「『たかが忌引きだろ』と父の死を侮辱したパワハラ上司が、半年後に自らの行いで家族を失い再起不能になった件」
品川太朗
第1話 軋む歯車
オフィスには、真夜中を過ぎてもなお、蛍光灯の白々しい光が落ちていた。
濃密な疲労と、澱んだエアコンの空気が混じり合い、それはまるで嗅覚に訴える倦怠そのものだった。
都内屈指の大手広告代理店。
その中でも、社運を賭けた「プロジェクト・フェニックス」を担う私たちプランニング部の島は、地獄の釜が開いたという表現すら生温い、超繁忙期の渦中にあった。
入社5年目。
プランナーとして脂が乗ってきたという自負も、連日の徹夜と重圧にすり潰され、思考は鈍く重い粘土のようだ。
誰もが死人のような顔でキーボードを叩き続け、静まり返ったフロアに響くのは、無数のタイピング音と、時折漏れる乾いた咳だけだった。
その、張り詰めすぎて軋むような静寂を破ったのは、私のスマートフォンの無機質な振動だった。
ディスプレイに浮かんだ「母」の二文字。
悪い予感が、冷たい手で心臓を掴む。
私は音を立てないよう席を立ち、給湯室の冷たい壁に背を預けると、通話ボタンをスライドさせた。
母の、嗚咽に引きつる声が、鼓膜を突き破って現実を歪ませた。
――実家の父が、急逝した。
一瞬、世界から音が消えた。
悲しい、という感情よりも先に、脳がその情報の処理を拒絶する。
だが、じわりと足元から這い上がってくる喪失感と、それに相反するかのように点滅する「プロジェクト」という赤い警告灯が、私を混乱の渦に叩き落とした。
(どうしよう、今、私が抜けたら……)
悲しむ資格すら、今の私にはないというのか。
焦燥感に指先が冷たくなる。
私は震える指で、内線電話の番号を押し込んだ。
相手は、直属の上司、トシアキ課長だ。
「トシアキさん、……ノゾミです。夜分に、申し訳ありません」
『ああ? なんだ、こんな時間に。まさか終わったとは言わせんぞ』
受話器越しでもわかる、不機嫌を煮詰めた声。
「いえ……っ。それが、あの、実家の、父が、急に……」
言葉が喉に張り付く。絞り出すように、続けた。
「つきましては、規定の……忌引き休暇を、いただきたく……」
電話口の向こうで、トシアキさんが短く息を飲む音が聞こえた。
一瞬の沈黙。
しかし、返ってきた声は、私が無意識に期待していた同情や配慮とは真逆の、刃物のような苛立ちを帯びていた。
『ノゾミ君! 冗談じゃない!』
耳を突き破るような怒声だった。
『この「プロジェクト・フェニックス」の山場だってわかってるのか! お前はチームの要だろうが! どうせ親父さんだろ、たかが忌引きなんて遠慮しろ!』
――たかが、忌引き。
その言葉が、私の頭の中で冷たく反響した。
『通夜と葬式に顔を出したら、すぐに戻ってこい。一分一秒でも早く出社するのが、社会人としての責任だ!』
あまりにも無神経で、非情な刃。
受話器を握る手が、怒りなのか、絶望なのか、判別のつかない震えに支配される。
フロアの同僚たちが、何事かとこちらを窺い、その会話の断片を察して一様に顔を引きつらせた。
トシアキさんの背中に突き刺さる無言の非難。
だが、彼はそんな空気など意にも介さず、一方的に続けた。
『いいな! 聞いたか!』
「……っ」
私は、何も答えられなかった。
いや、答えることを許されなかった。
ガチャン、と鼓膜を殴るように乱暴に切られた電話の音だけが、静まり返った給湯室に虚しく響いた。
だが、私は――。
父の最期と向き合う時間を、このプロジェクトの都合で切り刻むことだけは、どうしてもできなかった。
私は、会社の無言の圧力と上司の恫喝をはねのけ、就業規則に定められた、当然の権利である忌引き休暇を、静かに、しかし毅然と取得した。
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