第二話 猪を見て弓を引く
「……ツボなら買わないぞ?」
「え、突然なんですか? 売りませんけど?」
少女が持つ情報量に圧倒されて、言葉に詰まっていた俺が、その衝撃からようやく解き放たれて、口にしたのは疑いの言葉だった。戸惑いを隠し切れなかった。いや、自己弁護するみたいで申し訳ないが、こんな状況になったら誰だって疑うだろ?
駅前でメイド服姿の女性がチラシを配っている光景は、俺だって何度も見たことがある。
店舗の宣伝をしている人だけじゃない。政治団体、動物保護団体、宗教団体、献血の案内人、などもたまに見かけるし、それぞれ一度以上は話し掛けられたことがある。だけど、人に話し掛けられやすい体質であり、道案内のエリートを自称している俺であっても、巫女服の少女に話し掛けられたのは、さすがに初めての経験だった。
そもそもの話、駅前という便利な場所には人が集まりやすいのだ。そして、人が集まる場所というのは、古今東西を問わず、さまざまな思惑が絡み合ってしまうものだ。俺がまだ高校生だった頃、「助けて下さい、財布を落としてしまって!」と、大学生くらいの女性に駅前で呼び止められたことがある。女性に背中を押されるように、近くの喫茶店に入り、気がついたらツボを買わされる直前だった。
あの時、その喫茶店の店長さんが「怪しくないかい?」と優しく声をかけてくれなかったら、俺はその女性を信じてお金を騙し取られていたかもしれない。
今思えば、一銭も損をせずに、人には善意も悪意も介在していると知れたのは、むしろラッキーだった。だからこそ、今度は注意深くいかないといけない。
同じ過ちは二度と繰り返さない。そうじゃなければ、あの時の失敗から何も学んでいないことになるし、助けてくれた店長にも顔向けできなくなる。せっかく常連になれたのに、あの喫茶店に行けなくなるのはさすがに寂しいからな。
「失礼しました。それよりも、貴方は迷子なんですよね?」
「はい、お恥ずかしながらその通りです。……えっと、近くにある『うけうけ』という名前のパン屋に行きたくてですね」
「パ、パン屋? なんで?」
少女の行き先があまりにも予想外だったので、思わず聞き返してしまった。
近くの喫茶店にでも行きませんかと言われたら、すぐにでも断っていたのに。
「私の叔母が、結婚して脱サラした叔父と一緒に、長年の夢だったパン屋をこの近くで営んでいるらしいのですが……最近、その叔父が重い物を持ち上げた拍子に腰を痛めてしまったらしくてですね。それでですね。しばらくの間、私が叔父の代わりに店の手伝いをすることになったんです」
「それはとても大変ですね。……あれ? なら、叔母さんに直接スマホで聞けばいいんじゃないですか?」
「あー、すいません。昨夜、充電するのを忘れたまま寝てしまったみたいで。スマホの電源が、もうなくなってしまって」
「……ッスー、そうなんですね」
ツーアウトだ。身内の不幸話とスマホの充電が切れで、ツーアウトだ。
これで俺の名前を聞き出そうとしてきた暁には——
「あ、自己紹介をとばしてしまいましたね。私は伏見美結(ふしみみゆ)といいます。あなたの名前を聞かせてもらってもいいでしょうか?」
「……鹿島優斗です」
「はい、鹿島優斗さんですね。よろしくお願いします!」
スリーアウトだ。ニッコリと笑う伏見さんを横目に、俺はどうすればこの場をうまく切り抜けることができるのかを考え始めていた。
持論になるが、人は見た目によらない。だが、見た目は人によるのだ。
つまり、他者の認識というのは意外と適当で、病院で医者の恰好をしていたら、その人の能力や社会的立場に関係なく医者だと思ってしまうし、街中で警察の恰好をしていたら。警察だと思ってしまうものだ。俺は今、歩いてこちらに向かってきている男性がスーツを着ているだけで、サラリーマンだと認識している。また、同じ理屈で、学生服を着ているだけで中高生だと認識している。
こんなふうに、外見はいくらでも誤魔化せるかもしれない。だが、曲がってしまった性根は、顔や態度といった人の表面に、必ず滲み出てしまう。だからこそ、自己防衛のためにも、相手に対して何かしらの不信感を覚えたなら、その直感を信じて行動した方がいい。つまり俺は、彼女から全力で逃げた方がいいのだ。でも……
「ああ、よろしく。伏見さん」
困ったことに、彼女からは一欠けらの悪意を感じられなかった。
これも直感的な判断になってしまうが、俺にはどう頑張っても、彼女が嘘をついているように見えなかったのだ。もちろん、彼女の言動は怪しいところがある。だが、彼女の瞳が、声が、佇まいが——彼女自身の在り方が、恥ずべき行為をしていないことを証明している。
「あー、えっと。『うけうけ』って名前でしたよね? 実は俺も引っ越したばかりで土地勘がなくてさ。ちょっと調べてみるから、少し時間をくれないか?」
「……」
「うん、どうしたんだ?」
伏見さんから返事がなかったので、俺はスマホの検索画面から目を離した。すると、彼女が周囲を警戒していることに気がついた。挙動不審だ。細い肩がわずかに強張り、視線を絶えず動かしている。周囲の建物、通行人、遠くの車の音にまで敏感に反応している。
まるで、何かを探しているように——いや、何から逃げているかのように。
俺は思わずスマホを下ろして、伏見さんの真似をして周囲を見渡す。彼女の瞳には、戸惑いではなく、明確な恐れが混じっていたからだ。
「……いえ、何でもありません。ですが、ずっとここにいると邪魔になってしまいますね。取り敢えず場所を変えましょうか。ついて来て下さい!」
「は? え、ちょっと……」
俺の静止を、彼女はまるで聞いてくれなかった。
突然、伏見さんがそっと手を握ってきた。その手は驚くほど柔らかくて、けれど、彼女の意志の強さを感じさせる、確かな力がこもっていた。
そして俺は、まるで散歩を嫌がる犬が飼い主にリードを引っ張られるように、彼女に手を引かれながら横浜駅から移動させられた。
急展開すぎて、頭がついていけない。
すぐにでも彼女の手を振り払って、「何をするつもりなのか?」と問いただすべきだ。
それくらいのことは、まだ辛うじて理解できている。だけど、なぜだろう。しっかりと繋がられた彼女の手を、俺は振りほどく気にはなれなかった。振りほどくわけにはいかなかった。だって、彼女の手はどこか切実で、どこか寂しそうで——まるで、誰かに助けを求めているような、そんな気がしたからだ。
※ ※ ※ ※ ※
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
「はい、私はこのチーズケーキセットとアッサム紅茶をお願いします。優斗さんは何を頼みますか?」
「……なら、俺はアイスコーヒーを」
「はい、ではご注文を繰り返させていただきます。チーズケーキセットが一点、アッサム紅茶が一点、アイスコーヒーが一点、でお間違いないでしょうか?」
「それでお願いいたします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
スタッフの男性は深々と頭を下げると、静かに厨房がある方へと歩いていった。
俺たちは今、横浜駅から徒歩十数分の場所にある、とある複合商業施設に——俗に言うショッピングモールに併設されているお洒落なカフェに来ていた。いや、正確には来ていたじゃなく、連れて来られていた。……もう一度言うが、俺は横浜駅から徒歩十数分かけて、初対面の女性に、名前も知らないカフェまで連れて来られたのだ。まったく意味が分からない話だろ?
「あの、ここは?」
「あー、ここはですね。『キングズスクエア』っていう大型商業施設です。なんでも最近オープンしたらしいですよ」
「……へぇー、そうなのか」
聞きたいことはそうではないが、有益な情報には違いない。このカフェに入る前に案内図をちらっとだけ見たが、ここにはショッピングセンターや飲食施設、映画館に大型駐車場まで揃っているみたいだから、かなり大規模な施設のようだった。
「あ、そうだ、優斗さんはコーヒーだけで本当によかったんですか?」
「……さっき昼食は済ませてしまったからな」
「えー、もったいないですよ。それに甘いものは別腹っていうじゃないですか? あ、知っていましたか? 甘いものは別腹って、科学的な根拠があるらしいですよ?」
「そうなのか、初耳だな。だけどアイスコーヒーだけで大丈夫だ。お互い、そこまで長話をしたいわけじゃないだろ?」
「……まぁ、そうですよね」
「……」
「……」
伏見さんのその一言を最後に、ぷつんと会話が途切れた。
剣道の試合と同じタイプの緊張感だ。竹刀を構えて、お互いの間合いを測りながら、相手の腹を探り合う。そんな重苦しい空気が、カフェのテーブル越しにじわじわと漂っていた。彼女の狙いが、ますます分からない。
今も伏見さんは、チラチラと気まずそうに店内に視線を彷徨わせている。
初対面の男女が二人でカフェに入れば、地獄みたいな空気になるなんて当然だ。それを分かっていて、なんで彼女はこんな選択を……いや、断らなかった時点で俺にも責任はある。言いたいことをグッと飲み込んでいたおかげで、少しだけ冷静になれた。
やっぱり、俺には伏見さんが悪人には見えない。
もし彼女の目的が本当に金を騙し取ることだったとしたら、バイトすらしたことがない俺に声をかけている時点で、壊滅的なに人を見る目がない。
それに、詐欺師と言うのは商品を売りつけるプロのはずだ。巧みな話術で獲物から信用を得るのが、この世で最も得意な連中のことだ。今、目の前で気まずそうにしている彼女が、そんな詐欺師のイメージに当てはまるとは到底思えない。
高校生の頃、俺を騙そうとした女性は会話がとても上手かった。俺に会話の主導権を握らせず、自分のペースで話を進め、頼み事を断れない雰囲気を巧みに作り出していた。
(……あれ? 雰囲気こそ違うが、ペースを乱されて頼み事を断れない空気にされるって、今の状況にも言えることなんじゃないか?)
いや、これ以上考えるのは止めておこう。
このまま思考を深く堀下げれば、きっと何もかもが疑わしく見えてしまう。
彼女の言動をすべて怪しく見えるのは、俺自身が疑心暗鬼に駆られているせいだ。疑心暗鬼に駆られて、心が弱くなっているからだ。
もちろん、彼女への疑問や疑念は山ほどある。
だけど、それらの疑惑を晴らすには、彼女に質問するしかない。
このまま黙っていても、何も変わらない。答えを得るためには、彼女に直接聞くしかない。それに、厨房の方を見て、チーズケーキセットを心待ちしている伏見さんにこれ以上、疑いの目で見続けるくらいなら——と俺は腹を括って、口を開いた。
「なあ、伏見さん」
俺の声に反応した彼女は、ピクリと肩を揺らした。
そして、少し驚いたようにこちらに顔を向けると、すぐに笑顔を作って返してきた。その笑顔は、どこか急ごしらえのようで、彼女の表情の筋肉がほんの少しだけぎこちなく動いていた。
「は、はい、なんでしょうか? あ、そうだ。話を始める前に、私のことは伏見と呼び捨てで呼んでください。見た感じ、たぶん同い年ぐらいですよね? おいくつですか?」
「……十八、だけど」
「え、同い年なんですか。偶然ですね! ご出身はどちらですか?」
「……奈良」
「奈良ですか、私は京都出身なのでご近所みたいなものですね。まあ、京都と言っても、私のも実家はかなり田舎の方ですが……。あ、それで聞きたいこととはなんでしたっけ?」
彼女との会話は噛み合わないっていうか、テンポが合わない。マシンガンのように一方的に話しかけてくれるのはありがたいけど、俺が話しを始める隙が無いのは正直困る。
「……えっと。じゃあ遠慮なく伏見と呼ばせてもらうけど、いいか?」
「はい、私もそっちの方が気楽でいいです。それでなんですか?」
「……そのだな。まず質問の前に、一つだけ言わせてもらいたい。こういうことを店の中で言うのはマナー違反だし、口にするのも憚られるって頭では理解している。だが、敢えて言わせてもらう。……場所を変えるにしても、もうちょっと他の店はなかったのか?」
駅前は人通りが多い。だから、迷惑にならないように空いている店へと場所を移す判断自体は、百歩譲って理解できる。だけど、だけど——
「え、もしかして気に入りませんでしたか?」
「いや、気に入らないっていうか……ピンクすぎるっていうか」
俺は伏見から目を逸らし、他の人と目が合わないようにこっそりと店内を見渡す。
白とピンクを基調とした内装はとても可愛いらしく、清潔感がある。スタッフのさりげない気遣いも素晴らしい。まるでメルヘンチックな家に迷い込んでしまったかのような雰囲気で、店内の派手な色合いからは想像もできないほど落ち着けている自分がいる。
「そういうものですか? 外装はかなりシックな感じでしたけど……」
「外装じゃなくて、内装の方が問題なんだよ」
この店が醸し出している雰囲気的にたぶん女性向け——というかカップル向けだろ!
もし俺が間違えて一人で入店していたら、速攻で気まずくなって、店員に注文を伝える前に退店していたと思う。落ち着いて一息入れるどころの騒ぎではない。女性車両みたいなものだ。どうしても『男が一人で入ってくるんじゃねぇぞ』という言外の圧力を感じてしまう。
「……まあ、少なくとも初対面の男と来るような店ではないな」
「そうですか? なら我慢して付き合ってください。何を隠そう、ここは私がかなり前から一度来てみたかったお店なんです。知っていますか? ここ喫茶『メルヘン』って、チーズケーキが絶品だって評判なんですよ。チーズケーキのしっとり滑らかな舌触りと、濃厚なのに甘すぎない甘さがクセになるとか。……今から楽しみですね!」
「俺は頼んでないから楽しみなのは伏見だけだと思うけど。っていうか、喫茶『メルヘン』って……名が体を表しすぎだろ」
店内を忙しなく動き回るスタッフの人に聞こえないように、小声でそう呟いた。
名は体を表すというが、そのまんますぎる。
いや、名前ってのは親から子供への最初のプレゼントだ。
大切な我が子へ素敵な名前を贈りたいと思うのは、親の愛であり人情だろう。
このカフェも、名前に込められた思いとコンセプトがしっかりと一致している。だから、店長はきっと『メルヘン』を心から愛しているんだろうな。
「……あ、いや、そうじゃなくて。そろそろ事情を聞かせてもらえるか?」
「ん、事情ですか?」
「惚けないでくれ。お前の言動はずっと矛盾しているだろ? 一致していない。パン屋までの道が分からなくて俺に声をかけたんだよな? でも、このカフェの場所はスマホで調べなくても分かっていたみたいだし。駅では周囲を必要以上に警戒していたよな。いや、伏見は、何かから逃げていたんじゃないか? ……それと、そもそもなんで伏見は巫女服なんて着ているんだ?」
「あー、なるほど。そういうことですか」
伏見は、まるで探偵が推理を披露するかのように、胸を張ってポーズを取った。
ふふんと鼻を鳴らして、どこか得意げな表情を浮かべる。
とても機嫌が良さそうだ。
「優斗さんは私が嘘をついて、詐欺でも働いているんじゃないかって疑っているんですね?」
「……ああ、俺はお前を疑っている。伏見は本当にパン屋に行きたいのか?」
「はい、パン屋に行きたいのは本当ですよ。ですが……なるほど、なるほど、それで優斗さんはツボが云々と言っていたんですね。あー、なるほど。でも最近は、高価なツボじゃなくて、株とか投資とか、情報商材を売りつける手口が多いんじゃないですか?」
「詳しいな……」
「えっ、まだ私のことを疑っているんですか⁉」
「『まだ』って、信用できる要素がどこにもなかっただろ」
伏見は小さな唸り声を上げると、顎に人差し指を当てて「それもそうですね」と呟いた。彼女と話していると、肩の力が抜けていくのを感じる。
日吉が『クソ真面目なんだから、もう少し肩の力を抜いて生きろ』みたいなことを言っていたが、どうやら俺には向いていないらしい。
「それで? 伏見は何から逃げているんだ? まさか、十八にもなって街中で鬼ごっこをしてたわけじゃないだろ?」
「失礼ですね。鬼ごっこなんて小学校で卒業しましたよ。……まあ、気付かれた以上、隠していても意味がないですね。ストーカーされているんですよ、私」
「……え? それならまず警察に行くべきじゃないか?」
「それはそうなんですが……もう、話の腰を折らないでくださいよ!」
「あ、いや、すまない。別にそんなつもりはなかったんだけど……」
「まあ、いいですけど。せっかく盛り上がっていたところだったのに。……では、気を取り直して。話を続けますよ?」
伏見は少しだけ表情を引き締めて、語り始めた。
「あれは二週間前の出来事です。初めての一人暮らしにテンションが上がっていた私は、観光がてら横浜に遊びに出かけていたんです。中華街、みなとみらい、赤レンガ倉庫など有名どころを見て回って、十分満足した私は、最後に見つけたオシャレそうな古着屋に入ろうとしたのですが……そこで、気づいたんです。誰かが、じっとこちらを見ている視線に……」
雰囲気を出すためか、彼女の声が少しだけ低くなる。
「分かりますか? ストーカーです。間違いありません。それから二週間、ずっと誰かの気配を感じるんですよ。まあ、かなり傍迷惑な話ですけどね」
「それは……災難だったな」
「いえ、災難というよりも予想外でしたね。こんなにも早く——」
「……早く? それは、ストーカーをしている人物に心当たりがあるということか?」
「あ、いえ。ストーカーに心当たりはありません。少なくとも私が、名前を知っている男ではないでしょう」
「……そうか。だが、候補者が男だけとは限らないぞ。不安にならないで聞いてほしいが、伏見のことを好きになる気持ちに、同性も異性間も関係ない。だから、視野は広く持った方がいい。ストーカー行為をする人間は、執着心や独占欲が強い傾向にある。身近で……いや、伏見もこっちに引っ越したばかりだったな。なら、顔を合わせたことがある程度の関係性の人間だろう。だが、そうなると伏見を狙った理由は分からないままだな……」
「あ、理由は見当がついています。ですが、言えません」
「なんでだよッ⁉」
伏見を不安にさせないように、慎重に接してきたつもりだったが、思わず声が大きくなってしまった。自分でも驚くほど、感情が先に口を突いて出た。
ここまで話しておいて、肝心のところだけ伏せるなんて、どう考えても不自然だ。
けれど、伏見はまったく動じる様子もなく、むしろ少しだけ口元を緩めさせた。
「当たり前じゃないですか! ストーカーにつけ狙われる理由が分かってなかったら、私だって不安になりますよ。少なくとも、ここまで堂々とカフェで寛ぐことなんてできません。……まあ、でも実際。かなり鬱陶しい存在ですが、街中では絶対に襲われないって確信があるだけで、案外平気なものですよ?」
「図太いな。それはそうと、理由が分かっているなら楽じゃないか。あとは証拠を集めて警察に届け出るだけだ。ただ、十分な証拠が揃っていないと、ストーカー被害は証拠不十分で処理される可能性が高い。……よし、俺もできるだけ協力しよう。今も横浜駅にストーカーと疑わしき人物がいるんだよな? 俺がまず囮になって——」
「いや、だから、理由は警察にも言えないんですよ」
「え、うん? それは一体、どういう意味だ?」
「どういうことも何も、そのままの意味ですよ?」
「……えーっと。つまり、伏見に対してストーカー行為をしている人間は確かに存在しているが、俺にも、警察にも、伏見がストーカー行為をされている理由は話せないってことでいいのか?」
「はい、その認識で正しいです」
「おかしいだろ⁉ 初対面である俺はともかく、警察にも相談しないなんて……このままだと犯人の思う壺だぞ⁉」
「いえ、たぶん警察に相談しても意味がないんですよねー。そんなことよりも別の話をしましょうよ。別の話」
「そんなことよりもって……」
「ほら、ほら、私に聞きたいことはもうないんですか?」
「……すごいな。今、伏見は俺に疑われているんだぞ」
そう軽々と言ってのける彼女を見て、俺の心は再び疑心暗鬼に陥った。
きな臭くなってきた。いや、もちろん彼女がただ強がっている可能性もある。
自分の心の傷を癒すために友達や、恋人、家族など、事件とはまったく関係ない第三者に話を聞かせて回るというのはよくあることだ。一人で抱え込んでいると、いつか潰れてしまう。だから、不安や怒り、悩みなどを口にして、自分の負担を軽くしたいという逃避行動の一種だ。心の悩みを聞き、許しを与える懺悔室や告解は、きっとそのためにあるのだろう。俺も、彼女を刺激しないように、十分に注意しないといけない。
「……なら、次の質問だ。もし答えたくないなら、黙秘してもらっても構わない」
「はい。フフ、このやり取り、なんだか取り調べみたいですね」
「俺も少しだけそう思ったよ。じゃあ、質問だけど……あー、えーっと。大前提として伏見は迷子になっているんだよな? だけど、駅でストーカーの気配を感じて逃げて来たと?」
「そうですけど、それが何か?」
「……なんで俺をここまで連れて来たんだ?」
ずっと気になっていたことを、ようやく口にできた。
冷静になって考えるほど、伏見が俺を連れてカフェに来る意味が分からない。
そのことを指摘すると、彼女は目に見えてあたふたとし始めた。目を泳がせて、口ごもりながら、言い訳を探している様子がありありと伝わってくる。
「あー、えーっとですね。ほら、もしかしたらストーカーに優斗さんの姿を見られていたかもしれないじゃないですか! 巻き込まれたらいけないと思って、用心した結果ですよ! そうに違いないです!」
「でも、これってもう巻き込まれているみたいなものじゃないのか? それどころかストーカーを刺激するみたいに手まで繋いでいたぞ?」
「ッ、すいません。正直に言うと、そこまで頭が回りませんでした。とりあえずあそこから避難しようと思って……気づいたら優斗さんの手を掴んでいました。あ、ですが安心してください! 私の行動は全部理由があるんです! これまでの人生で、意味がないことはしていないつもりですから!」
「おー、ずいぶんと大きく出たな。……あ、じゃあ、その巫女服にも何か理由があるのか? ただのコスプレをしているわけじゃないだろ?」
俺の問いに、伏見は待っていましたと言わんばかりに身を乗り出してきた。
「優斗さんっ! よくぞ聞いてくれましたね! これは私にとっての勝負服、いや、戦化粧ってやつです!」
伏見の声が耳に届いた瞬間、俺は深く息を吐いていた。
混乱と動揺が一気に押し寄せてくる。
頭が熱暴走するのを防ぐために深く息を吐いた。
「…………ッスー、すまない。ちょっとだけ時間をくれないか?」
「え、はい。それは構いませんが……」
伏見から許可を得ると同時に、俺はそっと顔に手を当てて静かに目を瞑った。
これで情報の大部分を遮断できる。思考の整理に専念できる。
——さて、推理してみよう。
胡散臭い。彼女は何か大事なことを隠している。
俺は漫画や推理小説に登場するような名探偵並みの頭脳は持っていない。
快刀乱麻を断つがごとく、迷宮入りの難事件を次々と解決することはできない。
惚れ惚れとするような推理で、悪辣な犯人を追い詰めることはできない。
だけど、思考停止することだけは止めたんだ。
まず、伏見が俺に嘘を吐くメリットはなんだ?
——ダメだ、何も思いつかない。
そもそも、趣味でコスプレをするのは構わない。だが、コスプレのまま親戚が営んでいる店に行くなんて、罰ゲームでもなければしないことだろう。彼女の図太すぎる神経が俺には分からない。本当なら心臓に毛が生えているどころの話ではない。
というか、これまでのすべてが作り話なんじゃないのか?
むしろ、作り話だと言われた方がまだ納得できるレベルだ。
確かに、俺の目は彼女が嘘をついているようには見えなかった。だけど、嘘をつかすに相手を騙す方法なんて、この世にはいくらでもあるはずだ。
俺は、彼女がどんな顔をしているのかを観察するために、ゆっくりと片目を開けた。
すると、そこには口いっぱいにバスクチーズケーキを頬張っている伏見の姿があった。
「ん、どうしましたか?」
リスのように頬を膨らませた彼女と目が合った。
気がつくと、テーブルの上にはすでに注文した商品が並んでいた。
伏見が頼んだチーズケーキセットは、七種類のチーズケーキを食べ比べするためのもので、一つ一つのサイズは小さいようだ。彼女がスプーンを入れた部分がゆっくりと元の形に戻っている様子から、しっとりとした口当たりを想像することは難しくない。アッサムティーとの相性がとても良さそうだ。
一方、俺の頼んだアイスコーヒーのグラスには、すでに結露した水滴がびっしりとついていた。グラスについたその水滴が、アイスコーヒーの冷たさを保証してくれている。
「ハハ、優斗さんはとても集中している様だったので……」
彼女は恥ずかしさを紛らわすように笑いながら、そんなことを言ってきた。
俺に気を遣って、声をかけなかったみたいだ。
まあ、アイスコーヒーなんて、俺にとっては水とあまり変わらない。
渇いた喉を潤すことができれば、それでいい。
俺はゴクッ、ゴクッとアイスコーヒーを一気に飲み干すと、バンッと勢い良く立ち上がり、「すまない! トイレに行ってもいいか?」と言った。
伏見は持っていたスプーンを皿の上に落としかけるほど驚いた様子だったが、俺の真剣な表情を見て、「は、はぁ……どうぞ?」と曖昧な返事を返してきた。
まだ状況とチーズケーキが飲み込めていない伏見は、ふわりと香る紅茶に口をつけた。
俺はそれ以上何かを言われる前に、通学用の鞄を持ってトイレへと向かった。
※ ※ ※ ※ ※
「詐欺だ。絶対に詐欺だ。いや、仮に詐欺じゃなかったとしても、十分に怪しい」
伏見とカフェで別れた後、俺は一人で頭を抱えていた。
三階のトイレで、大きな鏡と向き合いながら、自問自答を繰り返していた。
複合商業施設の——いや、キングスクエアの飲食エリアは三階、四階に集中していて、飲食エリアからトイレまでは、ゆっくり歩いても三分ほどの距離だ。
この建物を設計した人は、利用者のことをよく考えているらしい。
「怪しい……怪しいけど、伏見の目的がまるで分らない……」
平日だからというのもあり、男子トイレは空いていた。
というか、俺しかいなかった。
だから、他人への迷惑をかける心配もなく、声を出して考えることができた。
「いや、狙いが俺だけとは限らないよな。例えば、父さんに恨みを持っている人物が伏見を利用して、俺に近づいてきたのかもしれない。……いや、これは回りくどいな」
漫画や小説。つまり、二次元の世界で活躍する探偵には、たいていライバルがいるものだ。そのライバルこそが犯人だ。
犯人は探偵と張り合うために、あるいはさらに物語を盛り上げるために、探偵と同等かそれ以上のスペックが与えられていることが多い。優れた頭脳で蜘蛛の巣のように智略を巡らせ、獲物を確実に殺すための策を弄する。巧みな話術で他人の行動を自由自在に操るここで、自分の手だけは血で汚さない。人を人とも思わない残虐性を持ち、非人道的行為を顔色一つ変えずに実行する。まあ、犯人役のイメージとしてはこんなところだろう。
すべてに共通する点としては、警察でも手に負えないほどの凶悪犯だということだ。
だが、現実とフィクションには明確に異なる点がある。
現実で犯罪に手を染めた人たちのほとんどには、大望や綿密な計画なんてものはない。『成り行きで』『何となく』『追い詰められて』など、そんな理由で犯行に及ぶケースがほとんどだ。周到に計画立てて、事前に準備ができる人間は犯罪に手を出ことが稀なのだ。
そういう人たちは犯罪に手を染める前に自分で何とかできてしまう。
だから、俺を巻き込んだ父さんへの復讐に伏見を利用している、なんて線は薄いだろう。
「そもそも伏見は、二週間前に横浜に遊びに来たと言っていたはずだ。なのに、親戚の店に一度も顔を出さないなんて、伏見のあの性格から考えてそんなことがあるのか? それに、警察に事情を話せないなんて……」
俺は忘れっぽいところはあるかもしれないが、そこまで不注意な性格ではない。
叔母さんが経営しているパン屋の手伝いに行くくらいには仲が良いはずなのに、まだ一度も顔を出していないなんて、正直、信じがたい。
横浜観光のついでに立ち寄ることだって、十分に可能だったはずだ。
それに、俺が最も引っかかっているのは……彼女の警察への不信感だ。
彼女の態度からして、警察に相談すること自体が何かしら不都合なように見えた。
公共の安全と秩序を守る警察に理由を話せないなんて、それはもう「私はやましいことをしています」と自白したようなものじゃないのか。
もちろん、俺が警察を贔屓目に見ていると言われればそれまでだ。
警察官である父さんの背中を見て育ったんだから、仕方がないだろう。
もし馬鹿にしてくるのなら、その馬鹿にしてくるやつらに俺はこう言ってやりたい。真面目で、正義感が強くて、見知らぬ誰かを守るために日夜、汗水垂らして働いている父さんのことを誇りに思って何が悪いってさ。堂々と胸を張って、『俺の憧れだ』と言い返してみせる。まあ、それはさておき——
「……どう考えても怪しいよなぁ。俺の取り越し苦労ならいいんだけど」
伏見に協力したい気持ちはある。だけど、彼女の口から出てくる言葉のすべてが、俺の疑いを裏付けてしまう。むしろ、さらに疑念を深めてしまうのだ。
「っていうか、巫女服を着ている理由が勝負服ってなんだよ。あれ、戦化粧だったっけ? まあ、どっちでもいいけど。せめてもっとあるだろ? マシな言い訳ってやつがさ」
俺がパッと思いつくのは、例えば……叔母さんのパン屋が抹茶フェアってイベントをしていて、そのイベント期間中の制服として渡されたのがあの巫女服だったとかか?
いや、それも家からコスプレ制服で来る必要がないって考えると、やっぱり怪しい。それに、伏見は『これから叔母さんに会う』と言っていたんだよな。
まるで鏡とにらめっこでもするみたいに、俺は眉間にしわを寄せた。
そして、雲のように癖のある髪を掻きむしるかのように、再び頭を抱えた。思考がまとまらない。疑念ばかりが増えていく。それでも、どこかで彼女のことを『信じたい』と思っている自分がいる。その矛盾が、何よりも苦しかった。
「……もう伏見のことを忘れて、逃げたほうがいいんじゃないか?」
無意識のうちに、そんな言葉が口を突いて出た。
自分で自分が言ったことが信じられなくて、思わず顔を上げた。だけど、鏡に映っていたのは、不自然な笑顔を浮かべている俺の顔だった。表情筋がもうすでに死んでしまったのではないかと思うほど、引き攣っている。それなのに、鏡の中の俺は、何も言わずに笑っている。それが、とても気持ち悪かった。ズレている。ズレている。心と身体がどうしようもなくズレている。まるで——
「……はぁー、止めよ、止めよ。自分のことがもっと嫌いになったぞ」
頬に触る。さっきのセリフが本当に自分の口から出たのか、確かめるために。
頬に触る。最悪な気分を少しでも紛らわすために。
頬に触る。引き攣った笑顔を手から伝わる熱でほぐすために。
「あ、うん?」
そんなことをしていると、鏡越しにキラリと何かが光ったのが見えた。
ふと視線を下げると、鞄の中に淡い緑色の勾玉があった。
「これは……」
淡い緑色の勾玉は掌に収まるサイズで、曲がった玉のような形をしていた。胎児のような形。表面はツルツルと滑らかで、真中に小さな穴が一つ空いている。そんな、緩やかなカーブを描いている勾玉を、俺は鞄から取り出して掌の上に乗せた。
「………」
無言で、じっと見つめる。昔。お守り代わりにもらって以来、常に持ち歩くのが習慣になっていた。だから、今朝も無意識のうちに鞄の中に入れていたのだろう。習慣とは、本当に恐ろしいものだ。……だが、なぜだろう?
この勾玉を握っていると、心が少しずつ落ち着いていくのが分かる。懐かしい。懐かしい。郷愁に駆られる。そして、ブレていた心が定まっていくのを感じる。
「……ハハハ、そうだよな。伏見は迷子になって本当に困っているかもしれない。それに、助けないよりもずっといい。もし、仮に騙されていたとしても、その時はその時だ。きっといつか笑い話にできるはずだ。……よし、信じてみるか!」
覚悟が決まった。決意が固めた。もう揺れない。俺は、さっきまで伏見に抱いていた不信感を切り捨てるかのように、力強く頬を叩いた。
パシッと乾いた音が男子トイレに響く。
頬から伝わる振動が後頭部まで突き抜けるように広がった。
鏡を見る。鏡を見る。すると、左右の頬には紅葉のような手痕が残っていた。
真っ赤な手跡が頬に刻まれたせいか、顔つきまで違って見える。
俺の表情からは、さっきまでの不自然さが抜け落ちていた。表情筋が死んだかのような引き攣った笑顔ではない。正面の鏡に映っていたのは、いつも通りの笑顔だった。俺は、いつも通りの自然な笑顔に戻れていた。
「……」
それに合わせて、今まで葛藤していた自分が嘘だったかのように、心がスッキリとしている。頭の中に渦巻いていた疑念が、勾玉の静かな存在感と、頬から響いた痺れによって、少しずつ、確かに、消えていった。どうやら、もう大丈夫なようだ。伏見への不信感を切り捨てた俺の心は、もう完全に切り替わっていた。
「うん?」
心機一転。まるでこの世界に新しく生まれ直したかのような心境だった。なのに、頭の片隅に違和感がよぎったせいで、容赦なく現実へと引き戻された。まあ、違和感といっても、足元が微かに震えただけだ。地震でも起こったかのような振動が、靴裏から静かに伝わってきた。だが、それほど騒ぐようなことではない。心配するほどのことでもない。俺の予想通り、その微かな揺れはすぐに収まった。
だが、次の瞬間——轟音が響いた。
「な、何事だ……⁉」
空気が裂けるような爆音が、俺のいる男子トイレの壁を突き抜けて響き渡った。鼓膜が破れるかと思った。脳が縦に揺れるような感覚に襲われた。まるで、どこかでダイナマイトが爆発したかのような衝撃音が、男子トイレの中にまで鳴り響いてきた。壁が震える。天井の照明が激しく点滅し、暗転した。
振動と音の強さから推測するに、震源はかなり近い。
それを裏付けるように、数秒遅れて甲高い悲鳴が聞こえてきた。
絶望に満ちた叫び声。怒号。混乱。それらが、フロア全体に伝播していく。
これはただ事じゃない。異常事態だ。人々の悲鳴に混じって、ガラスが砕けるような破砕音が次々と響き渡る。『何か』が暴れている。
「……っ、伏見!」
カフェに残してきた伏見の姿が頭に浮かんだ。
チーズケーキをリスのように頬張っていた彼女は、無事に逃げられているのか?
彼女の無事を確かめるために、俺は喫茶『メルヘン』へと走り出した。
こんなときでも、心臓の鼓動は一定のリズムを刻み続けている。だが、いつも変わらないはずのその心音が、今は、彼らの悲鳴に負けじと耳の奥で鳴り響いている。まるで『急げ』と叫んでいるかのように。だから——その直感に従い、俺は走った。手に持っていた勾玉をズボンのポケットにしまい、この騒動の中心地へと、俺は駆け出した。
※ ※ ※ ※ ※
伏見がいるはずの喫茶『メルヘン』まで、俺は走った。
人の波を掻き分け、悲鳴が上がった中心地へと向かっていた。喫茶『メルヘン』へと続く通路は、もはや日常の風景ではなかった。床にはガラス片が散乱し、踏み締めるたびにザリザリという音を立てる。人々の叫び声が、壁に反響して耳をつんざく。「逃げろ!」「こっちだ」「誰か、助けて!」と、怒号と悲鳴が入り混じり、まるで混乱そのものが生き物のように蠢いていた。
誰かが転び、誰かが泣き、誰かが嘆き、誰かが呆然と立ち尽くしている。
人の波に逆行して、喫茶『メルヘン』まで向かっているせいで、肩が誰かとぶつかり、俺も転びそうになった。だが、立ち止まるわけにはいかない。俺が急いで駆け付けると、そこには俺よりも一回りは大きい男が立っていた。
彼の周囲には誰もいない。人波にぽっかりと穴が開いている。もう皆、逃げてしまったのだろう。まるで、そこだけ空気が違うような、異様な静けさが漂っていた。なら、話は簡単だ。俺たちがいた喫茶『メルヘン』の……いや、原型をとどめることができないほどに破壊されたフロアの残骸の上にいるあの男が、この騒ぎを引き起こした犯人だ。
「フッ、……フっ………」
男は格闘技経験者だ。大柄で服の上からでもはっきりと分かるほど、筋肉が発達している。そして、耳の上部はまるで餃子のように腫れて変形していた。あれは柔道耳と呼ばれていて、柔道やレスリングなどの格闘技をやっている人の多くに見られる特徴だ。寝技の練習をするときに、耳が地面に何度も擦れることで、内出血を起こし、ガチガチと固くなってしまうからあんなふうになるらしい。柔道をしていた俺の父さんも例に漏れず、目の前にいる男と似たような感じの耳だった。だから、とても見覚えがある。
——つまり、この男は、ただの暴漢じゃない。戦える人間ってことだ。
「……ッ……クソが……フッ……の、逃した……」
男はとても鼻息が荒く、見るかに興奮している。とても危険な様子だ。目は血走っていて、瞳孔が開いている。充血して真っ赤に染まった眼球がぎょろりと周りで傍観していた人々を睨みつけるように動き続けていた。
まるで、誰かを探しているように——
だが、俺が本当に驚いたのはそこじゃない。今、この瞬間にも、目の前の男は変貌を遂げていたのだ。竹箒で地面を掃くような音が響く。その音とともに、茶褐色の獣毛が両腕と両脚から隙間なく生えた。毛の先端は枝分かれし、太く、硬そうだった。
ピキッと乾いた音を立てて、爪が黒く変色した。漆を塗ったような深い黒だ。下顎の口外からは不自然に牙が突出していた。その異様な牙は、根本は太く、先端に向かって鋭く尖っている。まるで刃物(ナイフ)のように鋭利で、緩やかに湾曲している。
骨のように硬質で、象牙にも似た淡い黄白色のその牙は、まさに自然が鍛えた武器だった。ただ見ているだけで背筋が凍りそうなほどの殺意を帯びている。どこか畏敬の念すら抱かせる。あの牙が腹に刺さったら、間違いなく、俺はそのまま命を落としてしまうだろう。そして、今、完全に変貌を遂げた男のシルエットは、もはや人の形を保てていなかった。異様に膨れ上がった筋肉に、獣毛に覆われた皮膚、剥き出しになった鋭い牙。その姿は、もはや人間という枠を超えた『何か』だった。
「おい、アンタ。落ち着けよ。名前は?」
「……ッ!」
俺が無遠慮に声をかけた瞬間、男の頭部に生えた獣の耳がピクリと反応した。
声の発生源を特定した男は、血走った眼光をぎょろりと動かし、背後に立っていた俺のことを射抜くように睨む。まっすぐと喧嘩を売るように、こちらを見てくる。円盤状の鼻を「シュー…」と音を鳴らし、一歩、一歩、躊躇いなく距離を縮める俺に向かって、鋭い牙を突き出して威嚇している。
「……ッ、う、うるせぇよ」
「これはアンタが一人でやったことなのか?」
「うるせぇって、言ってんだろうがぁ!」
男は獣のような野性味溢れる筋肉を大きく震わせ、俺を睨みつけてくる。
興奮状態に陥っているのか、会話がまるで成り立たない。
理性を失いかけているこの男が、もし内に秘めた暴力性を曝け出しにし、周囲の人々に襲いかかってきたとしたら——小学生の頃に習っていた俺の空手があの巨漢を相手にどこまで通じるのだろうか?
「名前すら教えてくれないのか? だけど、もしアンタがこれ以上暴れるようだったら、俺が力尽くでもアンタを取り押さえることになるぞ?」
「さっきから何なんだよ。部外者(モブ)が! いちいち出しゃばってくんじゃねぇよ!」
「……忠告はしたからな」
苛立ちが限界に達したのか、男は後ろに引いた右脚に力を込めた。そして、地面に沈むような姿勢のまま、突進してきた。体格差に物を言わせたタックルだ。全身を上手く使った重心の低い突進。踏み込みの瞬間、男の右脚が踏みしめたタイルの床が、音を立ててへこんだ。その威力は、見ただけでも尋常ではないと理解できる。
もし、彼のタックルをまともに受けたら、確実に終わる。だから——
「どっせい!」
俺は突進のタイミングに合わせて、腹の底から掛け声を出し、腰を捻った後ろ回し蹴りを放った。その蹴りが、顔に直撃した。踵が男の頬骨と下顎骨の間に当たった感触がある。手応えは十分だった。クリティカルヒットだ。
だけど、直感的に、この男にはまったく効いていないことが分かった。
俺の全体重を乗せた一撃だった。相手が標準的な成人男性だったら、確実に気絶させる威力があったはずだ。まさに会心の一撃だ。しかし、骨太でがっしりとしている男の身体は、微動だにしていない。まるで、蹴りそのものが吸収されたかのような奇妙な感覚。衝撃が伝わっているはずなのに、反応がない。野生動物のように肥大化した、柔軟性のある筋肉が、俺の蹴りの衝撃を巧みに分散させているのだろう。それとも、この男には『痛み』という概念がそもそも存在しないのか。俺が脳内であらゆる可能性を探っている間に、男に蹴り足を掴まれた。
「調子に乗るなッ‼」
「……ヤベ」
男の怒声と同時に、骨が軋むほどの握力で足を掴まれ、俺はさっきまでいたカフェの方へと投げ飛ばされた。平均よりもかなり重いはずの俺の身体を片手で軽々と持ち上げ、あまつさえ投げ飛ばしてしまうなんて。この男の馬鹿げた力には、ただただ驚愕するしかない。ここまで常識外れの怪力の持ち主に出くわしたのは、初めてだった。
「ッ、ッ……ッ!」
俺は後頭部への衝撃を避けるため、身体を丸めて、頭全体を守るように両腕を組んだ。だが、身体を投げ飛ばされた勢いを空中で緩和する術など、ただの一学生にすぎない俺にあるわけがない。俺の身体はボールのように地面を弾み、背中を何度も擦った。ひどく目が回る。視界がぐるぐると回転し、上下左右の感覚が曖昧になる。そして、空中で回転した俺の身体が、カフェの店頭に陳列された食品サンプルの棚へと叩きつけられようとした、その直前——誰かにギュッと抱き留められた。
「大丈夫ですか?」
柔らかく、温かみがある『何か』がクッションとなり、優しく受け止められたおかげで、俺の身体は致命的な大怪我を負うことを避けられたようだ。その声には、助けてくれた女性の声には、聞き覚えがある。伏見の声だ。だから、俺は服の汚れを払いながら、ゆっくりと彼女がいる方へ顔を向けた。
「ああ、助かったよ。それよりも伏見はどうやって………」
俺は『どうやって俺の身体を受け止めたんだ?』という疑問を口にすることができなかった。俺が彼女の姿を見て、再び、言葉が喉に詰まったからだ。
彼女は、チーズケーキを美味しそうに頬張っていたときと同じ巫女服を着ていた。純白の白衣に緋色の袴を履いていて、透明感のある肌には傷一つない。しかし、流れるような黒髪の上には大きな獣の耳がついていた。腰からは一本の尻尾が生えていた。その尻尾は先にいくほど白くなり、毛色はまるで立派に実った稲穂を想起させるほど綺麗な黄金色だった。そこには、俺の目の前には、確かに伏見美結の姿が合った。
あの男と似たような異形な姿へと変貌を遂げている——いや、もっと正確に言うとするならば、彼女の身体から獣の耳と尻尾が生えていた。一般には『ケモミミ』と呼ばれる、可愛らしい動物の耳が頭部に生え、尾骨のあたりからはフカフカとした可愛らしい尻尾を揺らしている。ピリピリと肌を刺すような緊張感が漂っているこの状況下には、まるで場違いな格好をした伏見美結が、そこに立っていた。彼女のその姿は、俺を投げ飛ばしたあの男と同じで、まさしく人外そのものだった。人間という枠を超えた『何か』だった。
「はぁ?」
脳内に流れ込んできた膨大で理解不能な情報を処理しきれず、俺は素っ頓狂な声を上げることしかできなかった。これで二度目だ。まるで、俺は狐につままれてしまったかのように、ポカンと口を開けたまま、立ち尽くすことしかできなかった。俺はただ、彼女の揺れる尻尾を見ていることしかできなかった。
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