喫茶「のどか」にようこそ

ゆきまる書房

第1話 思い出のエッグトースト

「お前といると疲れるんだよ」

 三年間付き合った彼氏に大晦日、そう言われてフラれた。一人で年を越したのも束の間、世間は正月休みの真っ只中、私は通勤電車に乗っている。平日に比べて人が少ない電車内、席はあちこち空いているのに、座ったらもう立てない気がして、私は吊革に掴まっている。

 ──「お前といると疲れる」。彼氏に最後に言われた一言が、頭の中をぐるぐる巡っている。私より多忙だった彼氏の支えになれたら、そう思って私なりに彼氏をサポートしてきたつもりだった。なのに、年越しそばを作っている時、彼氏からかかってきた電話の内容は別れ話。理由は「疲れるから」。めんどくさそうな声の彼氏に何も言えず、そのまま突っ立っていたせいでせっかくの年越しそばは少し煮立ってしまった。

「……邪魔だったんだろうな」

 心の声が口から出てしまった。別れを告げられる前のクリスマス、「仕事だから会えない」と言っていた彼氏が知らない女の子と楽しそうに街中を歩いていたところを見たもの。その時に悟っていた。私たちはもう終わりなんだって。だけど、いざそれが現実に起こると、心にぽっかり穴が空いたような虚しさで頭がいっぱいで。それを忘れるために、年始早々の上司からのヘルプにすぐ応えた。少しの間だけでも、この虚しさから逃げられるように。

 電車のアナウンスが最寄り駅を告げる。吊革をぐっと握り締め、目の前の窓に映る生気のない自分の顔を見て、ちょっと笑った。


 結局、ヘルプに行ったもののすぐに片付き、「休日なのに申し訳ない」と何度も謝る上司に「そんなことないですよ」と答え、私は会社を出た。時刻はまだ昼過ぎ。なんとなく電車に乗りたくなかった私は、運動も兼ねて歩いて帰ることにした。

 街中を歩いていると、やはり年始はどこも閉まっていて、ほとんどの店はシャッターが下りている。どこか休める場所があればいいけど、チェーン店以外は特にない。離れた先にバーガーチェーンの看板が見えたので、そこでお昼を食べようとした時、何の気なしに左に目を向けると、「Open」と書かれた札がかけられた扉が見えた。

 思わず立ち止まって、その扉の周りを見回す。木目調の扉に鈍色のドアノブがついている。その隣にある窓はステンドグラスのようで、赤、青、緑の鮮やかな色が太陽の光を浴びてキラキラと静かに輝いている。窓の下には小さな花壇があり、赤、ピンク、白のシクラメンが咲いていた。木造に見えるお店の全景を見て、自然と私はドアノブを握っていた。

「いらっしゃいませー!」

 カランカランという鈴の音と共に店に入った私を、明るい女性の声が出迎えた。カウンターに立っていた女性は私を見ると、「空いている席にどうぞ」とにっこりと笑った。キョロキョロと周りを見渡した私は、先ほどの窓の席に座る。店内は聞き取れるか微妙な音量でジャズが流れていた。カウンターの向こうには男の人。水が流れる音が聞こえるから、洗い物か下ごしらえをしているのか。

「こちらお水です」

 すると、先ほどの女性が水の入ったグラスを私の前に置いた。よく見ると、グラスの底に小さく切られたレモンの皮がいくつか沈んでいる。「ご注文はお決まりですか?」と女性に尋ねられ、私は慌てて机の隅に置かれたメニューを手に取った。サンドイッチ、ナポリタン、カレー……。どれも美味しそうだな、と思ったが、あるものを見た私はそれを指でなぞった。

「えっと、エッグトーストを一つ……」

「はーい。お飲み物はどうされます?」

「じゃあ、カフェオレで」

「はーい。少々お待ちくださいね」

 私の言ったメニューをさらさらと紙に書いた女性は、ニコリと微笑んでからカウンターに戻った。女性が「エッグトーストとカフェオレ一つ」とカウンター内の男性に伝えると、男性は小さく頷いて後ろの冷蔵庫を開けた。その様子を見てから、私はメニューにもう一度視線を落とす。エッグトーストという文字とその下の写真を、もう一度指でなぞった。

 エッグペーストが乗ったトーストの写真。子どもの頃、休日の朝に母がよく作ってくれた。ゆで卵を細かく刻んで、マヨネーズと塩コショウで和える。それを焼きたてのトーストにたっぷり乗せて食べるのが、何とも言えない贅沢で。休日のたびに「食べたい」と何度も母にねだった。

 そう言えば、彼氏が家に来た時に一度作ったっけ。「食べ辛いからもう作るなよ」と、嫌そうな顔で彼氏が手を洗ってたから、それからもう作ることはなくなって。彼氏の好みに合わせる料理を作るようになったのはそれからだ。前までは料理が楽しみだったのに、そうなってから少し楽しくなくなった気がする。

「お待たせしました。エッグトーストとカフェオレです」

 ぼんやりと昔のことを思い出していると、女性の声で我に返った。前に並べられるエッグトーストとカフェオレ、その隣に小皿に入ったエッグペースト。女性は嬉しそうに笑いながら、私に耳打ちする。

「今日は年始なので、マスターからのお年玉です。やっぱり、たっぷり卵を乗せてかぶりつくのが美味しいですよね!」

 呆けた顔をする私にエヘヘと笑いかけると、女性はカウンターに戻っていった。一緒に並べられたカトラリーのうち、バターナイフを手に取って、私は小皿に乗せられたエッグペーストをすくった。そのまますでにペーストが乗せられたトーストに重ねて、私は皿にバターナイフを置く。エッグトーストを持つと、私は一瞬躊躇った後、思いきりかぶりついた。

 サクっというトーストの音と共に、口いっぱいにエッグトーストの味が広がった。マヨネーズの酸味と卵のまろやかさ、塩コショウのアクセントとトーストの食感、それはまさしく母の味だった。「こういう時は贅沢にたっぷりと乗せるのがいいのよ」と私と一緒にかぶりつく母と、「そっちの方が美味いもんな」と口の端にペーストをつけて笑う父。同じようにペーストをつけたお互いの顔を見て、大笑いした記憶。咀嚼するうちに視界が滲んできて、いつの間にかポロリと頬を涙が伝った。

「え! あ、あの! 大丈夫ですか?」

 ポロポロと涙をこぼす私を見て、慌てた様子でこちらに駆け寄る女性。「これ! よかったら使ってください!」と差し出された花柄のハンカチを受けとると、私は頬に残った涙をそれで拭った。女性の後ろには、先ほどカウンターにいた男性もいて、二人とも心配そうに私を見ている。涙が落ち着いてきた頃、私は二人を見上げて笑った。

「お騒がせしました、大丈夫です。あまりに美味しくて、つい」

 私がそう言うと、二人はほっとしたような表情になった。途端に得意気な顔をした女性は、「マスターが作るご飯は何でも美味しいですから!」と胸を張る。その様子に思わず噴き出すと、女性の後ろにいた男性が一歩前に出て、ニコリと笑った。

「料理は必ず、思い出と繋がっています。嬉しい記憶も、悲しい記憶も、辛い記憶も、料理と繋がっているんです。この料理が、あなたの素敵な記憶と繋がっていたら、こんなに嬉しいことはありません」

「そうですね。繋がっていたのは、本当に素敵な記憶でした。素敵で、とても大切な記憶でした」

 私たちの笑い声が店内に響く。三年ぶりに、実家に帰ろう。家に帰ったら両親に電話して、「帰ってもいい?」って聞くんだ。そんなことを考えると、ぽっかり空いた心の穴が、少し埋まった気がした。

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