第12話 届かない信号(主人公外視点)
警視庁、サイバー犯罪対策課。
窓の外には眠らない巨大都市の夜景が広がっているが、この部屋の空気は淀んでいる。
並んだサーバーの冷却ファンが唸る低い音と、キーボードを叩く乾いた音だけが支配する無機質な空間。
係長の霧島レイコは、冷めたコーヒーを一口啜り、眉間を揉んだ。
「……また、削除」
モニターに映し出されていたのは、違法アップロードされた動画サイトのログだ。
内容は、盗撮された男性の映像。
この世界において、希少種である男性の姿を無許可で公衆の目に晒すことは、重篤な人権侵害であり、懲役刑すらあり得る重犯罪だ。
だが、闇のマーケットでは、そうした「希少なデジタルデータ」が高値で取引され続けている。
「どいつもこいつも……。他人の尊厳をなんだと思っているの」
吐き捨てるように呟く。
レイコは疲れていた。
来る日も来る日も、人間の汚い欲望の掃き溜めを監視し続ける仕事。
正義感で志願した部署だったが、ここにあるのは救いのないイタチごっこだけだ。
心がささくれ立ち、乾いていくのが分かる。
ふと、彼女は監視ツールのアラートに目を留めた。
特定のキーワード検知ではない。
ネットの裏路地とも言える匿名掲示板群で、急速に拡散されている「奇妙な噂」があった。
『【速報】未加工の生声配信を発見』
『合成じゃない。マジで男が生で喋ってる』
『管理区域からの流出か?』
レイコの表情が険しくなる。
またか。どこかの愚か者が、サーバーに侵入し、盗聴データを流しているのか。
あるいは、ハッキングによるプライバシーの漏洩か。
いずれにせよ、放置すれば被害者の男性が特定され、危険に晒される。
「……確認するわ」
彼女はリンクを開いた。
黒い背景に、デフォルトのアイコン。
『No.a』という、飾り気のないチャンネル名。
再生ボタンを押す指には、職業柄、嫌悪と義務感が滲んでいた。
――しかし。
スピーカーから流れてきた声を聴いた瞬間、レイコの指は空中で止まった。
『こんばんは、No.aです。今日は……ちょっと、個人的な話をさせてください』
息を飲む。
それは、盗聴特有のノイズ混じりの音声ではなかった。
ましてや、AIによる合成音声でもない。
湿度を持った、生身の人間の声。
低く、柔らかく、そしてどこまでも透明なテノール。
「……嘘でしょ」
レイコは思わずヘッドセットを両耳に押し当てた。
耳元で囁かれているような錯覚。
汚れたデジタルの海から拾い上げたとは思えないその声は、あまりにも無防備で、そして美しかった。
彼は語り始めた。
大学での友人との会話。周囲が進路を決めていく中での焦燥。
『周りの連中はみんな、ちゃんと未来を見て動いてて……』
「大学……?」
レイコは驚きに目を見開いた。
この国で「大学」に通うことが許されるのは、ごく一部の上流階級の男性だけだ。
高い知性と、選ばれた家柄。
深窓の君とも呼ぶべき高貴な身分の彼が、なぜこんなネットの片隅で、一人語りをしているのか。
だが、続く言葉は、彼女の想像を遥かに超える残酷なものだった。
『俺、夢を追うのはもう辞めます』
彼の声が震える。
『大学を出たら……実家の、この雑貨屋を継いで……ただの店番として、生きていくことに決めました』
レイコは絶句した。
店番。
雑貨屋。
その単語が持つ意味に、戦慄する。
「本気なの……?」
それは、男性を「外界」に晒すということだ。
防弾ガラスも、SPもいない市井の店先。
そこに、これほど美しい声を持つ「大学出の男性」を立たせる?
不特定多数の客の視線に晒され、欲望の対象として消費される場所に?
それは労働ではない。
緩やかな公開処刑であり、最も忌むべきネグレクトだ。
「どうして……。貴方ほどの人が、どうしてそんな選択をさせられるの」
事件として摘発すべき案件かもしれない。
だが、レイコの胸に湧き上がったのは、法的な義憤よりも先に、どうしようもない「痛み」だった。
彼の声には、誰かを責める響きがない。
ただ深く、静かな諦念だけがある。
自分の価値を「凡人」と決めつけ、輝かしい温室から、埃まみれの俗世へと堕ちていくことを、彼自身が受け入れようとしている。
『今日は、そんな俺の……『新しい日常』への門出の曲です』
彼がそう告げると、古いフォークソングのイントロが流れ出した。
彼は歌わなかった。
ただ、曲を流しているだけだ。
けれど、高性能なマイクは、その空間の「空気」を拾っていた。
衣擦れの音。
詰まった呼吸。
そして――押し殺したような、嗚咽。
レイコの視界が、不意に滲んだ。
――聴こえる。
泣いている。
誰もいない部屋で、たった一人、夢の墓標の前で膝を抱えて泣いている青年の姿が、痛いほどに伝わってくる。
流れる曲は、夢破れた若者が、何もない故郷の日常へ帰っていくバラードだった。
『何も掴めなかった手で、帰りの切符を握りしめた』
その歌詞が、レイコ自身の心にも突き刺さる。
彼女もまた、かつては理想を抱いてこの組織に入った。
けれど、現実は汚泥の汲み出し作業の繰り返し。
組織の歯車として感情を殺し、ただ淡々とタスクをこなす日々。
彼の涙は、彼女自身の涙でもあった。
「……泣かないでよ」
レイコは頬を伝う雫を拭おうともせず、モニターを見つめた。
「貴方は……才能がないなんて、言わないで」
こんなにも。
たった数分の独白と、その啜り泣きだけで、見知らぬ他人の心を震わせているのに。
この泥沼のようなネットの海で、彼の存在だけが、奇跡のように純粋だった。
曲が終わり、彼は鼻声で短く別れを告げ、配信は途切れた。
『配信終了』の文字。
元の静寂が戻ったオフィスで、レイコはしばらく動けなかった。
胸の奥が熱い。
ここ数年、忘れていた感情。
守りたい、と思った。
仕事だからではない。法律だからでもない。
ただ、あの綺麗な涙を流す青年を、冷酷な現実の雨から庇ってあげたいという、個人的で強烈な衝動。
「……保護しなきゃ」
レイコは震える指でキーボードを叩いた。
店番なんてさせない。
危険な外界に、彼を放り出させるものか。
誰の目にも触れさせず、誰にも傷つけさせず、私が――。
彼女は捜査用の端末に、彼が口にしたキーワードを打ち込んだ。
『イブキ雑貨店』。
警視庁が持つ膨大なデータベース。
住民基本台帳、法人登記、地図データ。
あらゆるネットワークを駆使し、照会をかける。
エンターキーを叩く。
数秒のロード時間。
レイコは祈るように画面を見つめた。
だが。
無機質なフォントで表示されたのは、非情な結果だった。
『NO DATA FOUND』
『該当施設ハ存在シマセン』
『発信源:特定不能(Unidentified)』
「……え?」
レイコは呆然と呟いた。
再検索をかける。条件を広げる。音声解析からの逆探知を試みる。
しかし、全てが空振りに終わる。
まるで、幽霊を探しているかのように、彼に繋がる物理的な糸口が何一つ掴めない。
「嘘……そんなはずない」
この管理社会で、データが存在しない人間などあり得ない。
彼はどこにいるの?
地図にない村? 隠された地下施設?
それとも――私が聞いたのは、幻だったの?
レイコは椅子に深く沈み込み、天井を仰いだ。
無力感が襲う。
けれど、耳の奥には、まだ彼の泣き声が焼き付いている。
幻なんかじゃない。
今もどこかで、彼は孤独に震えているはずだ。
レイコはゆっくりと身体を起こした。
涙を手の甲で乱暴に拭い去る。
その瞳には、先刻までの疲れ切った色はなく、刑事としての、そして一人の女性としての、静かだが熱い光が宿っていた。
「上等じゃない」
データがないなら、足で探す。
ネットの海にいないなら、現実の世界を虱潰しにしてでも見つけ出す。
「諦めないわよ」
彼女は真っ黒になったモニターの向こう側、見えない彼に向かって誓った。
「待ってて。貴方が世界のどこに隠れていようと……私が必ず見つけ出してあげるから」
深夜の警視庁。
たった一人、誰にも知られることなく始まったその追跡劇は、やがて組織全体を巻き込む大きなうねりとなっていくことを、彼女はまだ知らない。
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