神々のひまつぶし
とじぶた。
第一話 木から落ちた猿
——ピピピピッという耳障りなアラームの音で鹿島優斗(かしまひろと)は静かに目を覚ました。鹿島優斗の一日は毎日同じ始まりと言っても過言ではない。まだ朝日が昇らない時間に起床し、顔を洗い、歯を磨き、ランニングに出かける。その朝のルーティンとなっている行動は大学生になり、一人暮らしをはじめてからも変わることはなかった。だが、変わることがなかったはずのルーティンが唐突に音を立てて崩れさった。それは何故か?
突如として正体不明の巨大怪獣やドラゴンが街中に出現したわけではなく、パンデミックの影響で発生したゾンビが暴れ回り、人々がパニックに陥っているわけでもない。また、幼馴染の女の子が部屋まで起こしに来てくれたというわけでもない。
そんな非日常的なことではなく、もっとありきたりなことが原因だった。そのことを寝起きのボーっとしている頭で気付くことができたのは虫の知らせではなく、鳥の知らせと言うべき、とても小さな違和感からだった。
カーテンの隙間からはいつもはまだ見えないはずの太陽の光が薄暗い寝室を覗き込み、いつもはまだ聞こえてこないはずの小鳥の鳴き声が街を可憐な音色で飾り付けている。俺はまだ寝ている身体に鞭を打ち、ベッドからのっそりと起き上がった。ピピピピッと鼓膜を震わせるけたたましいアラームを止めるために、枕元に置いてあるアナログ時計を手に取ると……時計の針が七時十二分を指していた。この違和感の正体を直感的ではなく、今度は頭で理解できた。つまり、俺は——
「……寝坊した?」
寝坊という単語を口にした途端、痺れるような焦りが全身に伝わった。いや、落ち着け。一旦落ち着け。そんなことがあるわけがない。俺は呼吸を整えてもう一度、時計の針を見たが……無情にも針は七時十三分を指していた。ヤバい。さらに一分も無駄にした!
「え、ヤバい。んっ、なんでだ? なにが、何が原因だ?」
ガラガラになった喉でポツリと呟く。声が出しにくい。睡眠中に喉が乾燥してしまったみたいだ。気道が狭くなっているのか喉に和紙が張り付いたかのような不快感がある。
もしかして俺は風邪を引いたのかもしれない。だけど、一般的な風邪の症状である発熱、喉の痛み、鼻水、くしゃみ、倦怠感、吐き気、頭痛、そのどれにも該当しない。俺の体調は依然変わりない。なら、なんで寝坊なんかしたのだろう。そんな疑問が頭によぎる。こんなことは俺も生まれて初めてのことなので戸惑っているのだ。いくら体調を崩しやすい季節の変わり目であっても、俺はいつも六時ピッタリに起きていたはずなのに……
いや、こんなことを考えている場合じゃない。今からやるべきことはもう決まっている。一刻も早くルーティンを元に戻さないといけない。そうしなければならない!
しかし、甘ったれてしまった身体は俺の命令を聞いてくれない。『どうせもう手遅れなんだから、あと少しぐらい寝ていても大丈夫だ』と俺の中にいる悪魔がそう囁いてくる。
俺はその甘美な誘惑に負けそうになりながらも目だけは飛び出してしまいそうなほど見開いている。傍から見ると上瞼を縫い付けてしまったかのような奇妙な光景になっているに違いない。こうなっているのは自制心という名の天使のおかげだ。
俺が悪魔の誘惑に負けないように天使が『やっぱり駄目だ』と囁いてくれている。そうだ、一日だけというこの考えが俺の人生に油断を誘う。そして、その油断が慢心に繋がり、その慢心が怠惰を招く。怠惰とは人間を堕落させる罪そのものだ。だから、俺は——
「おはよう‼」
頭にあるモヤモヤをすべて吐き出すように、引っ越して来たばかりの部屋に反響するほど大きな声を出した。生まれて初めて寝坊して、激しく動揺していた自分の存在が嘘だったのではないかと疑うほどスッキリとしている。どうやらもう大丈夫なようだ。
その事実を頭で理解すると同時に、俺は時計のアラームを叩くように止め、誰もいない部屋を飛び出した。この部屋にはまだ人の匂いがしない。二週間前にようやく引っ越しを終えたばかりだからだ。俺は新居特有の匂いに包まれながら、洗面所に向かって急ぐ。
部屋を出るときに確認したが、時計の針は七時十四分を指していた。七時二十分にはいつもランニングから帰ってきてシャワーを浴びているはずだ。だから、俺は今すぐにでもシャワーを浴びなければならない。生活サイクルを元に戻すとはそういうことだ。
俺はシャツとパンツを収納ボックスから取り出して、脇に抱えて歩く。この時の俺はもう寝坊をしたという事実を忘れたかのように軽い足取りで、焦燥感に駆られていたはずの心は完全に切り替わっていた。ようやく冷静になれた。……バスタオルを持っていないことや、もっと言えば、昨日、就寝する前に着替えとバスタオルを洗面所に用意していたことを忘れてしまったのはたぶん動揺のせいではないはずだ。
まあ、気を取り直してもう一度だけ言っておこう。鹿島優斗の一日は毎日同じ始まりと言っても過言ではない。だが、今日ばかりは少し違うのかもしれない。
※ ※ ※ ※ ※
人間にとって汗とは体温調整の手段の一つである。緊張や吐き気、自律神経の乱れによってより多く汗をかいてしまうことがあるらしい。だが、それらは例外にしても、人間という生き物は常に少なくない量の汗をかいている。それは寝ている間でも同じことだ。
俺たちは体温を下げて、深い眠りにつくために一晩で通常コップ一杯ほどの汗をかいている。だから、夜ではなく朝にシャワーを浴びるのが最も効果的なはずだ。たぶん。
そんなことを考えながら、俺は欠伸を気合でねじ伏せた。熱いシャワーで汗を流している最中なのに眠気を感じているのは異常事態なのかもしれない。
いや、そもそも寝坊したことが俺にとっては一番の異常事態だ。原因を追究するために頭を働かせてみるが、何がきっかけで寝坊したかすら分からない。思い当たる節もない。反省点が何一つ浮かんでこないのだ。いや、そういえば、今日は久しぶりに夢を見たな。とても懐かしくて、心安らぐような。そんな夢を見ていたはずだ。
「……夢、夢か……」
だけど、どう頑張っても夢の内容を思い出すことはできない。今日、寝ている時に見ていた夢なんてシャボン玉と似たようなものだからな。朝、目を覚ましたその瞬間からどんどんと記憶から抜け落ちてしまうものも仕方がないだろう。……まあ、俺のことをよく知っている家族からも忘れっぽいと称されるこの頭では思い出せないことの方が多いだろう。まったく我ながら不便なものだ。
学校の勉強は苦手ではないから決して物覚えが悪いというわけではないはずだけどな。……いや、もう忘れてしてしまった夢について考えるなんて無駄だな。不毛だった。それよりも現実に即した考えをする方が俺には向いているはずだ。もっと地に足を付けるべきだと結論付けた俺はシャワーヘッドから水滴が垂れてこないように水栓の部分をしっかりと力強く閉めてから浴槽を出た。そして、ドライヤーの温風を器用に操り、雲のように癖がある黒髪を乾かす。ドライヤーの温風を受けて、暴れ回る髪の毛を鏡越しに確認すると同時に辟易とした気持ちになってくる。高校で弓道部に所属していた頃は、もっと短髪だったはずだが、大学生になって髪を伸ばしてからは鬱蒼とした気持ちで朝を迎える割合が増えてきた。若者言葉で表現すると『萎える』ってヤツだ。
「もうちょっと、短くてもいいよな?」
今年の夏が来る前には絶対に髪を短くしよう。静かにそう決断をした俺はドライヤーの電源を切ると、コップ一杯分の水を飲み干してから朝食の準備を進めた。
朝の献立はいつも和食の基本である一汁三菜を心がけている。
そして部屋は常に清感を保つために一週間に三回以上掃除をしている。
もちろんキッチンにも埃は当然として、髪の毛一本すらも落ちていない。この使い慣れた包丁すら新品同様の光沢を放って見える。健全な精神は健全なる肉体と、健康的な食事に宿る。要するに部屋を綺麗に保って、朝食を必ず取ること病気になることはないってことだ。まあ、この包丁の役割は味噌汁に使う豆腐を切った時点でもうなくなったんだけどな。沸かした出汁にワカメを加えて、冷蔵庫から出した味噌をじっくりと溶かす。豆腐は味噌が半分ほど溶けてから入れるといい具合になるとどこかの料理雑誌で読んだ。
だから、俺は出汁が沸騰する直前を見計らって火を止める。ここで細かく切った豆腐を入れて残りの味噌を予熱で溶かすと……よし、これで味噌汁の完成だ。
味噌汁の入った小さな鍋をどけて、フライパンに軽く油を引いてから、卵焼きとウインナーを並行して作る。火を通す間。冷蔵庫の中に残しておいた昨晩のおかずの余りを電子レンジで軽く温め直しておく。お盆の上には出来たばかりの朝食を丁寧に乗せていく。そうこうしているうちに卵焼きとウインナーがこんがりと焼けたようで、香ばしい匂いがしてきた。肉汁が中で弾けているウインナーを隅に寄せ、卵焼きの形を整えてから皿に移した。これで朝食の準備はすべて終わった。使った道具は軽く水で洗い流しておく。
これは余談になるが、一日のサイクルを整えて、エネルギーを生み出すために、昔から何があっても朝食だけは取るようにしている。そのおかげか、俺はこれまで病気らしい病気をしたことがない。インフルエンザやノロウイルスにも感染したことがないのが、俺の数少ない自慢の一つなのだ。
正直、どうしてそこまで日々のルーティンにこだわっているのかと問われると、頭を抱えてしまう。……だが、強いて言うなら、正しいことをするためだ。
これは俺の持論になってしまうが努力ができる人というのは習慣を作るのが上手い人のことだと考えている。だから、俺はサイクルやルーティンといった規則正しい生活を送ることに重きを置いているのかもしれない。……いや、ぶっちゃけてしまえば特別なことは何もない。ただ自分が決めたルールであっても、ルールを破るという行為自体が気持ち悪いのだ。嫌悪感があるのだ。たぶん、これは警察官である真面目な父さんの影響だな。法の番人である父さんの教育のたまものだ。
「……結局なにもわからなかったな。何で寝坊をしたんだ?」
これまでの自分を振り返る、自己分析に近いことまでして寝坊した原因を探ってはみたが骨折り損で終わってしまった。さっきからどうでもいいことばかり考えてしまう。再三再四。一度したミスは一度だけで終わらない。問題を解決する際には、真因を見つけ出して、対策をしないとまた同じミスを何度も繰り返してしまうものだ。
だけど、今はもういいや。今は、目の前の朝食のことにだけ集中しよう。
俺は電子レンジから『チン!』という甲高い音が鳴ったのを確認すると、中でグルグルと焦らすように回っていたタッパー容器を取り出して、お盆に乗せた。
用意した朝食をすべて乗せたお盆を「どうせまた買い直すから持っていけ』と母から言われて実家からわざわざ運んできた四人用のテーブルまで持っていく。片手で真新しい椅子を浮かし、全体重を預けるように座った。テーブルの上に置いた白米や味噌汁から湯気が立ち、温かな香りが空腹感を刺激してくる。もう我慢の限界だ。
「いただきます!」
パンと軽く手を合わせてから、箸を持った。朝は簡単なものしか用意できなかったが、我ながらなかなかの出来映えだと思う。焼き色がついた卵焼きはふわふわで、箸で軽くつまむだけでもその柔らかさが伝わってくる。ウインナーの焼き加減も絶妙で、歯で噛むとパリッ、という音が鳴り、熱々の肉汁がじゅわっと溢れてきた。金平(きんぴら)牛蒡(ごぼう)は昨晩の残り物だけど、シャキシャキとした食感がしっかりと残っていて口の中が心地いい。ゴマの香ばしい風味が、食欲をさらに引き立ててくれる。味噌汁の具材は豆腐とワカメだけだ。具材は少ないけど、これが身体を芯から温めてくれる。この温かさを思い出すだけで、俺はもっと人に優しくなれる気がする。いや、これは俺だけの話じゃないはずだ。『皆が毎日味噌汁を飲めば、世界はもっと平和になるんじゃないのか?』そんなことを真剣に考えてしまう。やっぱり、味噌汁は日本の心だ。
「ごちそうさまでした」
そこで一旦思考を中断し、再びパンと軽く手を合わせた。自分でも気付かないうちに、朝食を食べ終わっていたみたいだ。茶碗に米粒が一つも残っていないのをもう一度確認してから、流し台に食器を下げる。
無遠慮に置かれている食器を一つ、一つ、丁寧に水で洗い流すと、柑橘系の匂いがする食器用洗剤でキッチンスポンジを泡立てて、傷つけないように汚れを擦り落とす。
食器全体を泡で優しく包み終えると、再び、蛇口から勢い良く溢れ出ている水で綺麗に洗い流した。後はタオルで水気を拭き取って、乾かすように並べて置いておく。
よし、これで朝のタスクがすべて終わった。
清々しい気分のまま一休みするかと思った俺は、最後に流し台に付いている水滴を拭き取っておこうとキッチンペーパーに手を伸ばしたが……その手が空を切った。あ、しまった。昨日ちょうど切らしたのだった。大学の帰りに近所のコンビニにでも寄って買っておかないといけないな。クソ。キッチンペーパーって結構いい値段するのに。
「……はぁ」
無意識のうちに口から溜息が漏れた。まだアルバイトすら決めていないのに、便利だからと無駄遣いするべきじゃなかった。さすがにこれは反省しないといけない。
俺は椅子に座り直して、スマホのメモアプリを開いた。そして、忘れないうちに『キッチンペーパー』と簡単にメモを残しておく。妹が俺の激しい物忘れを心配して、無理やりインストールさせられたアプリだったが……なかなか使い勝手がいい。
これまでの人生で使わなかったのが勿体ないと思っているほどだ。
俺はメモを取ったついでとばかりにスマホでそのまま『神奈川県 今日の天気』と検索した。検索結果は『曇り所により晴れ、降水確率は四十%』とかなり高い。帰って来てから洗濯をしようと思っていたけど、今日のところは控えた方が良さそうだ。
「ん、これは?」
そんな風に午後の予定を頭の中で組み立てていると、あるニュース記事が目に止まった。何の気なしに『事故報告。来島海峡で貨物船三隻から相次いで貨物盗難事件発生。高級医療機器が消失。内部反抗の可能性も?』という見出しの記事をクリックして開く。
ゆっくりと記事に目を通していくとどうやら愛媛県今治市沖の来島海峡で、貨物船三隻から何者かに襲撃されたみたいだ。その中でも貨物船「龍海丸」に積載されていた高級医療機器が盗まれる事件が発生したようだ。関係者の証言によればコンテナの外部には薬品か何かで溶かされた跡があり、内部が空になっていたらしい。監視カメラにも不審な人物の姿が映っておらず、警察は内部関係者による計画的な集団犯行の可能性を視野に入れて捜査を進めているらしい。約四億相当の機器が龍海丸の運航時間中に消失が確認されたらしく、盗品類はすでに県外へ運び出された可能性もあるとみて、全国の警察に情報提供を呼び掛けていることから、犯人グループは未だに捕まっていないらしい。
俺とは縁もゆかりもない土地の話ではあるが、こういう記事を見ているとモヤモヤとした黒い感情が込み上げてくる。他にもニュース記事がまとめられたサイトを遡っていくと『東京・品川で透明なトラックが引き起こした衝突事故?』東京都品川区で原因不明の多重衝撃事故が発生したと記事を見つけた。一年前の記事だ。信号待ちをしていたタクシーの運転手が「何か巨大なものが突然ぶつかってきたが、姿が見えなかった」と証言している。現場の監視カメラにも事故の瞬間に何も映っていないという異常な状況が確認され、市民の間では光学迷彩や軍事技術の流出疑惑もあったらしい。
さらに遡ってみると『大阪・西区の標識焼損事件』大阪市西区の住宅街で「道路標識が燃えている」との通報があり、大阪府の警察が現場に急行したという記事を見つけた。これは三年前だ。到着時には鎮火していたが、標識の支柱部分が黒く焼き焦げ、周囲には焦げた金属臭が漂っていたらしい。現場は住宅街と焦点が並ぶ通りだったが火災の音や光を目撃した住民はいなかったとされている。どうやらこのサイトは日本で起きた不可解な未解決事件を紹介している特集だったみたいだ。
俺の感覚だよりになるが数年前、つまり俺が高校生の頃から、この手の不可解な未解決事件が増え始めたような気がする。
昔、父さんの帰りが遅くて寂しがっていた俺に母さんが『毎日のように事件や事故が起きているの。だから、お父さんも毎日夜遅くまで頑張っているのよ。私たちは家族として応援してあげなくちゃね!』と言ってくれたことがあったがそれにしても最近は不思議な事件が多い。そして、どの事件の犯人は未だに捕まっていない。
日本の優秀な警察でもここまで犯人の目的が不明確だと苦労するのだろう。
この珍事件を初めて見た時、俺は直感的に一つの明確な目的を持った犯罪グループによる犯行だと疑っていた。得体の知れない巨大組織が裏社会で暗躍しているのではないかと考えていた。だけど、道路標識を燃やしたり、貨物船に積載していた高級医療機器を盗んだり、品川でタクシーを破壊したり、と俺の理解が及ばないことばかりが起こりすぎている。それにこのことを大学の学友たちに話してみても「あ、そんなことがあったんだ」という薄い反応ばかりが返ってくる。
まるで何かスゴイ力で俺たちの認識そのものが捻じ曲げられているみたいだ。
……いや、ここまで中学二年生頃の思春期にありがちな自己愛に満ちた空想、いわゆる中二病的な考え方をしてみたけど、真相として俺と同年代の若者は話題にするほど世の中に興味がなく、社会人は話題にするだけの時間がないだけだというなんとも現実味溢れる詰まらない結論に行き着いてしまうことだろう。
「もうこんな時間なのか。そろそろ大学に行かないと……」
スマホに表示された時間を見るといつの間にか八時を過ぎていた。今日の講義は一限からあるので、準備をしてもう家を出ないと電車に間に合わなくなる。俺は急いで用意していた大学用の服に着替えて、プラスチック製の櫛で髪を梳かした。だけど、雲のように癖のある髪は上手くまとまってくれない。
「こいつは、もう仕方がないよな。もし来世ってやつがあるなら、髪質はストレートにして欲しいな。いや、まだこれでも、キャラクリでどうにかなる範囲なのか?」
こいつとはもう十八年の付き合いで、酸いも甘いも噛み分けてきた関係だ。だから、調子の良し悪しも一目で分かる。ここまで上手くまとまらないのはかなり珍しい。天気予報の通り今日の午後からは本格的に雨が降るのかもしれないな。
身に付けていた靴を空高く飛ばして明日の天気を占う子供の遊びと同じ確率で、俺は髪のまとまり具合でこの後、雨が降るかどうかがなんとなくわかるのだ。これも俺の数少ない自慢の一つだ。スマホが普及している現代では何も役に立たない俺の特技だ。
「……はぁ、自分でも悲しくなるぐらいしょぼいと特技だよな。湿気のせいで髪がすぐボサボサになるからデメリットの方が大きいし。……うん?」
大学に行くための身支度を終えて、玄関のドアノブにちょうど手を掛けたタイミングで、綺麗に包装された箱が洗濯機の上に置いてあるのが目に入った。引越し蕎麦だ。
「あ、しまった。完全に忘れてたな」
先日、父さんに言われて俺の様子を見に来た妹が『兄さん。母さんの紹介でこんないい所に引っ越すことができたんですから、ご近所さんたちへの引っ越しの挨拶はマナーとしてこちらからきちんと行って下さい! ほら、これが手土産です。絶対に忘れないでくださいね! 絶対ですよ!』と引越し蕎麦を持ってきてくれたのだった。
だけど、今から引越し蕎麦を手に持って、お隣さんへ挨拶に伺う時間は残されていない。
こんなことをしている間にも刻一刻と、最寄り駅には大学行きの電車が近づいている。大学の授業に遅刻するなんて論外だ。それになにより時間がない中で、適当に挨拶を済ませるのはかえって失礼にあたる気がする。引越し蕎麦の存在を忘れていた自分を正当化するみたいで気が引けるが、本来、引越し蕎麦とは引っ越した後に近所に配る蕎麦のことであり、いつまでに渡さなければならないなんて決まりがあるわけじゃない。でも……明日こそはきちんと時間を取って、お隣さんに挨拶へ伺おう。だから、今日のところは大学へ向かうことを優先することにした。
「……いってきます」
いきなりこんなミスをするなんて幸先が悪い。
普段の俺だったらこんな初歩的なケアレスミスはしなかったはずだ。
たぶん、思っている以上に、寝坊をしたという事実が心に尾を引いているのだろう。
ガチャリ、と鍵を回す音が重々しく響いた。玄関の鍵を閉めて、最寄り駅へと足を向ける。いつも何気なくこなしているその動作が、今日は少しだけぎこちない。
何の変哲もない朝だった。たしかに寝坊はしたけど、ここから見える朝の街並みは何も変わっていないはずだ。なのに、胸の奥に小さなざわめきが残っている。俺はそのざわめきの正体を確かめるように、あるいは振り払うかのように、むかしお守りの代わりに貰った勾玉を鞄に入れて大学へと向かった。
※ ※ ※ ※ ※
ピンクに水色、茶色に白に黒とカラフルな背中たちが、大教室を埋め尽くしている。大学生になった途端、皆が急にオシャレに見えるようになった。
いや、実際にオシャレなのだ。彼らは人一倍、身なりに気を遣っているのだろう。
何処で買ったのかも見当がつかない個性的な靴を履き、ビビットカラーに髪を染めている学生の数が明らかに増えている。
俺は講義中に配られた資料と、前に座る学生たちの様子を交互に眺めながら、入学前に母が言っていたことを思い出していた。あれは、大学の入学祝いで久しぶりに家族四人が食卓を囲んだ日のことだった。
酷く酔っぱらった母が『入学式までにアンタはお洒落を覚えなさい。いつも面白みがない服ばかりよね。自分に似合った服装をいち早く理解した者だけが、大学生活を制するのよ? それに男もファッションや化粧に気を遣わないといけない時代が、もう来てるの。これは義務教育で教えるべき内容だわ! 私を教師として招きなさい!』と熱く語っていたが、あれは本当のことだったのかもしれない。
あの時は、酔い潰れた母の戯言だと冷たくあしらってしまった。だが、仮にも化粧品業界という荒れ狂う海で日夜しのぎを削っている女性の言葉だ。今思えば、素直に忠告として聞き入れた方が良かったのかもしれない。少なくとも、聞き入れなかった俺が、時代の流れに取り残されている感覚に襲われたのは確かだ。
きっと皆、俺の知らないうちにファッションの授業を受けていたに違いない。こんな気持ちになるくらいなら、もういっそのこと高校生の必修科目にして欲しかった。中学、高校と部活一筋だった俺にとっては、ファッションの流行なんて海の向こうの話でしかない。対岸の火事でしかないのだ。
「えー、少し早いですが今日の講義はここまでにします。皆さんの中にもし遅刻した方や、コードの不具合で出席が取れていない方がいたらこの後、私にお知らせください」
すると、教授のその一言で講義が終わった。珍しい。いつもは講義の終了を知らせるチャイムが鳴り終わるギリギリまで、不愛想な声でミクロ経済についての講義をしてくれたはずだが、今日は五分も早く切り上げている。
「珍しいよね。いつもは時間ギリギリまで終わらないくせにさ」
「……ああ、そうだな」
講義中ずっとスマホをいじっていた隣の男が、俺の思考を読んでいたかのようなタイミングで、当然のように話しかけてきた。その軽い口調に、俺は少しだけ眉をひそめる。
「たぶん、『カミカミ』のガチャ結果が良かったんだと思うよ? あの教授、『カミカミ』の廃課金者だって噂だし。学生の出席よりも、自分のスマホの中にいるキャラの育成の方が大事なんだよ、きっと。……ねぇ、優斗君。学生の出席率なんかよりも、ガチャの排出率を気にする大学教授がいるなんて世も末だとは思わない? しかも教授の推しは、自分の娘よりも遥かに年下の女の子らしいよ? いわゆるロリキャラってやつだね」
「お前は、そういう変な噂をどこから仕入れてくるんだよ?」
俺は呆れたようにそう返す。口角をわずかに持ち上げて、胡散臭い笑顔を作りながら話しかけてきたこの男の名前は、日吉(ひよし)傑(まさる)。彼とは大学の入学式でたまたま席が隣だったことがきっかけで、すぐに仲良くなった。あの日、初めてのスーツを着て、柄にもなく緊張していた俺に、彼は何の前触れもなく『優斗君って、出身はどこ?』と、まるで旧友にでも話しかけえるようなテンションで声をかけてくれた。その後も一緒にサークルを見て回り、新歓にも参加した。先輩や同級生、誰に対しても物怖じせずにコミュニケーションを取ろうとする彼の姿を見ていると、隣にいたのが俺だっただけで、どんな人とでも上手くやれていたんだと思う。俺も、日吉のおかげで大学内で話ができる友人が順調にできた。彼の社交性の高さは、俺のような人間にとっては本当にありがたいものだった。
「ねぇ、優斗君。ボクはこの後一人で学食に行くつもりだったんだけど、もし予定がなければ一緒にどうかな?」
「それは珍しすぎるな。どういう風の吹き回しだ?」
日吉の誘いを聞いて、俺は思わずそう問い返していた。日吉が自分から誰かを食事に誘ってくるなんて、記憶の中では初めてのことだった。だから、俺の声に、態度に、少しだけ探るような色が混ざったのも仕方がないことだろう。だが、日吉は平然とした顔のまま俺の問いを返してきた。
「別に他意はないよ。強いて言えば、ボクがもっと優斗君と仲良くなりたいって思っているから、かな?」
「相変わらず回りくどいな。それで、今度は何が目的はなんだよ?」
「信用がないな。ボクはいつだって本当のことしか言っていないのにさ。ただ、優斗君にちょっと聞きたいことがあっただけだよ」
「俺に? まあ、そういうことなら別にいいけど」
「……じゃあ決まりだね。食堂が混む前に急ごうか? ボク、午後にも講義があるからさ。ここで食べ損ねると、地味に辛いんだよね」
俺が大学に入学して初めてできた友達は確かに日吉だった。実際、講義がかぶっていることもあって、大学内で一番話しているのも間違いなく彼だ。だけど、もう一度言うが、日吉からこんな風に食事に誘われたのは、初めてだった。俺の記憶が確かなら、サークルの新歓でできたグループと学食に行く時も、彼は何かと理由をつけて断っていたはずだ。
「どうしたの、優斗君?」
「……いや、なんでもない。それよりもほら、行こうぜ」
心配そうにこちらを覗き込む日吉を、俺はじっと見返した。
日吉傑は、深みのある焦げ茶色の髪と、細い目が印象的な好青年だ。
見た目も爽やかで、話し方も丁寧。それに、俺にはどこか胡散臭いと感じるが、いつもニコニコとしていて愛想がいい。女友達も多いし。たぶん、モテるのだと思う。
いつも同じような服を着ているので、気になってそのことを聞いてみたら、曜日ごとに決まった組み合わせの服を着回していると答えてくれた。本人曰く、マネキン買いをしているだけそうだが、それで似合っているのだからセンスとスタイルがいい。
そんな、まるで理想の大学生を演じているかのような彼だけど。俺は初対面の頃、入学式で出会った時から、彼という人間のことをあまり信用してはいけないと、直感的に感じていた。いや、信用できないと感じたその理由は、二週間というそこそこ長い付き合いになった今でも、はっきりとは分かっていない。何かが引っかかる。何かが噛み合わない。だが、その決定的な証拠だけが何時まで経ってもでてこない。
こちらから何度も距離を詰めようとしてみたが、彼にはいつものらりくらりと躱されてしまう。だけど、彼の行動を観察してみると、掴みどころがまったくないというわけでもない。日吉は講義を受ける時、いつも端の席を好む。すぐに他人の懐に入っていける彼の優れた社交性とは裏腹に、隣の席には誰も座らせたくないみたいで、当てつけのように荷物を置いている。その行為は、まるで彼と他者との間にある見えない心の壁を象徴しているかのようで、俺には不気味に映った。彼のイメージに合わない行動だからこそ、余計にそう感じてしまう。
「……うん。早くいかないと席が埋まってしまうからね」
そう言うと日吉はさっさと席を立ち、俺の支度を待たずに歩き出した。
彼には他人の懐にすっと入り込める優れた社交性があると思っていた。だけど、もしかしたらそれはただの勘違いだったかもしれない。こういう場面って、普通は相手の準備を待つものなんじゃないか?
「いや、ちょっとくらい待ってくれても……まあ、いいか」
俺は小さく息を吐いて、気持ちを切り替えた。一念発起。これは、むしろ友達としての距離を縮めるチャンスだ。そう自分に言い聞かせた俺は、講義中に配られた紙の資料を丁寧に鞄にしまい込み、日吉の背中を追いかけた。
※ ※ ※ ※ ※
二限目までの講義が終わり、今日の予定がなくなった。
俺たちが通っているのは、武蔵野市立大学というまだ歴史が浅い大学だ。神奈川県横浜市に新築された我らが校舎(キャンパス)は現代風な建築といえば聞こえはいいが、ただ小奇麗なだけで使いづらいというのが俺たち学生の本音だ。
地球環境への配慮を理由に、自然の光をなるべく多く取り入れたいと一面がガラス張りで統一された校舎からは、できるだけ電気代を節約したいという大人たちの思惑が透けて見える。また、併設された図書館や食堂と言った学校施設は全体的にこぢんまりとしており、時間帯によっては人が集中してしまうで、利用することすらままならない。そのため、運動部に所属している学生たちの間では、限られた運動施設をめぐって、日々小競り合いが絶えないと聞く。
そんな不満を挙げていくと切りがない我らの愛すべき学び舎(キャンパス)なのだが、唯一の長所として緑が綺麗なことが挙げられる。自然が多く、都会の喧騒からは切り離されたこの癒しの空間を実現するために大学の敷地面積の約半分を犠牲にされている。
これには武蔵野大学が掲げている『学生の豊かな心の育成には、自然と触れ合う機会を設けることが最も重要である』という理念が関係しているらしい。
正直な話、そこまで緑化に力を入れるぐらいなら、校舎をもう少し広くして欲しかった。これが国立大学だというのだから、なおさら驚きだ。
とはいえ、この理念のおかげで、俺たちは若々しい緑色に囲まれながら、穏やかに昼食を取れるのだから、これ以上の贅沢は言わないことにしよう。
俺は同じ講義を受けていた日吉と一緒に、食堂のランチスペースにいた。チャイムが鳴ると同時に、食欲旺盛な学生たちは我先にと食堂に押し寄せ、食堂の外にまで溢れ出した学生たちによって長蛇の列が形成される。
俺は、あの混雑した列を見るのがあまり好きではなかった。まあ、好きな人の方が少ないだろうが。圧倒的な数の学生が過集中する食堂の列はいつも傍から見ているだけで食欲が失せてしまうからだ。胃袋を満たすための場所であるはずの食堂が生み出した列を見るだけで逆に胃もたれを引き起こしそうになるなんて、本末転倒もいいところだろう。まあ、その点では今日はかなり運が良かった。
「ほら、アンタらは何にするんだい?」
俺たちは長蛇の列に並ぶことなく、給仕のおばちゃんのもとにまで辿り着くことができた。ピンク色のトレイを手にして列に並び、声をかけてくれたおばちゃんに注文を口にするだけで準備が始まる。
うちの食堂は『おかず』『丼もの』『麺類』と、黒色のマジックで大きく書かれた紙が貼られた場所に並んで注文するフードコート形式だ。だいたい数十秒から一分ほどで、歴戦のおばちゃんたちが温かいご飯を手際よく提供してくれる。
「カツカレーでお願いします」
俺は、声をかけてきた恰幅の良いおばちゃんに向かって、迷わずいつもの食べている『カツカレー』を注文した。最高の一品だ。だけど、日吉はまだ学食に慣れていなかったようで、彼はメニュー表をじっと見詰めたまま、悩ましげに立ち尽くしていた。そこまで真剣に悩むのだったら、俺と同じ人気メニューを選んでおけば間違いないのに……。
「決めてなかったのかよ? 迷うくらいなら、俺と同じカツカレーにするか?」
「……カレーは嫌い」
日吉の口から放たれた衝撃のカミングアウトに、俺は思わず固まってしまった。
まさか、カレーが嫌いな人類が本当に存在していたなんて信じられない。
もしかして彼は小学校に通っていなかったんじゃないかと疑ってしまったぐらいだ。俺の動揺などお構いなしに、日吉とおばちゃんの攻防は続いた。激闘だった。おばちゃんの『邪魔だから早く決めろよ』という無言の圧力も、日吉は意に介した様子はない。まったく動じていない。だからか、おばちゃん以外の、俺たちの後ろに並ぶ学生たちのうんざりとした視線は全部俺が受け止める羽目になってしまった。針のむしろだ。日吉、頼むからできるだけ早く決めてくれ……!
そんな俺の切なる願いが通じたのか、長考の末、ようやく日吉は「かけうどん」を注文した。これだけメニューが豊富なのに、よりによって一番シンプルな『かけうどん』を選ぶとは。珍しい。うどん一つとってもうちの学食には『かけうどん』の他に、『月見』『きつね』『肉』『ごぼ天』『カレー』と、五つも種類がある。
いや、もしかすると、『かけうどん』にこそ彼なりのこだわりがあるのかもしれない。美味しいものを食べることだけが生き甲斐な、いわゆる食道楽と呼ばれる人たちは、意外なものにこだわると聞いたことがある。
カレーやラーメンといった王道はもちろん、ヤングコーンやインスタント麺にもこだわる猛者もいると聞いたことがある。味や食感の好みの他にも『トマトは過熱してないと食べれない』『食べる順番にルールがある』『ポテトは冷めたら絶対に食べない』など自分の中に特定のルールを持っている人もいるらしい。初めて聞いた時は、さすがの俺も驚いたものだ。そこまで行くともう俺には理解できない世界の話だ。
わざわざ身を乗り出してまで深淵を覗く必要はない。なぜなら、深淵を覗き込んだ者は、深淵に飲み込まれてしまった者は帰って来ることができなくなるものだからだ。まあ、仮に彼なりのこだわりがあって『かけうどん』を選んだとしても、『カレーが嫌い』なんて言う新人類と食の趣味で意気投合できる気がしない。
カレーは老若男女問わず愛され、必要な栄養素をすべて含んでいる完全食だ。
少なくとも、自分のことを食道楽だと思っている人間なら、日吉のように『カレーが嫌い』なんて口が裂けても言わないだろう。
「ちなみに日吉はカレーのどこが嫌いなんだ? 野菜が豊富で、究極の健康食とされるほど健康にいいんだぞ? 洗い物が面倒くさくなる以外の欠点がないだろ?」
「いや、欠点あるじゃん。まあ、ボクが嫌いな理由は色々あるけど……一番は、誰からも好かれているところかな」
「……ちょっと難しいな。どこが苦手なのか、よく分からなかった」
「別にいいよ。誰かに共感されようとなんか思ってないしね」
「いや、共感はできなくても、理解はできるはずだろ? 俺は友人としてお前のことをもっとよく知りたいんだ」
「……そっか」
そこで彼との会話が一旦途切れた。レジの順番が回ってきたからだ。
「はい、次はアンタかい。カツカレーが一点、六百円だよ」
「あ、カードでお願いします」
「あいよ。……アンタ、今日もカツカレーだけかい? まだ若いからって調子に乗っていると、いつか痛い目を見るよ。気を付けな!」
「ハハハ、心配してくれてありがとうございます」
「……二十代でした不摂生のツケは三十代にならないと分からないものだね。今は、おばちゃんからのお節介を記憶の片隅にでも置いてくれたらそれでいいさね。ほら、次の方!」
俺は返されたカードを財布に戻し、おばちゃんからレシートを受け取った。
一人暮らしを始めたばかりの学生に栄養バランスを意識させるため、レシートには細かく成分表やカロリーが記載されている。俺はこのレシートを見るのが地味に好きだった。
「……優斗君、君が生粋のメモ魔なことはボクも知っているつもりだったけど、さすがに今から食べる昼食の成分表までメモに残すとは思わなかったよ」
「ああ、すまない。ダメだったか?」
「いや、面白いから別にいいと思うよ。少しだけ気持ち悪いけどね」
「おい!」
俺と日吉はそんな軽口を交わしながら、空いている席を探してピンク色のトレイを慎重に運んだ。日吉は「冗談、冗談」と笑いながら謝ってきたが、たぶん気持ち悪いと思ったのは本心だろう。日吉でこれなら他の人の前では控えた方が良さそうだな。
反省した証として、手に持っていたメモ帳を鞄の中にしまい、俺たちは向かい合うような形で空いている椅子に座った。
ちょうど窓の外の緑がよく見える最近気に入っている席が空いていてよかった。
「いただきます!」
「……いただきます」
俺は朝食の時とまったく同じように、パンと両手を合わせた。少し遅れて、日吉も両手を合わせ、左手に箸を持った。彼がプラスチック製の青色の箸を持ち上げるために左手を動かしたその拍子に、何かがキラリと鈍く光った。銀の時計だ。
日吉がいつも左腕に巻いているその時計は、カチカチと小さな音を立てながら、秒針を刻んでいる。渋い趣味だと思うが、男同士でわざわざ口にするようなことでもない。
……あ、ふと思いついたことなのだが、大学の敷地内でたまに見かける和装の男や、謎のおじさんは一体何者なのだろうか?
前者の和装の男については、茶道や書道や落語など、和装が必要なサークルに所属しているのかもしれないという説明で納得できる。だが、後者の……謎のおじさんの正体だけは、入学式から約二週間の月日が経った今でも分かっていない。気軽に話しかけていいのかすら判断がつかない。
初めて一人でベンチに座っている姿を見かけたときは、大学の教授だと思っていた。だが、講義では教卓に立つわけではなく、学生に混じって普通に授業を受けていた。つまり、教授ではなく俺たちと同じ学生みたいだ。
もちろん、大学側が齢制限を設けないことで、門戸を幅広く開いてくれているのは理解している。だけど、入学式やオリエンテーションの場で彼らの姿を見かけた記憶はないし、授業外ではサークル活動に精を出している様子もない。さらに言えば、大学の外で彼らの姿を見かけたことが一度もない。
もしかすると、彼らの正体は大学側が学生の授業態度を評価するために生徒として送り込んだ、忍者の末裔なのかもしれないな。
「——優斗君、優斗君?」
「ん、なんだ?」
「いや、さっきから話しかけても返事がなかったから気になってね。もしかして、まだ体調がすぐれないのかい?」
「……すまない。ちょっとボーッとしていたみたいだ」
「そうかい。正直なのはいいことだね。でも、優斗君がボーっとしている姿を見ているとボクの祖父を見ているようで心配になるよ。まだ若いんだから、体には気をつけなよ?」
「ああ、気をつける。それで、何の話だったんだ?」
「……別に、ただの他愛のない話だよ」
「そうか? ……でも、思えば、日吉と一緒に食事をするのってこれが初めてだよな。もしかしてだけど、日吉はうどんに並々ならぬこだわりがあるのか? あの中で一番シンプルなかけうどんをわざわざ選ぶなんて、食通なんだな」
「……優斗君だけじゃなくてね。ボクはそもそも、人と一緒に食事をするのがあまり好きじゃないんだよ。はっきりと言えば、苦手なんだ。どちらかというと静かに一人で味わって食べる方が好きだし、何かを口に含んでる瞬間を見られるのも、できれば避けたい」
「なら、なんで俺を誘ったんだよ」
「それに、ボクは昔から食べ物の好き嫌いが多くてね。だから、学食もあんまり利用してこなかったんだ。今日、ボクがかけうどんにしたのも、こだわりじゃなくて、メニューの中で唯一食べられそうだったからだよ。残念なことだけどね……」
「本当になんで俺を誘ったんだよ!」
日吉がここまで人間初心者みたいなヤツだったとは思わなかった。
あれだけ充実しているメニューの中から、かけうどんしか食べることができないなんて偏食とまでは言わないが、彼の好みが偏っているのは確かだろう。
「まあ、それはどうでもいいじゃないか。それより、優斗君はバイトを決めた方がいいんじゃないのかい? すいぶん悩んでいたよね?」
「……うまく話を逸らしたな。いや、バイトはまだ決めてないんだ。俺はバイトをしたことがなくてな。右も左も分かっていない、ハードルだけが高い状態なんだよ。だから、もう少し考えてみたいと思っているよ。……そういう日吉こそ、バイトどうするんだよ?」
「あれ、まだ言ってなかったかな? ボクは先週からパチンコ屋でバイトしてるよ」
「え、すごいな。もう決めたのか! 点…うん、パチンコ屋?」
彼のイメージとはかけ離れたバイト先に、思わず驚いてしまった。さすがに、そんな場所で働いているなんて予想外だった。
だが、日吉は俺の反応を見て、まるで「その反応を期待していた」とでも言わんばかりに、意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「あ、やっぱり怪訝な反応をしたね。経済学部ともあろう君が、江戸時代のことわざでもある『職業に貴賎なし』を知らないとはね? 石田梅岩の教えだよ?」
「確かに、何もしてない俺より、バイトしてる日吉の方が遥かに偉いかもしれないけどさ。それよりも、大丈夫なのか? 危なくないのか?」
「うん、いろんなバイトを経験してきたバイトマスターとして言わせてもらうと、いろいろな人たちを見れて面白いよ。バイトって、給料の良し悪しよりも、どれだけ暇な時間を潰せるって条件で選ぶべきだとボクは思うよ。……もし、優斗君が興味あるなら紹介できるけど、どうする?」
「……すまない。誘ってくれるのはとてもありがたいけど、昔からどうにもパチンコみたいなうるさい場所が苦手なんだ。また、別の機会があれば誘ってくれ」
「やっぱりね。優斗君ならそう言うと思っていたよ。あーあ、喫煙所で店長に『どうしても辞めたけりゃ、代わりのヤツを見つけてから辞めろ!』って言われていたからさ、チャンスだって思ったのになー」
「身代わりにするなよ! っていうか、やっぱり治安が悪いじゃないか!」
「ハハハ、冗談だよ。冗談。うちのパチンコ屋は禁煙だからね。喫煙所なんてそもそも存在しないよ。それに、優斗君は普通よりも音に敏感だからね。なんとなくそう思ったんだ」
「いや、俺が冗談であって欲しかったのはそっちじゃないんだけど。……まあ、日吉が楽しそうにやれているようで何よりだよ。……あれ? 雑音が苦手って話を日吉にしたことあったか?」
「いや、さすがに見ていたら分かるよ。さっきの授業中も、カチカチってシャーペンの音や、後ろの席から聞こえてくる話し声を、優斗君はあの教授よりも気にしていたしね」
「へぇー、日吉は人のことをよく見ているんだな。……あ、そうだ。なら俺のことで、他に何か気付いたことはあるか? 何でもいいぞ?」
「うーん、そうだな。ノートの文字が意外と汚いことかな?」
「おい!」
面白半分で聞いてみたら、いきなり言葉でぶん殴られた。
日吉が俺のことをちゃんと見ているのだと分かって、友達として少し喜んだらこれだよ。俺の見て欲しくないところまでしっかりと見ていやがる。
「まあ、ボクが思うに、優斗君は字が汚いっていうよりも、ただ筆圧が強すぎるだけだと思うよ。もう少し肩の力を抜いて生きたらどうだい?」
「……肩の力を抜くか」
「そうだよ。君はいつも全力で頑張っているからさ。隣にいるこっちが肩肘を張ることになって疲れちゃうよ」
「ム……なら、あえてこっちも言わせてもらうが、日吉は……いや、日吉だけの話じゃないかもしれないが、もう少し講義を真面目に受けたらどうなんだ? 勤勉であれとまでは言わないが、学費を払ってまでこの大学に来ているんだろ? なら、少なくとも授業中にスマホをいじるのは止めるべきだと思うぞ?」
「ハハハ、優斗君は相変わらずクソが付くほど真面目だね。まあ、ぐうの音も出ない正論でもあるけど。だからこそ、ボクは君を力みすぎだって評したんだよ。もっと上手に肩の力を抜かないと、いつか心が潰れてダメになっちゃうよ?」
「……正直、日吉の言い分には納得できなかったけど、わざわざ俺のために言ってくれたことには感謝はしておく。ありがとう」
「それはそれは、どういたしまして」
そこで一度、会話を中断した。俺はスプーンを手に取り、鏡のように顔を映すそのスプーンをわざと汚すためにカレーを掬う。
具なしカレーなのは少しだけ残念だが、カツの衣はサクサクで、皿の端っこの方にちょこんと添えてある真っ赤な福神漬けがとてもいいアクセントとなっている。
この二つの絶妙なバランスによって、新しい食感を生み出され、具なしカレーであっても最後まで飽きずに食べきることができるのだろう。
「あ、そうだ。話は変わるんだけどさ、君の妹さんはもう帰ってしまったのかい?」
「妹? ……ああ、もしかして栞(しおり)のことか?」
俺がカツカレーを楽しんでいると、まるで呼吸の仕方を思い出したかのように、日吉が突然口を開いてそんなことを言ってきた。
「そうそう、栞ちゃんのことだよ。この前、優斗君の部屋にお邪魔したときには、まだ栞ちゃんがいたでしょ?」
「……お邪魔? ああ、そうだったな。栞ならもう実家に帰ったぞ。今年は俺じゃなくてあいつが受験生だからな。まあ、俺と違ってあいつはしっかりしているし、一人でも頑張れるやつだからな。あんまり心配しなくても大丈夫だろう」
「それは残念。もうちょっと話をしてみたかったんだけどな」
「……あ、思い出した! 確か、『兄さん! 日吉って人を今すぐ出禁にするべきです。大学の友達? はぁ。兄さんのために言いますが、友人はもっと慎重に選んだ方がいいですよ!』と騒いでいたな。お前、あそこまで言われるって、一体何をやらかしたんだよ?」
「ボクが? いや、特別なことは何もしていないよ。栞ちゃんにはちょっとだけ優斗君のことを詳しく聞いただけだね。まあ、結局何も教えてくれなかったけど」
「……友達だから一応言っておくけどな。初対面の妹に家族のことを根掘り葉掘り聞くのは嫌煙される行為だから気を付けろよ? 一応言っておくけど」
「わざわざ二回も言わなくたって、ボクも失敗から学んだよ。だから、今度はもっと上手くやるよ。まずは栞ちゃんと仲良くなるところから始めようと思ってね」
「ああ、そうか。正直、もう遅いとは思うが……頑張れよ。俺は栞に言われているから応援はできないけどな」
「えー、友人が目の前で頑張ると言っているのに応援もしてくれないのかい? 随分と友達甲斐がないねぇ?」
「……妹想いなんだよ」
絶対に協力することはないが、個人的な立場ではなく兄としての立場だけで言えば、二人が仲良くなるのは別に構わないと思っている。
ただ、現実的な関係としてこの二人は犬猿の仲という表現が一番しっくりくる。
いや、お互いに敵視しているわけじゃないし、日吉に至っては栞に対して一方的に好意を向けているので、例としては不適切かもしれない。
まあ、確かにうちの妹は人見知りなところはあるが、社会性と常識はある。
そんな栞が、必要以上な警戒心を抱いて「友人は慎重に選べ」と忠告してきたのだ。そう考えると、入学式のときに日吉のことを信じてはいけないと感じた俺の直感は、案外正しかったのかもしれない。
俺はスプーンの上に残った最後の一口を頬張り、ゴクリと飲み込んだ。
チラリと日吉のことを盗み見ると、もうとっくに食べ終わっていたようで、俺が食べ終わるのを待つ間、スマホをいじって待ってくれていた。俺は「ごちそうさまでした」と、彼だけに聞こえるくらいの声量で感謝の意を伝えてから、スプーンを皿の上にそっと置いた。
「うん? もう食べ終わったのかい?」
「ああ。それより、日吉も食べ終わってるなら、早く他の生徒に席を譲ろう。どうやら本格的に食堂が混み始めたみたいだ」
「いや、どちらかと言うと、ボクが君を待っていたんだけどね?」
そう言うって、俺と日吉はピンク色のトレイを手に席を立った。まるで鏡写しのように、寸分違わぬ動作で立ち上がる日吉の姿を見て、思わず笑いそうになった。
「あ、そうだった。今日は優斗君に伝えておきたいことがあったんだった。ボクね、高校を卒業できるって、ずっと実感が湧かなかったんだ。……退屈なはずなのに、色鮮やかだった。あの日々を、ボクは延々と繰り返すんだって思っていたんだ」
「……いきなり何の話だ?」
彼の唐突なカミングアウトに、俺はまたしても面を食らった。
高校を卒業ができないって、普通に高校に通っていれば先生たちが全力でサポートしてくれるはずだし、そもそも倍率が以外と高いこの大学に入学できている時点で、成績が特別悪かったわけではなさそうだけどな。だからこそ、余計に理解が追いつかない。日吉にそんな過去があるなんて、想像すらしていなかった。
「うーん、何が言いたいかっていうとね。優斗君はハードルを自分で高くする設定しすぎる悪癖があると思うんだ。バイトも、サークルも、恋愛も……まずは始めないと。怖がるのも、悩むのも、もちろん悪いことじゃないけど。でも、それだけだと何も始まらないんだ。結果がどうなるかなんて、神様にしか分からないんだからさ。優斗君も、まずはやってみてから考えたらどうかなって?」
「……神様? 本当にどうしたんだよ? 今日の日吉は、なんか特におかしいぞ?」
俺がそう言うと、日吉は少しだけ悲しそうな顔をした。その表情はほんの一瞬だったけど、確かに見えた。何かを言いかけて、飲み込んだような顔。それは、俺が今まで見たことのない日吉の表情だった。だが、日吉はすぐにもとの胡散臭い笑顔に戻った。
「何でもないよ。ほら、急ごう? 皆がボクたちの席が空くのを待っているみたいだ」
「……ああ」
俺は日吉の一言に頷きながら、トレイを持つ彼の背中を見つめた。日吉の笑顔の裏に何か隠されたものがある気がして、少しだけ気になった。だが、それ以上は何も聞けなかった。日吉の笑顔がまるで『それ以上は触れないで』と言っているように見えたからだ。だから、俺はグッと口を閉ざして日吉に並び、歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※
昼休みのキャンパスには賑やかな雰囲気が漂っていて、心地良い。返却口にトレイを置いた俺たちは、すぐに食堂のランチスペースを後にした。一歩、二歩、と進むたびに、活気のある食堂のざわめきが背後に遠ざかっていく。すると、さっきまでの悲しそうな顔が嘘だったかのように、日吉は背伸びをした。両腕を空に向かって伸ばしながら、浅く息を吸い込む。そして、とても軽い口調で俺に話しかけてきた。
「さてと、優斗君。この後の予定は決まっているかい? ボクは横浜駅に遊びに行こうと思っているんだけど、暇なら一緒にどうかな?」
「うん? ああ、それは別にいいんだけど……あれ? 日吉、お前この後講義があるんじゃなかったか?」
「あの講義は面白くないからサボることにしたよ。最低限の出席日数だけ確保しておけば、単位は取れるからさ」
「……そうなのか。いや、行けよ! さっきの俺の話を聞いてなかったのか⁉」
「ハハハ、冗談だよ。じゃあ、またね。優斗(ひろと)君」
「……ああ、また明日の講義で」
図書館の方へ手を振りながら歩いていく日吉の背中を、俺は黙って見送った。
こちらは本気で心配しているのに、あの貼り付けたような彼の笑顔を見せられると、なぜか肩透かしを食らった気分になる。
大学の講義が始まって二週間なのにサボり癖がつくのは、今後の彼の大学生活を考えるとあまり良い兆候とは思えない。っていうか、お前は一度でもサボることを覚えたら、ずっとサボるタイプだろ!
「はぁ……アイツのことを気にしていても仕方がないよな。まあ、留年しないように心の中で祈っておくよ」
俺は呆れるように溜息を吐き、赤レンガで舗装された正門へと続く道を歩きながら、四季折々の花々が植えられている綺麗な花壇を眺めることにした。
眺めると言っても俺にはチューリップぐらいしか分からないが、学長の趣味だけあって色とりどり花は素直に綺麗だと思う。それに花壇にばかり目が行きがちだが、赤レンガで舗装された並木道には木々の葉の隙間から差し込む陽光が、地面に柔らかな影を落としている。数ヶ月前に大学のパンフレットで見たままの光景が今、俺の前に広がっていた。
雑然とした社会から切り離されたこの空間は、まさに俺が思い描く平和そのものだった。
両親から勧められてこの大学を選んだときは、正直不安があった、でも、結果的には正解だったのかもしれない。今は心が洗われるかのような気持ちだ。
ガラスのように透明な空気を胸いっぱいに吸い込みながら、コツコツと音を立てて、誰もいない赤レンガの上を踊るように歩いていると、違和感に気がついた。
温かい春の訪れを感じさせる、あの桜の香りがしないのだ。
入学当初、俺たち新入生を歓迎するように爛漫と咲き誇っていた桜も散り、気がつけば葉桜になっていた。時間は、俺の都合などお構いなしに流れていることを実感する。満開の時期を過ぎても散り残っている桜のことを名残の花と呼ぶらしいが、昔の人が名残惜しいと感じる気持ちが、今なら少し分かる気がする。
日本で最も愛されている花と言っても過言ではなく、もう揺らぐことがないほどの地位を築き上げた桜の花がない春はどこか物足りない。あの淡い紅色がないと、張り合いがないのだ。
「……やっぱり、駅にでも遊びに行くか」
沈んでいく気分とは裏腹に、空は雲一つない快晴だった。これから雨が降るなんて、とても思えない。だけど、今朝の天気予報ではこれから雨が降ると言っていたので洗濯はできない。これから家に帰っても、特に何もすることがない。
だから俺は、このまま無為に一日を終わらせてはいけないと、自分の喝を入れた。無理にでも外に出ようと決めた。行き先はどこでも良かったが、駅を選んだ理由は単純に、さっき日吉が『横浜駅に遊びに行く』と言っていたのを思い出したからだ。
「……凱旋、凱旋」
結局、何も目的がないまま、気づけば正門を抜けてしまった。
正門から大学の敷地を一歩出た瞬間、車の音が耳に飛び込んできた。ザワザワ、ガヤガヤとした学生たちの話し声が、スマホを片手に敬語で電話をしている学生が、駐輪場から聞こえるバイクのエンジンを吹かす音が、散歩中の犬の鳴き声が、生活音が入り混じって騒がしい。足元に目をやると、煙草の吸い殻が落ちていた。排気ガスと煙草の焦げ臭い、そして人間特有の体臭が混ざり合って、空気がひどく濁っていた。えらいことになっていた。目の前に広がる都会の風景が、俺の憂鬱さをさらに加速させる。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、楽園のように平和だった大学内に引き返したくなったが、一度自分で決めたことを覆すのは嫌だった。ルールを破るようで嫌だった。
だから、俺は気持ちを切り替えるように、横浜駅までの経路を頭の中で組み立てながら、大学の最寄り駅がある方向へ歩を出した。
※ ※ ※ ※ ※
「ごめんなさいねー。どこに何があるのか、良く分からなくて」
「いえいえ、大丈夫ですよ。困ったときはお互い様っていうじゃないですか」
「最近の子は挨拶をしないって言うじゃない? ボソボソと咳をするみたいに顔を下に向けて話をしてくるし。あれはダメよ。本当にダメ! それに比べてあなたはハキハキと話してくれるから、とっても聞きやすかったわ。本当にありがとうね」
「はい、ありがとうございます」
「それに最近の子は、うちの孫もそうだけど、ゲームばかりしているでしょ? だから、コミュニケーションが苦手に……あっ、大変。もう行かないと。約束の時間に遅れちゃう。あんなに早く家を出たのに、まさか迷子になるなんて思わなかったのよ。でも、あなたがいてくれて助かったわ。本当に、何度も言うけど突然呼び止めてごめんなさいね。じゃあこれでね」
「はい、お元気に」
駅の改札口を出てすぐ、なぜかおばあちゃんに話しかけられた。
昔から俺は人に話し掛けられやすい体質なのか、それとも何も考えていなさそうな締まりのない顔をしているせいか、迷子になった人たちに呼び止められることがよくある。
だから、もう慣れてしまった。むしろ、これから特に何かをする予定がない俺はおばあちゃんが話し相手になってくれて助かっていたけど、一人でボーっと突っ立っているだけでは、ただの不審者になってしまう。
俺はおばあちゃんが改札の向こう側に行くまで見送ってから、人混みを縫うように移動し始めた。過度な被害者意識のせいで俺は追い出されるかのように駅のホームを出ることになった。大勢の人々が波のように押し寄せ合っていて、大学よりもさらに人口密度が高いせいか、それとも単純に太陽の光を遮る屋根がなくなり直接、太陽の光を浴びているせいか、さっきよりも気温が高くなっている気がする。
もしこれが異常気象のせいなら、地球を冷蔵庫か何かに入れて冷却して欲しい。
俺の身近な変化で言えば、温かくなったせいで桜の開花時期もほんの少しだけ早くなっているらしい。まあ、桜の開花時期が三日、四日早くなったぐらいで何かが大きく変わるわけではないけど、桜が散るのも早くなるってことだから、やっぱり寂しいよな。
っていうか、雨が降るって話はどこにいったんだよ。打ち水理論だ。
雨で地面を濡らすことで、少しでも俺たちに清涼感を感じさせてくれ。そんなことを心の中で思いながら、今朝の天気予報への不信感と、汗ばんでいる額を同時に袖で拭った。こうすることで、積もりに積もった不満を一度、綺麗にリセットすることにした。
「……さてと、これから何をしようか」
昼下がり。春の陽気に誘われて、つい横浜駅まで遊びに来てしまった。
平日だというのに駅は人で溢れかえっている。ハンカチで汗を拭いているスーツ姿の中年男性。帽子から靴まで真っ黒で、まるでイカ墨でもかぶったかのようなティッシュ配りの青年。白髪交じりの髪を整え、杖を突きながら、残り少ない人生を静かに噛み締めるかのようにゆっくりと俺の横を通り過ぎていく初老の女性など。皆が皆それぞれの人生と向き合い、懸命に生きているからか、俺の存在には見向きもしない。
こんなにも大勢の人々が周囲にいるのに、孤独感を感じてしまうのは、彼らと俺の間に繋がりがないからだろう。いや、そもそも人との繋がり以前に、みんな他者を気遣う余裕すらないほど忙しそうだ。俺からすれば、生き急ぎすぎじゃないかとも思うが、それは単に俺が彼らよりも暇だからそう感じているだけかもしれない。
大学生の四年間は『人生の夏休み』と呼ばれるほど暇な時間だ。
そして暇になると、余計なことばかり考えるのは、人間という考える力に特化した生き物の、どうしようもない性なのだろう。
「『生は浪費すれば短いが、活用すれば十分に長い』と説いたのは一体誰だったかな。 今の俺は、時間を浪費しているはずなのに長すぎるぞ。人生って。……もしかして俺がもっとちゃんとした大人になったら何か変わるのかな?」
中学生の頃は高校生になった自分はもっと大人だと思っていたし、高校生の頃は大学生になった自分はもっと大人だと思っていた。だけど、成人してスーツを着る年齢になってようやく時間が俺を大人にしてくれるわけじゃないと気がついた。
二十歳、三十歳と歳を重ねていっても明日から突如として子供の頃に憧れた
なら、一体いつになれば内と外の天秤が釣り合う日が来るのだろう?
もしかして大人とは俺と同じような悩みを抱えらまま、大きくなってしまった子供のことを言うのだろうか? スーツやネクタイで飾り付けただけで大人と呼ばれるのだとしたら今の俺との違いは一体どこにあるのだろう?
いや、この答えは俺が歳を取らないと分からないことだよな。
……なんだろう。最近こんな悩みが尽きない。
たぶん就職っていうゴールを意識してしまったからだ。
入学当初はこれからのことで頭がいっぱいだったのに、二週間という短い期間で完全に自分は大学生だという事実が心に馴染んでしまったのだ。
これから俺は四年間ずっとこんな何もない日々を繰り返すだけなのだ。端的に言ってしまえば飽きてしまった。そのはずなのに、大学生活の中で何かしなければという大雑把な焦りや、将来への漠然とした不安がずっと胸の中で渦巻いている。
だけど、困ったことに俺は社会の教科書に名を残すような人物になりたいわけではない。俺の心の中には歴史に名を刻むような偉大な人物になりたいという強い野心があるわけじゃないはずなのに、何者かになりたいという矛盾した思いがずっとあるのだ。そしてこの矛盾が本当に曲者だ。将来に向けての明確なビジョンがないから努力の方向性を見定めることができない。正しい努力ができているか自分で分かっていないからこのままでいいのかと焼けるような焦燥感が募ってしまう。だから、いつまで経っても現状の自分に満足が出来なくなる。これの繰り返しだ……。
いや、こんな俺にも子供の頃は将来の夢は確かにあったはずだ。
でも、昔抱いた夢なんて年齢が上がっていくごとに忘れてしまうものだろ?
かくいう俺も、子供の頃の夢なんて聞かれてもまったく思い出せない。
もう綺麗さっぱり忘れてしまった。
(あれ、そういえば過去の俺は一体何になりたかったんだ?)
ふと頭の片隅にそんな疑問が生まれた。いや、疑問が生まれたでなく興味が湧いたと表現するのが正しいな。こんな俺にも子供の頃には夢があったんだ。
どうせ父さんの背中を見て警察官になりたいと思っていたのかだろう。サッカー選手や野球選手、医者になりたいなど幼少期に抱く夢の中ではありがちすぎて逆に恥ずかしくなってしまう。
だけど、
もし二十歳、三十歳と歳を重ねていっても中身が地続きで変わらないのなら、子供の頃に夢だったはずの『何か』になるのはいいかもしれない。就活が三年後だからといって目前に迫ってからでは遅い気がする。何事も準備は早めにした方がいい。
就活の備えができて、一生の後悔も軽減できるなんてまさに一石二鳥だ。
よし、そうと決めたならゴールデンウイークで帰省するついでに、部屋に置いてある小学校の卒業アルバムを取り出してもいいかもしれない。
卒業アルバムに『君たちの将来の夢』みたいな項目があったはずだ。
思い返してみれば、卒業アルバムなんて貰ったその日を最後に今まで一度も開いたことはなかった。過去にスゴイ問題を起こして気まずいとか、クラスに友達が一人もいなかったのを思い出したくないとかじゃなく、単純に柄じゃないからだ。
しかし、俺もいよいよ卒業アルバムを思い出と一緒に捲りながら、「あー、こんなこともあったな」と感慨深げな表情をして懐かしむ日が来たのかもしれない。
うん、想像してみたがカッコよく見えるぞ。
度数が高い琥珀色のお酒を飲みながら、カラン、コロンと丸い氷をグラスの中で躍らせて、酒の肴代わりに昔語りをするなんてハードボイルドってやつだよな。まあ、ハードボイルドを語る資格を得るには俺の年齢がまだ二つほど追い付いていない。
もっと言えば年齢が二十歳では足りないな。俺みたいな未成年の子供に出せない渋さがないとダメだ。映画やアニメで度々見かけるカッコいい——あ、そうだ。こんなことを考えている暇はない。忘れないうちにすぐメモに残さないといけないのだ。
「あのー、すいません。道をお聞きしたいのですが……」
そんなことを考えていると突然、背後から若い女性の声が飛んできた。
透明感がある、澄んだ声だった。全国のお母さんが悪戯をした子を叱りつけるような迫力はない。しかし、その一言は、俺の動きを止めるには十分すぎる力があった。
結果として、大学用の鞄から慌ててメモ帳を取り出そうとする、なんとも間抜けで、滑稽な姿を背後にいる彼女に晒し続けることとなったが、ここで取り乱してはいけない。ここで動揺すれば、かえって相手を困らせてしまう。それに、平静を装うことができれば、まだいくらでも挽回の余地がある。
先ほど改札前で声をかけてきたおばあちゃんと同じように、機械的な対応を繰り返せばいいだけだ。それに、なぜか俺は昔から人に話し掛けられやすい体質らしく、誰かに道を尋ねられることなんてこっちはもう慣れっこなのだ。日常茶飯事だ。
だから俺は、なるべく威圧感が出ないように、いつもよりも少しだけ明るめな声で返事をした。そして、女性の声のした方へ、ゆっくりと振り向いた。
「はい、全然いいで——」
脳内でイメージした通り、ゆっくりと身体は動いた。いや、動かせていたはずだった。良い感じに緊張から解放された身体は、脱力できたおかげで喉がよく開いた。
靴の向きを女性がいる方に変えて、なるべく声を通らせるために顎を少し上げる。すると、彼女と目が合った。彼女と目が合うと同時に、俺は言葉を詰まらせてしまった。
「……はぁ?」
「ん? どうかなさいましたか?」
無意識のうちに、素っ頓狂な声を上げてしまったらしい。
だけど、俺の背後に立っていた女性は『何がおかしいことがありますか?』とでも言いたげな、困惑した表情を浮かべていた。
実際、迷子になったこの女性に……待て、年齢を考えたら恐らく俺と同じくらいだから、まだギリギリ少女と呼ぶべきだな。その、迷子になったこの少女におかしな点は一つもない。まだ幼さを残した顔つきに、透き通るような白い肌。風に揺れるサラサラとした黒髪は少女の肩甲骨辺りまで真っ直ぐ伸びている。絹糸のようだ。また、天井から糸で吊るされているかのようにピンと伸ばした背筋には、彼女の礼儀正しさが見え隠れしている。
こちらをジッと見つめてくる少女の黒く澄んだ瞳は不安そうに揺れていたが、その奥には謎の力に満ち溢れている。確かな芯がある。
容姿端麗、仙姿玉質、明眸皓歯、大和撫子——様々な装飾が似合いそうな、紛れもない美少女がそこにいた。だが、俺が驚いたのは声をかけてきたのが美のつくほどの少女だったから、というわけではない。俺が驚いたのは彼女の可憐な容貌にではなく、その服装だった。
少女は汚れひとつない純白の白衣に身を包み、白衣の下から覗く赤い襟は、鮮やかでありながらもどこか落ち着いた色合いだった。そして何より目を奪われたのは、少女の脚を隠している緋色の袴だった。スカートやズボンでもない、現代の街中ではまず見かけることがない緋色の袴を履いている。鳥居の朱に似たその色は、燃えているかのように鮮烈で、見る者の心に火を灯す。
少女は、まるで神域からこっそりと抜け出してきたかのような装いをして、現代の雑踏の中に立っていたのだ。人が行き交う駅の喧騒の中、少女のその姿はあまりにも異質で——いや、これ以上はまどろっこしい言い回しはやめよう。
巫女服だ。俺がゆっくりと背後を振り返ると、そこにはいわゆる巫女服を着た、インパクトたっぷりの少女が立っていた。白と赤の鮮烈なコントラストが、駅の灰色の風景の中ではひときわ目を引いてしまう。どうやら俺は、横浜駅のど真ん中で、巫女服を着たインパクトたっぷりな少女に話しかけられてしまったみたいだ。
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