでいる。今度こそ娘を傷つけまいという、不器用な父親の愛情だった。
「お父様」
サーシャは微笑んだ。それはかつての彼女にはなかった、どこか艶めいた笑みである。
「申し訳ございません。その縁談はお断りしていただけますか」
「何だと? 理由を聞かせてもらおう」
「好きな人がいるのです」
ニコライは目を丸くした。
「誰だ。まさかまた怪しげな輩に……」
「いいえ、そうではありません。ただ、まだお伝えできる段階ではないのです」
サーシャは窓の外に視線を向けた。庭の雪花樹がもうすぐ咲き始める頃だろう。その花弁の薄紅色はどこかフレデリカの唇の色に似ているような気がした。
◆
その頃、王国では新たな政策が議論を呼んでいた。
婚姻制度の改革。具体的には従来の男女間のみに限られていた婚姻を、同性間にも認めようという動きである。発端は隣国との外交交渉だった。同性婚を認めている国との貴族間縁組において、法的な齟齬が生じる事例が増えていたのだ。加えて、跡継ぎのいない貴族家が断絶を免れるため、同性の養子を配偶者として迎える慣行が水面下で広まっており、それを公式に認めるべきだという声が上がっていた。
「新宰相はまた奇妙なことを考えているようですわね」
フレデリカは茶器を傾けながら、どこか不機嫌そうに呟いた。その言葉とは裏腹に、何かが背筋を這い上がってくるような感覚がある。理由は分からない。ただ、この話題に触れるたびに、妙な胸騒ぎが止まないのだ。
ふと、サーシャの顔が脳裏をよぎる。最近、あの娘は見違えるほど貴族らしくなってきた。所作は洗練され、言葉遣いも改まり、社交界での立ち振る舞いも堂に入ってきている。相変わらず付きまとってくるのは身の程知らずだと思うが不思議と不快感はない。一度注意したことを素直に受け入れ、次には必ず改善してくる。その姿勢には認めたくはないが見どころがあるとも思えてきている。
だがとフレデリカはサーシャの顔を思い浮かべて眉を顰めた。
このところ、あの娘の視線が気になって仕方がない。何か、妙な光が宿っているのだ。それは犬が主人を見上げるような従順さとは異なり、かといって獣が獲物を狙うような鋭さとも違う。もっと粘度の高い、糸を引くような眼差し。見つめられると、肌がざわつくような感覚に襲われる。
あの目は何なのだろう。
フレデリカは無意識に腕をさすった。窓の外では春の風が雪花樹の蕾を揺らしている。もうすぐ花開く、その薄紅の花弁のことを思いながら、フレデリカはなぜか、あの娘の瞳の奥に灯る、どろりとした熱を思い出していた。
(了)
花弁 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03
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