第16話 30分の夜
「――こんばんは、No.aです」
ヘッドフォン越しに返ってくる自分の声は、いつくなになく落ち着いていた。
深夜の静寂に溶け込むような、低めのトーン。
焦りはない。時計を気にして早口になる必要もない。
なぜなら、今夜から俺には『30分』という、これまでの倍の時間が与えられているからだ。
「……気づいた方もいるかもしれませんけど、今日から放送時間が少し延びました。15分から30分へ、倍増です」
俺はモニターの向こう側にいる、顔の見えないリスナーたちへ語りかける。
数字としては見えないが、確かにそこにいる「誰か」に向けて。
「これも、いつも聴いてくれている皆さんのおかげです。本当に、ありがとう」
素直な感謝の言葉が口をついて出た。
俺の声が、どこかの誰かの夜に寄り添えているのなら、それは素敵なことだ。
たとえそれが、異世界という突拍子もない場所であったとしても。
「時間ができた分、これからはもう少しゆっくり曲を紹介したり、雑談したりできそうです。……まあ、俺の話なんて聴いてても眠くなるだけでしょうけど」
軽く自虐を挟みつつ、俺は手元のマグカップに口をつけた。
冷えた麦茶が喉を潤す。
これまでの15分枠では、この「水を飲む」という動作さえも惜しかった。
カップラーメンが出来上がるまでの短い暇つぶしのような配信から、ゆったりと腰を据えて語らう「深夜ラジオ」へ。
その変化が、俺の心を解き放っていた。
「というわけで、今日は30分拡大版の初回です。いつもより少し多めに曲を流そうと思います」
俺はプレイリストを開き、今日のために選んでおいた曲を確認した。
今日のテーマは『夜に浸る』だ。
外は晴れているが、心の中では静かな雨音を聴いていたい気分だった。
「一曲目。俺が最近、一番リピートしている曲です。……失恋の曲なんですけど、惨めさよりも、どこか温かい諦めみたいなものが漂っていて、すごく好きなんです」
マウスを操作し、再生ボタンを押す。
繊細なピアノのアルペジオが、静寂を満たすように流れ出した。
男性ボーカルの、低く、掠れたような歌声が重なる。
俺はフェーダーを操作して、BGMの音量とマイクのバランスを調整した。
曲の盛り上がりに合わせて、少しずつ言葉を乗せていく。
「このイントロのピアノ、雨粒みたいでいいですよね。……歌詞の中に『忘れたくない痛み』ってフレーズがあるんですけど、そこがすごくリアルで」
今までなら、終わりを気にして早口になっていた解説も、今日はたっぷりと間を使って話せる。
曲の世界観を壊さないように、声を潜め、語りかけるように。
一番のAメロが終わり、Bメロへと差し掛かる。
楽曲が徐々に熱を帯び、ドラマチックに展開していく。
俺はマイクのミュートボタンに指をかけようとした。
けれど。
指先がボタンに触れる直前、ふと動きが止まった。
(……このまま、いってみるか)
魔が差した、と言えばそれまでだ。
今日の俺は、友人に歌を褒められたことで、少しだけ自分に自信を持っていた。 「埋もれさせていいレベルじゃない」という言葉が、背中を押す。
それに、この曲は俺の十八番だ。歌詞もメロディも、身体に染み付いている。
――聴いてほしい。
言葉にするほど明確な欲求ではなかったが、心の奥底で燻っていた小さな火種が、パチリと爆ぜた気がした。
俺はミュートボタンから指を離した。
ヘッドフォンの中では、サビへ向かうストリングスの旋律が高まっていく。
俺はその波に、自分の呼吸を合わせた。
「――♪~」
歌詞をはっきりと発音して歌い上げるわけではない。
あくまで曲紹介の延長。
BGMの一部として溶け込むような、ハミングに近い歌唱。
けれど、マイクは高性能だ。
喉の奥で震える微細な振動、息遣い、そしてメロディに乗せた感情の揺らぎを、余さず拾い上げていく。
サビの美しい旋律を、ボーカルの歌声に重ねるように口ずさむ。
自分の声が、好きな楽曲と混ざり合い、一つのハーモニーとなってヘッドフォンの中で響く感覚。
それは、想像していたよりもずっと心地よかった。
目を閉じる。
どこか広い夜空の下で歌っているような錯覚に陥る。
上手く歌おうとか、技術を見せつけようとか、そんな邪念はない。
ただ、この曲が好きだという気持ちと、今夜の気分の良さを、音に乗せて吐き出すだけ。
ワンフレーズ。ツーフレーズ。
サビの終わりまで、およそ二十秒ほどの短い時間。
最後のロングトーンが静かに消えていくのと同時に、俺も口を閉じた。
一瞬の静寂。
その余韻が、たまらなく甘美だった。
「……うん、やっぱりいい曲だ」
自然と声が出た。
無理に作った声ではなく、素の、感嘆の混じった声だった。
「サビのメロディ、最高でしょ? ……つい、口ずさんじゃいました」
少し照れくさくなって、俺は鼻の頭をこすった。
画面の向こうのリスナーがどう思ったかは分からない。
けれど、少なくとも俺自身は、とても満たされた気分だった。
やってしまった。
けれど、後悔はない。むしろ、胸のつかえが取れたような清々しさがあった。
「たまにはこういうのも、ライブ感があっていいですよね?」
誰にともなく同意を求める。
当然、返事はない。
けれど、モニターに映る波形が、なんとなく肯定するように揺れているように見えた。
その後も、俺は30分という拡張された枠をフルに使って配信を続けた。
二曲目、三曲目と流し、合間に大学での些細な出来事や、最近読んだ小説の話などを挟む。
15分時代には削ぎ落としていた「無駄話」が、今は楽しい。
間延びすることを恐れず、沈黙さえも共有するような、ゆったりとした時間。
それはまさに、「深夜のラジオ」の空気感そのものだった。
「……さて、そろそろお別れの時間です」
右上のタイマーが残り一分を切った。
楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、30分という長尺も、終わってみれば一瞬のように感じられた。
「今日は最後まで付き合ってくれて、ありがとうございました。時間が延びて、俺も随分と喋りすぎちゃった気がします」
俺は苦笑しながら、クロージングのBGM――静かなオルゴールの音色――を流す。
「来週もまた、この時間に会いましょう。リクエストがあれば、心の中で念じておいてください。」
冗談めかして言い添え、俺は『ON AIR』ボタンにカーソルを合わせた。
「それじゃ、風邪ひかないように。おやすみなさい。No.aでした」
クリック。
配信終了。
画面に『DISCONNECTED』の文字が表示され、完全な静寂が戻った。
プツン、と糸が切れたように、俺は椅子の背もたれに深く沈み込んだ。
「ふぅーーーー……」
長く、深い溜息。
それは疲労からくるものではなく、全力を出し切った後の心地よい脱力感だった。
ヘッドフォンを外し、首にかける。
耳が熱い。喉の奥に、歌った時の振動がまだ微かに残っている。
「……楽しかったな」
独り言が漏れる。
誰に評価されるでもなく、点数をつけられるでもなく。
ただ好きなように喋り、好きなように歌った30分間。
プロの道は閉ざされたけれど、こういう形で「表現」を続けることはできる。
その確信が、俺の心を軽くしていた。
俺は満足げにPCの電源を落とし、立ち上がった。
自室の空気が少し冷たく感じる。
伸びをしながら、俺は布団へと向かった。
俺は知らない。
俺が気まぐれに口ずさんだあの「鼻歌」が、モニターの向こう側に広がる異世界で、どれほどの衝撃を巻き起こしているかを。
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