第14話 歌う楽しさと、新たな思いつき

四限目の講義が終わるチャイムが鳴ると、大教室の空気は一気に弛緩した。  

教授がマイクを置くのと同時に、学生たちが一斉に私語を始め、教科書を閉じる乾いた音が重なる。  

俺は、凝り固まった肩をほぐすように大きく伸びをした。  

窓の外を見れば、キャンパスの銀杏並木が西日に照らされ、黄金色に輝いている。  

穏やかな夕暮れだ。  

先週の配信で、感極まって鼻をすする音を垂れ流してしまったことなど、この世界の誰も知らない。

その事実は、一週間経った今でも俺に少しの羞恥心と、それ以上の安堵を与えていた。


「おーい! のあ、待てって!」


階段教室を降りようとした背中に、よく通る声がぶつけられた。  

振り返ると、人をかき分けるようにして二人の男子学生が近づいてくる。  

サークル仲間の健太と洋介だ。

健太はラグビー部出身のようなガタイの良さがあり、洋介はひょろりとして眼鏡をかけている。

見た目は正反対だが、不思議と波長が合う連中だった。


「お前、講義終わったら即行で帰ろうとすんなよ。付き合い悪いなぁ」

「別に悪くはないだろ。今日は特に用事もないし、帰って店の手伝いでもしようかと思ってただけだ」

「そこだよ、そこ!」


健太がずいっと顔を近づけてくる。


「グループLINE見たぞ。お前、実家継ぐってマジなのかよ?」

「……ああ、その話か」


俺は苦笑してトートバッグを持ち直した。  

サークルのグループチャットで、進路についての報告をしたのは今朝のことだ。  

『音楽の道は諦めて、実家の雑貨屋を継ぐことにしました』  

その一行を送るのには随分と勇気が要ったが、送信ボタンを押してしまえば、意外なほど胸のつかえが取れたような気がしていた。


「マジだよ。親父ともちゃんと話して決めたんだ。もう迷いはないよ」

「うわー、マジかー……」


洋介が心底残念そうに天を仰いだ。


「のあなら絶対、そっちの業界に行くと思ってたのになあ。もったいないオバケが出るぞ、マジで」

「世の中そんなに甘くないって。俺より上手い奴なんて山ほどいるし、食っていける保証もないしな」


俺が明るく、さっぱりとした口調で返すと、二人は顔を見合わせた。  

そこには、無理をしている様子も、未練がましく強がっている様子もない。

本当に憑き物が落ちたような、清々しい笑顔があったからだろう。


一瞬の沈黙の後、健太がバシッと俺の背中を叩いた。


「痛っ」

「よし、決まりだ! 拉致するぞ!」

「は? どこに」

「カラオケに決まってんだろ! お前の『一般人転向記念』だ。今日は喉が枯れるまで歌うぞ!」

「主役は拒否権なしな。ほら、行くぞ行くぞ」


両脇を抱えられ、俺は為す術もなく連行された。  

その強引さが、今は心地よかった。


          ◇


大学近くの商店街にある、学生御用達のカラオケボックス。  

通されたのは、三人が入れば丁度いい広さの個室だった。  

ソファに荷物を放り投げると、三人はすぐにドリンクバーへ走り、戻ってくるなりデンモクの取り合いを始めた。


「まずは俺から行くぞ! 盛り上げていこうぜ!」


健太がトップバッターとして選んだのは、最近流行りのアニメの主題歌だった。  

アップテンポで激しいロックチューンだ。  

マイクを握りしめた健太が、イントロから絶叫に近い声量で歌い出す。

音程はあやふやだが、パッションだけは誰にも負けないという勢いだ。


「うおおおおお! 明日なんて来なきゃいいのにいいい!」


替え歌交じりの歌詞に、洋介がタンバリンを叩いて爆笑している。  

テーブルの上には、追加注文した山盛りのポテトフライと軟骨の唐揚げ。  

馬鹿馬鹿しくて、騒がしくて、最高に居心地がいい。


「次、俺な!」


洋介が入れたのは、一昔前の失恋ソングだった。  

普段は冷静な洋介が、マイクを持つと陶酔しきった表情で粘っこく歌い上げる姿は、いつ見ても笑いを誘う。  

俺はメロンソーダを飲みながら、二人のリサイタルを楽しんでいた。


プロを目指していた頃は、カラオケに来ても純粋に楽しめないことが多かった。  『喉のコンディションを整えなきゃ』

『今の発声はピッチが甘かった』

『審査員に受ける表現力を身につけなきゃ』  

そんな強迫観念のような思考が常に頭の片隅にあり、音楽は「楽しむもの」から「評価されるための課題」に変わっていた。


でも、今は違う。  

もう、誰かに審査される必要はない。  

ただの大学生として、ただの「歌が好きな男」として、ここにいていいのだ。


「おい、いつまで休憩してんだよ主役!」

健太がマイクを突きつけてきた。


「そろそろ真打登場といこうぜ。のあ、ガツンとかましてくれよ」

「ハードル上げるなよ……」

「いいからいいから。今日は『引退ライブ』なんだからさ」


洋介がニヤニヤしながらデンモクを渡してくる。  

俺は笑いながら画面を操作した。  

履歴には二人が歌ったアニソンやJ-POPが並んでいる。  

何を選ぼうか少し迷ったが、結局、自分が一番好きなミドルテンポのバラードを選んだ。

かつてはオーディションの課題曲として血の滲むような練習をした曲だが、今はただ、好きな曲として歌える。


送信ボタンを押す。  

画面に『転送中』の文字が表示され、部屋の照明が少し落ちた。


イントロのピアノが流れると、それまで馬鹿騒ぎしていた二人が、示し合わせたように静かになった。  

ポテトをつまむ手を止め、姿勢を直す。  

その「聴く態勢」に入られるのが少しこそばゆいが、俺はマイクを軽く握り直した。


息を吸う。  

肺いっぱいに空気が満たされ、それを音に変えて吐き出す。


『――雨上がりの交差点、君の背中を探した』


第一声を発した瞬間、ふわりと体が軽くなったような感覚があった。  

喉の振動が心地よく響き、マイクを通してスピーカーから流れる声が、部屋の空気を優しく震わせる。


迷いのない、伸びやかな発声。  

「上手く歌おう」「技術を見せつけよう」という邪念は一切ない。  

ただ、歌詞の情景を思い浮かべ、メロディの波に乗ることだけに集中する。  

健太や洋介のように叫ぶわけではない。

静かに、けれど確実に、聴き手の心へと浸透していくような歌声。  

サビに向けて徐々に熱を帯びていくボーカルには、プロを目指していた頃のピリピリとした緊張感ではなく、純粋な音楽への愛着が滲んでいた。


視界の端で、洋介が眼鏡の位置を直し、健太が腕組みをして目をつぶっているのが見えた。  

二人が真剣に聴いてくれているのが分かる。  

それが嬉しかった。  

オーディションの審査員のような値踏みする視線ではない。

友として、自分の声を「良い」と感じてくれている温かい空気。


最後のロングトーンを響かせ、フェードアウトしていく伴奏と共に、俺はマイクを下ろした。


一瞬の静寂。  

エアコンの送風音だけが聞こえる数秒間。  

やがて、健太が深いため息をついて、ガシガシと頭をかいた。


「……はぁー。お前さぁ」

「ん?」

「なんかムカつくくらい良かったな。なんなの今の、すげえ入ってきたんだけど」


悔しそうな、でもどこか清々しい顔で健太が言う。  

洋介も大きく頷いた。


「ほんとそれ。今までも上手いとは思ってたけど、今日のが一番良かったわ。肩の力が抜けてるっていうかさ」

「そうか?」

「そうだよ。マジで、なんでこれで辞めるんだよ。今の聴いて『雑貨屋継ぎます』は詐欺だろ」


健太が真顔で食い下がってくる。


「なあ、本当にいいのか? お前のその声、埋もれさせていいレベルじゃねえって」


その言葉は、痛いほど胸に刺さったが、それは心地よい痛みだった。  

自分の才能を、一番身近な友人たちがここまで認めてくれている。

それだけで、俺の承認欲求は十分に満たされていた。


「サンキュ。お前らにそう言ってもらえるだけで、俺は十分だよ」


俺は氷の溶けた薄いメロンソーダを一口飲んで、喉を潤した。


「プロになることだけが、歌を続けることじゃないだろ? こうやってたまに、お前らとバカ話しながら歌えれば、俺にとってはそれが一番楽しいんだよ」


本心だった。  

先週の配信でけじめをつけて、今日こうして友人の前で歌ったことで、確信に変わった。  

俺は、歌うことが好きだ。  

職業にしなくても、有名にならなくても、ただ声を出すことがこんなにも楽しい。


「ちぇっ、欲のない奴だなあ」

「ま、のあがそう言うなら仕方ねえか。その代わり、これからも俺たちのカラオケには強制参加な!」

「ああ、望むところだ」


俺が笑うと、二人もつられて笑った。  

その後は再び馬鹿騒ぎの時間が戻り、アニソンと懐メロの応酬がフリータイム終了のコールまで続いた。


          ◇


店を出ると、外はすっかり日が落ちて、街灯が灯り始めていた。  

駅の改札前で二人と別れ、俺は一人、実家へと続く道を歩く。


喉の奥には、歌い切った後の心地よい疲労感が残っている。  

足取りは羽が生えたように軽かった。  

先週までの、どこか重苦しい気分はもうどこにもない。

心の澱がすべて吐き出され、空っぽになった場所に、新しい風が吹き抜けていくような爽快感。


「あー、スッキリした!」


誰もいない夜道で、思わず声が出た。  

コンビニの袋を提げて歩くサラリーマンとすれ違う。

どこにでもある、ありふれた日常の風景。  

明日からは、自分もこの「ありふれた日常」の一部になって、店番として生きていく。

その未来が、今は少しも怖くなかった。


(やっぱり、歌うのっていいな)


ポケットの中のスマホを握りしめる。  

そういえば、今夜は週に一度の「異世界配信」の日だ。  

先週の放送では、引退のことで頭がいっぱいで、おまけに泣いて終わるという失態を晒してしまった。  

だが、一週間経ってこんなに気分が良いのなら、今日はもっと前向きな配信ができるはずだ。


(今夜の配信、どうしよっかな)


ふと、そんな思いつきが頭をよぎる。  

これまでの配信では、ラジオDJのように既存の曲を紹介して流すだけで、自分の生歌を披露したことは一度もなかった。  

別に隠していたわけでもないし、強いこだわりがあったわけでもない。

ただなんとなく、「そういうスタイルだから」と決めつけていただけだ。


でも、今日のカラオケが純粋に楽しかったことで、ふと思う。  

あそこでなら、鼻歌交じりに歌ってもいいかもしれない。  

もうプロを目指す身ではないのだ。

下手だと思われたって構わないし、気楽にやればいい。


「……今夜は、ちょっとだけ歌ってみるか」


俺は夜空を見上げた。  

先週の暗い雰囲気を払拭するためにも、今日は明るくいこう。  

そんな軽いイタズラ心を抱きながら、俺は足取り軽く実家の勝手口を開けた。

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