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 大学時代、僕には二人の親友がいた。一人はピエロと呼ばれるとても繊細な心を持った青白い顔の文学青年で、毎日違う本を持ち歩き、いつも難しそうな表情で本を読みながら、絶え間なくタバコの煙を空に向かって吐き出していた。彼を初めて見た人は、きっと少し神経質で人づきあいが苦手だけれど、知的で物静かな人間だと感じるだろう。しかし、その根底にある何か排他的な印象は隠しきれずにいた。


 僕が初めてピエロを見かけたのは、大学のキャンパスから少し離れた住宅街の表通りに面している、落ち着いた雰囲気を持つ喫茶店だった。テーブルが二つだけ、少しばかりの親しみを込めて店の奥にちょこんと置いてあるような、そんなこじんまりとした喫茶店で、手作りの焼きたてのパンが少しだけディスプレイに並んでいた。たまたま次の講義まで時間があった時に、偶然見つけて入った店だった。お客さんは一人。奥のテーブルで、僕と同世代だろうと思われる青年がタバコを吸いながら本を読んでいる。僕はコーヒーを注文して、もう一つの空いているテーブルに腰をおろした。


 しばらくして、店のマスターが「少し濃いめのコーヒーです」とテーブルにカップソーサーを置いた。少し濃いめってどういうことなんだろう。僕は少し戸惑ってしまった。さっきは普通にコーヒーを注文したはずだ。そもそもメニューすら見当たらない。ただ店の入り口に、コーヒーと手作り焼きたてパンと書いてあるだけだった。それなのに、マスターが持ってきたのはなぜか少し濃いめのコーヒー。それは明らかに商売には向いていない曖昧さだった。数字で濃さが分類されているのなら分かる。だけど、そんな決まりも特にないようだった。少し濃いめのコーヒーの入ったカップが上品なソーサーの上に載っている。それ以来、僕にとってのコーヒーとは、マスターが煎れてくれる少し濃いめのコーヒーとなった。


 店内では、その親し気な雰囲気を壊さないような曲ばかりが流れていた。その初めて聴く音楽は、とても刺激的で、僕の中の何かを変えてしまうのかもしれない、そんな気持ちにさせた。


「今、流れているのは、なんて人の曲なんですか?」と僕が興奮して聞くと、マスターはCDのジャケットを持ってきて説明してくれた。


「サニー・ボーイ・ウイリアムスンというアーティストです。ハープの演奏が素晴らしいでしょう。きっと彼にとっては、僕らの声と同じくらい、いや、それ以上に饒舌にブルースハープを吹くんですね」とマスターは嬉しそうに言って、ボリュームを上げてくれた。これがブルースってやつか。確かに凄い。僕は耳だけでなく肌でそう感じた。歌われている内容はわからないけれど、僕の心に響き、鳥肌が立った。


「気に入りましたか? お貸ししますよ」とマスターは簡単に言うので、僕は少し考えてしまった。全く商売気がない店だ。だけど、少し濃いめのコーヒーは確かに美味しいし、音楽も本当に好きになれそうだったので、「お言葉に甘えます」と遠慮なく言って、貸してもらうことにした。マスターはランダムに曲を流すのをやめて、そのアルバムを最初から再生してくれたので、そのアルバムを聴き終えるまで、僕はずっとこの店にいた。別にマスターは厄介がるだけでもなく、むしろマスターが流した音楽に僕が興味を持ったことを嬉しく思ってくれているようだった。アルバムを聴き終えると、僕は興奮して「今すぐにハープを買いに行きたいくらいです」と言うと、マスターはニコニコと笑ってくれた。


「では、そろそろお会計を。お幾らですか?」と僕が立ち上がって聞くと、「お幾らにしますか?」とマスターが反対に聞いてくる。僕は考えてしまった。意味が分からなかったのだ。その時、奥に座っていた青年も立ち上がった。きっとこの青年はここの常連さんなのだろう、「今日はお金がないので、すみませんが四百円で」とマスターに言って、会計を済ませた。帰り際に、「僕はエスプレッソ以外は出してもらったことないよ」と小さな声でボソっと言って、店を出ていった。


 マスターが言うには、お客さんが店のサービスに対して払ってもいいという言い値でやっているとのことだった。店に入った時には気づかなかったけれど、確かに値段を示したものが一切なかった。この店ではお客さんを見てコーヒーの濃さやブレンド具合を決めるそうだ。それは店側のわがままだから、客の言い値にすることに決めたらしい。コーヒーもパンも音楽も全て、マスターの趣味で始めたみたいなものだから、それで喜んでくれればいいのだと。そもそも僕は喫茶店自体が初めてで、コーヒーの相場が分からなかったので、取り合えず五百円を支払い、「これ、ありがとうございます。また来ます」とマスターにCDのお礼を言って店をあとにした。それにしても不思議な喫茶店だ。大体、あれで商売になるのだろうか。そうブツブツ言いながら僕は大学に向かった。しばらく歩いていると、先程の青年が僕の前をゆっくりと歩いていた。濃いめのジーンズにシンプルなカーキ色のTシャツとアディダスのスニーカー。紺の薄手の上着を手に持っている。青年の歩くスピードがヤケに遅いため、最初は彼の歩調に合わせて僕がスピードを緩めて歩いていた。しかし、それも待っていられなくなり、結果的に僕はその青年と並んで歩くような形になって、僕が沈黙に耐えきれなくなって話しかけてしまった。


「不思議な喫茶店だね」


「ん? まあね。大学からは随分離れているから、僕一人だけの秘密基地だったんだけどね」顔の青白い青年がタバコのヤニで少し黄ばんだ歯を見せる。


「大学?」と僕が不思議に思ってボソッと言うと、「次の講義は?」と顔の青白い青年が僕の質問には答えずに、反対にボソっと聞いてくるのだった。


「倫理学だけど」


「今日のテーマは安楽死。まあ、そう言うことだよ」と青年が言う。僕は少し考える。なるほど、僕と同じ講義を受けているってことか。少し回りくどい言い方だったし、ボソボソと小さな声で話すので、僕はその言葉を理解するのに少し時間がかかってしまったが、どうやら僕らは同じ大学で、同じ講義を受けているようだった。だから僕と顔の青白い青年は、結果的に並んで歩くことになってしまったのだけれど、僕も、顔の青白い青年も、お互いにそれ以上の会話はしなかった。僕は少し居心地が悪く感じた。だけど、顔の青白い青年はあまり気にならないらしい。


 もう一人の親友は、アキというショートカットがとても似合う細身のしなやかな女性で、家庭環境で苦労している分、精神的には一番落ち着いていた。アキの父親が原因不明の頭の病気だと分かったのは、僕らが大学一年の六月のことで、入学して間もなくのことだった。余命ははっきりとは分からない。だけど、分からないことが多すぎる病気で、長くはないだろうと言われていたらしい。聞いた話だと、母親を早くに亡くしていたため、人生の半分以上、父親一人に育てられていたとのことだった。アキは優しい父親のおかげで何の不自由もなく暮らしていたし、すべての愛情を自分に注いでくれていたから、父親のことが大好きで、感謝もしてもしきれないくらいだと言う。だけど、その命が消えてしまう。その事実を医者から告知された時の彼女のショックは計り知れないものだったのだろう。大切な、たった一人の肉親を失ってしまうのだから。


 アキを初めて見たのは、ピエロと出会ってからそんなに時間は経ってない頃だったと思う。僕はあの喫茶店で、少し濃いめのコーヒーを飲んだ後、散歩に出かけた時だった。県道を挟んで少し細い道を歩いていくと、大きな総合病院があり、それに隣接してヨーロッパの雰囲気と言ったら良いのだろうか、風車のある公園がある。木漏れ日に囲まれた芝生の外周には整備された散歩道があり、所々にベンチが設置されていた。僕が陽に焼けてペンキが剥がれているベンチに座っていた時、車椅子に乗った初老の男性と付き添っている女性が木漏れ日の中に現れた。僕がその女性から感じ取ったのは、爽やかで慈愛に満ちた生命感だった。付き添いの女性は車椅子に乗った初老の男に、穏やかな表情で何かを話しかけている。その間、初老の男は表情を変えることなく話を聞いていたのか、あるいは聞いていなかったのかは判らなかったけれど、帰り際に初老の男は少し笑ったので、なんとなく僕はホッとしてしまった。きっと悪い関係ではないのだろう。そう思えたからだ。それは本当に短い時間だったけれど、その光景が僕の目に焼き付いて離れなかった。僕はその女性から、自分には足りない、優しい温もりを帯びた生命感みたいな何かを感じとっていた。その後も僕は何度か同じような光景を見かけていた。


 後から聞いた話だが、アキは講義の合間や放課後には、必ず父親が入院している病院へお見舞いに出かけていたらしい。そんな生活の中で毎日歩いて見ている景色は、本当は少しずつ姿を変えているはずなのに、毎日だとその変化に気づかない。そのくせ、いつの間にか突然、季節が変わっていると感じる瞬間がある。アキはそんな季節の移り変わりを、自分の父親の病状と重ね合わせて考えていたのかもしれない。病気の毒は一日も休まずに身体中を駆け巡り、父親の身体を蝕んでゆく。気付いたら、父親の腕は本当に細くなっていて、かけていた腕時計は、もう肘の関節まで落ちるようになっていた。アキは、父親に申し訳ない、そう思ったそうだ。気づいてあげられなかった。痩せたなって思っても、そこまでとは気付かなかった。アキはそんな自分に我慢できなかったらしい。他に家族も親戚も近くにはいなかったため、アキが一人でパジャマを着替えさせたり、寝ている体勢を変えたりと、献身的な看病を何ヶ月か続けていた。


 公園で見かけたその女性と初めて話したのは、意外にも大学の図書館で、僕がレポートを書いていた時だった。


「あの、すみません、哲学の授業で一緒の方ですよね。それは哲学のレポートですか? 私、全然書けなくて。ソクラテスとプラトンのことなんて全く知らないし、そもそもマルクスの経済と哲学の区別もできないくらいなんです。あの講義には友達が少ないし、ほとんど出席してなかったから、もう全然ダメで。全く話したことのない方に頼むのもどうかと思いますが、もう単位が危ないみたいなんです。できたら、そのノート、貸してくれませんか?」そんなふうに、風車のある公園で見かけていた女性が話しかけてきたのだ。


「看病で忙しいから、講義に出席できなかった?」僕がノートを閉じてそう聞くと、アキは驚いている様子だった。僕は席を立ち上がる。


「いいですよ。僕もちょうどレポートを書き終えたところだし」僕はそう言ってノートをその女性に貸した。


「本当ですか? ありがとう。かわりにと言ってはなんですが、この本、人質として渡しておきます。それ、とても大切な本なの。今度の月曜日のこの時間に、このノートと引き換えに、またここにきますね」そう言って、ヘルマン・ヘッセの知と愛という本を僕に貸してくれた。公園で見かけていた時の印象とは少し違った印象だった。意外とサバサバしているのかもしれない。だけど、僕がノートを貸した時に見せてくれた笑顔は、やはり太陽のような生命感に満ち溢れていた。


 次の月曜日、僕は約束どおりに図書館に行き、あの公園で見かけた女性にノートを返してもらった。「その本、なかなか面白かったよ」と僕が言うと、「私、この本読んだことがないの。読もうと思ったんだけどね、難しくて」とその女性は言うのだった。その時、階段の方から、見覚えのある青年が僕らの方に向かって歩いてきた。あの喫茶店にいた青年だった。


「また会ったね」と顔の青白い青年は言った。


「僕はピエロって呼ばれてる。で、こっちはアキ。君は?」


「マコト」


「マコト君、よろしく」と、アキは笑顔で言った。なんでも、僕が借りていた本はアキのものではなくて、本当はピエロのものだったらしい。僕はそれを聞いて、思わず笑ってしまった。借り物の本ならば確かに大切に扱わなくてならない。


「次の講義まではまだまだ時間があるから、あの喫茶店にでも行こうよ」とピエロが笑って言う。


「そうだね、少し濃いめのコーヒーでも飲もうか」と僕は答えた。


 すると今度はアキがそれに賛同する。アキはもともと病院にも寄るつもりだったみたいだ。


 僕らは喫茶店に行く途中、少し木々の湿った匂いのする木漏れ日の散策道を通って歩いた。散策道は淡い色のレンガが敷き詰められている。アキは昨晩の雨でできた小さな水溜りを、ちょこんと飛び越えた。


「私、この道が好きなんだ」アキは独り言のようにそう言うのだった。父親の病院へ続く道でもある。アキは少し疲れた顔をしていたけれど、それでも笑顔を絶やさなかった。


 僕らは一体、幾つの足跡をこの道に残してきたのだろう。淡い色をしたレンガ造りの散策道と、街路樹からこぼれ落ちている木漏れ日は、僕らの世界に続いているトンネルみたいなものだった。僕らは出会ってから色々な話をした。同じ夢を志しているわけでもないし、同じ現実を見ていたわけでもない。だけど一緒にいるだけで楽しくて、僕はいつの間にか二人の感性に感化されていた。それは閉鎖的な世界だったかもしれない。僕らは周りのどの色にも染まらなかった。それはまるでアキの描くデッサンのように。そしてピエロが話す、その独特な言い回しのように。それは他の色を持たない、彼らだけの色だった。それが良いか悪いかは問題じゃなかった。ただそんな二人の持つ雰囲気が魅力的だったから、僕は友達になりたいと思ったのだろう。


 僕らは同じ空間を共有しているだけで良かった。同じ場所にいるだけで、お互いに繋がっているように思えたのだ。何かを期待していたわけではない。ただ一緒にいるだけで、いつの間にか一日が終わっている。そんなふうに毎日が過ぎていった。


 その年の十月、少し寒くなった昼下がりに、アキの携帯がカバンの中で震えた。それは病院からの連絡だった。瞬く間にアキの声が小さくなり、顔が歪んでいく。僕らはその様子を見て、アキの父親に何かがあったのだろうと容易に推測できた。しかし、事態は予想以上に深刻だった。アキの父親が亡くなってしまったのだ。今まではアキも気丈に振る舞っていたが、今日ばかりは泣きじゃくった顔を隠そうとはしなかった。アキにかける言葉が見つからない。だって、そうじゃないか。計り知れない悲しみは誰にも共有することはできないのだから。アキの悲しみは、この公園のベンチを通りすぎて、空を覆いつくした。僕とピエロは、泣いているアキの姿を見ていることしかできなかった。アキを慰めることができるのは、時間だけなのかもしれない。そう思うと、僕は悔しくて仕方がなかった。ピエロは僕に言う。無機質に、ただ一定の時間を刻む時間は、優しくもあり、非情でもあると。ピエロならではの言葉だと思った。


 雨がそっと降り出す。まるでアキのことを慰めるように。そしてアキの父親が亡くなってしまったことを悲しんでいるかのように。

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