凍てつく世界の三六五日目

@orangeore2025

第1話



第一章 新月の暦


 頬を刺すような冷気に、男は意識を浮上させた。

 視界を埋め尽くすのは、見渡す限りの白銀の世界だ。空は抜けるような青だが、太陽の光に温かみはない。男は雪の上に倒れていた自身の体を、きしむ関節をなだめながらゆっくりと起こした。


「ここは……どこだ。俺は、さっきまで東京の雑踏にいたはずなのに」


 吐き出した吐息が真っ白に凍り、風に流れていく。

 男の記憶は曖昧だったが、一つだけ確かなことがあった。今日は一月二日。正月の賑わいから逃れるように街を歩いていたはずだ。ふと手元を見ると、革製の手帳が落ちている。それを開き、彼は息を呑んだ。日付は間違いなく一月二日を示しているが、その下には見たこともない奇妙な文字で「極寒の月、星祭の夜」と記されていた。


 周囲には、現実の世界ではあり得ないほど巨大な結晶の花が咲き誇っている。

 それらは風に揺れるたび、チリンと硬質な音を立てた。ここは地球ではない。異世界という言葉が頭をよぎるが、それを否定する術を彼は持たなかった。


 深い雪をかき分け、男は歩き始めた。

 遠くの方に、青白い光を放つ尖塔のようなものが見える。あそこに行けば、何かがわかるかもしれない。寒さで感覚が薄れていく足取りを無理やり動かし、彼は未知の地平へと一歩を踏み出した。



第二章 結晶の街の魔導師


 尖塔の麓に広がるのは、氷を削り出して作ったような幻想的な街並みだった。

 行き交う人々は皆、厚手の毛皮を纏い、背中には透明な翼の形をした装飾品をつけている。男が街に入ると、住人たちは一様に驚きの表情を浮かべて彼を見つめた。


「珍しいな。門が開いていないはずのこの日に、異邦人が現れるとは」


 背後からかけられた声に、男は肩を震わせて振り返った。

 そこに立っていたのは、長く白い髭を蓄えた老人だった。老人は長い杖を携え、その先端には淡く光る魔石が埋め込まれている。


「一月二日。我々の暦では、異界の扉がもっとも薄くなる日だ。お前さんは、その隙間に落ちたのだろう」


「元の場所に、戻ることはできるんでしょうか」


 老人は深い溜息をつき、空を見上げた。

 彼によれば、この世界「アイズガル」では、冬の盛りである今、大気の魔力が凍りつき、転移の門が閉ざされてしまうのだという。再び門が開くには、ある特定の条件を満たさなければならない。


 老人は男を温かなスープが用意された自宅へと招き入れた。

 暖炉の中で燃える炎は、なぜか青色をしていた。男はその炎を眺めながら、ここでの滞在が長くなることを予感し、覚悟を決めるしかなかった。



第三章 氷の精霊と失われた熱


 翌日、男は老人の手伝いをしながら、この世界の理を学んでいった。

 この世界では、人々が「氷の精霊」と契約を結ぶことで、厳しい寒さを生き抜くための力を得ている。しかし、今年は精霊の機嫌が極端に悪く、街の熱源である「大宝珠」が凍りつき始めているのだという。


「あんた、異世界の人なら、精霊に直接声を届けられるかもしれないわ」


 そう語りかけてきたのは、老人の孫娘である少女・リナだった。

 彼女によれば、異世界の住人はこの世界の精霊にとって「不純物」であり、それゆえに注意を引く存在なのだという。


「私が案内する。街の裏山にある『氷晶の洞窟』に精霊がいるの」


「俺に何ができるかわからないが……放っておくこともできないな」


 男はリナと共に、猛吹雪の中を洞窟へと向かった。

 一月二日の夜が更けるにつれ、冷気はさらにその鋭さを増していく。洞窟の奥深くには、美しくも恐ろしい氷の巨像が鎮座していた。それがこの地を司る精霊だった。


 精霊の周囲は絶対零度の空間となっており、リナですら近づくことができない。

 男は震える体を押さえ、一歩、また一歩と精霊へと近づいていった。彼の手にある手帳が、なぜか黄金色の光を放ち始めていた。



第四章 一月二日の奇跡


 精霊の前に立った男は、無意識のうちに手帳に記された「今日の日付」を指でなぞった。

 すると、手帳から溢れ出した温かな光が精霊の体を包み込んだ。それは、男が元の世界で過ごしてきた、ささやかで温かな新年の記憶だった。


「これは……雑踏の熱気、家族の笑い声……」


 精霊の凍てついた心が、異世界の「日常」という熱に触れて溶け出していく。

 精霊は静かに目を開け、男に向かって柔らかな微笑みを向けた。氷の巨像は崩れ去り、中から小さな光の粒が空へと舞い上がった。


「ありがとう、異邦の人よ。あなたの世界の『新しい始まり』を祝う心が、私の氷を溶かしてくれた」


 街の方角を見ると、凍りついていた大宝珠が再び赤々と輝きを取り戻していた。

 リナが歓喜の声を上げて駆け寄ってくる。男も安堵の息を漏らしたが、同時に視界が白く霞み始めるのを感じた。


「どうやら、お別れの時間のようね」


 リナの寂しげな声が遠ざかっていく。

 精霊が力を取り戻したことで、一時的に開いた次元の裂け目が、男を元の場所へと引き戻そうとしていた。



第五章 雪解けの朝に


 次に目を覚ました時、男は見慣れた公園のベンチに座っていた。

 時刻は一月二日の夕暮れ時。周囲には初売りに向かう人々や、初詣帰りの家族連れが賑やかに通り過ぎていく。


「夢……だったのか?」


 男はポケットを探った。そこには、あの革製の手帳が入っている。

 ページをめくると、一月二日の欄には、自分が書いた覚えのない文字で「友情と感謝を込めて」と、見知らぬ言語で、しかし不思議と意味の通じる言葉が記されていた。


 空を見上げると、一粒の雪が舞い落ちてきた。

 それは、あの世界で見た結晶の花によく似た形をしていた。男はふと微笑み、手帳を大切に懐に収めた。


 世界は再び、日常へと戻っていく。

 しかし男の心の中には、あの極寒の地で分かち合った温かな熱が、消えることなく残り続けていた。


 彼は立ち上がり、新年の賑わいの中へと一歩を踏み出した。

 新しい一年の、本当の始まりを祝いながら。


(了)

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