継ぎ接ぎのパッチと、日曜日の嘘 〜不完全な怪物が教えてくれた、完璧じゃなくていい生き方〜

ソコニ

第1話 継ぎ接ぎのパッチと、日曜日の嘘


 湊(みなと)は、地下鉄の窓に映る自分の顔を眺めていた。左右対称に整えられた前髪、一点の曇りもない白いシャツ、そして「有能で悩みなどなさそう」に見える、口角の上がった貼り付けたような笑顔。

 この笑顔を維持するために、毎日どれほどの酸素を消費しているだろう。SNSを開けば、自分よりさらに「完璧」な友人たちが、加工された幸福をこれでもかと投げつけてくる。

「……もう、無理だ」

 逃げるように降りたのは、普段なら絶対に立ち寄らない、古びた問屋街が並ぶ駅だった。

 湿った路地裏をあてもなく歩いていると、一軒の奇妙な店が目に留まる。周囲の無機質なビルから浮き上がった、剥げかけたペンキ塗りの看板。

『不完全な怪物派遣所 ―あなたの欠損、お貸しします―』

 悪趣味な冗談だと思った。だが、店先に置かれた「サンプル」を見た瞬間、湊の足は止まった。

 そこにいたのは、ぬいぐるみと呼ぶにはあまりに不恰好な、等身大の「何か」だった。

 身長は湊の胸元くらいまでしかない。体は、くすんだパステルカラーの布地を無理やり継ぎ合わせたようなパッチワーク。右目は真っ赤なボタン、左目は今にも取れそうな黄色いボタン。口元は左右に大きく歪み、ひきつったような笑みを浮かべている。

 それは、工場で検品に引っかかり、ゴミ捨て場に放り出されるべき「失敗作」そのものだった。

「……汚いな」

 独り言が漏れた。しかし、湊の目はその怪物から離せなかった。

 怪物の胸元には、大きな銀色の安全ピンで、手書きの名札が留められている。

『パッチ:趣味は、人のため息を数えること。特技は、役に立たないこと』

 その時、パッチの首が、ギギッ、と音を立てるような緩慢な動きで湊の方を向いた。

 着ぐるみ特有の無機質な動き。だが、そのボタンの目と視線が合った瞬間、湊は自分が裸にされたような錯覚に陥った。

 パッチは何も言わない。ただ、少しだけ首を傾げた。その動作で、左目のボタンがぶらんと糸で垂れ下がる。

 完璧でなければ愛されない。

 役に立たなければ居場所がない。

 そう信じて、自分を型にはめ込み続けてきた湊の喉の奥から、熱いものがせり上がってきた。

「……君を、借りたい」

 震える声でそう言うと、パッチはゆっくりと、本当にゆっくりと、短くて不格好な手を差し出してきた。

 その手のひらには、いくつもの「継ぎ接ぎ」の跡があった。

 触れてみると、そこには最新のAIデバイスのような冷たさはなく、少しだけ湿り気を帯びた、誰かの「体温」のような微かな暖かさが宿っていた。

「今度の日曜日、僕の部屋に来てくれるかな。……何もしなくていい。ただ、一緒にいてほしいんだ」

 パッチは答えず、ポケットから一冊の古びたノートを取り出した。

 そこには、震えるような、でも優しい筆致でこう書かれていた。

『日曜日は、嘘を休む日ですね。承知しました』

 湊は、その歪な怪物を抱きしめたい衝動を、必死に抑え込んだ。


 契約は簡単だった。週末のみ、六時間。料金は決して安くはなかったが、湊はためらわずに支払った。店主は無表情のまま、一枚の紙を手渡した。

『ご利用規約:(1)キャストへの接触は可。(2)キャストは発声しません。(3)中の人を詮索しないでください。(4)キャラクターの世界観を壊す言動はご遠慮ください』

 中の人を詮索するな。つまり、パッチの皮を被っている「誰か」の素性を知ろうとするな、ということだ。

 それでいい、と湊は思った。自分が求めているのは「人間」ではない。完璧であることを求められない、歪で不恰好な「存在」なのだから。


 日曜日の午後二時。インターホンが鳴った。

 ドアを開けると、そこには駅前で見たのと同じパッチが立っていた。よく見ると、口元の歪んだ笑みの端から、ほつれた糸が一本垂れ下がっている。雨が降っていたのか、布地の一部が濡れて色が濃くなっていた。

「……ようこそ」

 パッチは小さく首を縦に振り、玄関に上がった。少し左足を引きずるような歩き方。完璧に調整されたロボットではなく、どこか「生身」の不器用さが滲み出ている。

 リビングに案内すると、パッチは窓際の床にぺたんと座り込んだ。膝を抱えて、外の景色をぼんやりと眺めている。湊は戸惑った。何をすればいいのか、何を話せばいいのか。

「……コーヒー、飲む?」

 パッチは首を横に振った。それから、また例のノートを取り出して見せる。

『ボクは、あなたが何もしなくていい時間を作るために来ました』

 湊の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

 何もしなくていい。

 その言葉が、どれほど贅沢なのか。会社では常に気を張り、友人の前では楽しそうに振る舞い、家に帰れば明日の「完璧な自分」を準備する。そんな毎日の中で、何もしなくていい時間など、一秒もなかった。

「……じゃあ、本を読んでもいいかな」

 パッチは大きく頷いた。

 湊は本棚から、ずっと読みたかったけれど読む時間がなかった小説を取り出し、パッチの隣に座った。活字を追う。パッチは何も言わない。ただ、時折、湊がページをめくる音に反応して、少しだけ首を傾げる。

 一時間が過ぎた。二時間が過ぎた。

 読んでいるうちに、湊は自然と、ポツリポツリと独り言をこぼすようになっていた。

「……この主人公、馬鹿だよな。もっと賢く立ち回ればいいのに」

 パッチはノートに書く。

『賢く立ち回れたら、物語にならないですね』

 湊は、思わず笑った。本当に、久しぶりに心から笑った気がした。

「そうだね。完璧な人間なんて、面白くないもんな」

 パッチの左目のボタンが、また糸でぶらぶら揺れた。


 それから毎週日曜日、パッチは湊の部屋にやってきた。

 二週目は、一緒にデパ地下で買った惣菜を食べた。パッチは当然、食べられない。だが、湊が「美味しい」と言うたびに、嬉しそうに手を叩いた。

 三週目は、公園で一緒に読書をした。ベンチに並んで座り、湊は本を読み、パッチは鳩を眺めていた。通りすがりの親子連れが、パッチを見て「変な人形」と笑っていた。湊は、なぜか腹が立った。

 四週目。湊は、初めて自分の「弱さ」をパッチに見せた。

「……実はさ、仕事でミスばっかりしてるんだ。みんなは僕のことを『優秀』って言うけど、本当は全然そんなことない。いつバレるかって、毎日ビクビクしてる」

 パッチは、いつものようにノートに書いた。

『ビクビクしながら生きるの、疲れますね』

「……うん。疲れる」

『それでも、毎日会社に行くんですね』

「……行かなきゃ、生きていけないから」

 パッチは、湊の肩にそっと頭を預けてきた。継ぎ接ぎだらけの布地が、湊の頬に触れる。少しだけチクチクするけれど、嫌な感じはしなかった。

『ボクは役に立たないけど、あなたの肩ぐらいは貸せます』

 湊は、その歪な怪物の頭を、優しく撫でた。


 しかし、崩壊は突然やってきた。

 五週目の金曜日。湊は、会社で取り返しのつかないミスをした。顧客に送るべき資料を、誤って社内の人間に送ってしまったのだ。しかもその資料には、機密情報が含まれていた。

 上司から、会議室に呼び出された。

「君は一体、何を考えているんだ! これがどれだけ重大なミスか、分かっているのか!」

 言い訳はできなかった。全て、湊の確認不足だった。

「いつも完璧だと思っていたのに、がっかりだよ」

 その言葉が、湊の胸に深く突き刺さった。

 完璧であることを期待されていた。そして、完璧でなくなった瞬間、自分には何の価値もなくなる。


 その日の夜、湊はアパートに帰り、何も食べずにベッドに倒れ込んだ。明日は土曜日。パッチが来る日だ。でも、今の湊にパッチと向き合う気力はなかった。

 インターホンが鳴った。まだ金曜日の夜なのに。湊は無視しようとしたが、鳴り止まない。仕方なくドアを開けると、そこにはパッチがいた。

「……どうして今日来たの? 明日じゃないか」

 パッチはノートを見せた。

『心配だったので』

 その瞬間、湊の中で何かが切れた。

「心配? 君に何が分かるんだよ!」

 湊は、パッチを部屋に引きずり込み、ドアを乱暴に閉めた。

「君はいいよね。ただ、その不細工な皮を被って、何も考えずにいればいいんだから! 僕はさ、毎日必死で『完璧な自分』を演じて、でも結局、全部ダメなんだよ!」

 パッチは何も言わない。ただ、じっと湊を見つめている。

「中の人だって、どうせこれはただの『仕事』なんだろ? 僕の孤独を、金で買ってるだけじゃないか!」

 湊は、パッチの胸倉を掴んだ。歪んだボタンの目が、揺れる。

「君は……君は本当に、僕のことなんて何も……」

 そこまで言って、湊は気づいた。

 パッチの手が、震えている。

 着ぐるみの隙間から、微かに漏れる呼吸の音。それは、明らかに乱れていた。

 パッチは、ゆっくりと自分の胸元に手を当てた。そこには、いくつもの「継ぎ接ぎ」の跡がある。そして、そのうちの一つ、大きくほつれた部分を、湊の手に触れさせた。

 布地の奥に、確かに誰かの心臓の鼓動がある。速く、速く打っている。

 パッチは、震える手でノートにペンを走らせた。文字が乱れている。

『ボクたちは、壊れているから繋がれるんだよ』

 湊の目から、涙がこぼれた。

『あなたは完璧じゃない。ボクも完璧じゃない。だから、一緒にいられる』

 パッチは、そっと湊を抱きしめた。不格好で、ぎこちない動きで。でも、その腕の中には確かに「温度」があった。

「……ごめん。ごめんなさい」

 湊は、パッチの肩に顔を埋めて泣いた。声を上げて、子供のように泣いた。

 パッチは何も言わずに、ただ湊の背中を優しく叩き続けた。


 それから三週間。湊は、会社で始末書を書き、上司に頭を下げ、同僚に謝罪した。完璧な自分を演じるのをやめて、「ミスをした、でも頑張ります」と、素直に言葉にした。

 不思議なことに、周囲の反応は湊が思っていたほど冷たくなかった。むしろ、「完璧じゃない湊」の方が、人間味があって話しかけやすいと言われた。

 それでも、心の中の傷が完全に癒えたわけではなかった。だからこそ、日曜日のパッチとの時間が、湊にとっての「呼吸」になっていた。


 そして、八週目の日曜日。

 契約最終日がやってきた。

 パッチは、いつものように湊の部屋にやってきた。でも、今日は何か様子が違った。動きが、いつもよりさらにゆっくりしている。

 二人は、窓際に並んで座った。外は小雨が降っている。

 パッチが、ノートを取り出した。

『今日で、お別れです』

 湊は、分かっていた。契約は八週間。延長はできない。それが、このサービスのルールだ。依存を防ぐために。

「……そうだね」

『寂しいですか?』

「うん。すごく」

 パッチは、自分の胸元の「ほつれた糸」を一本、丁寧に引き抜いた。そして、それを小さなハギレに縫い付けて、湊に手渡した。

『これは、ボクの「継ぎ接ぎ」の一部です。あなたが辛くなったとき、これを見てください』

 湊は、そのハギレを握りしめた。

「君は……君の中の人は、次は誰かのところに行くの?」

 パッチは頷いた。

『ボクは、役に立たないことが特技ですから。だから、役に立たないまま、誰かの隣にいます』

「……それって、すごく優しいことだよ」

 パッチは、少しだけ首を傾げた。左目のボタンが、最後にもう一度、ゆらりと揺れた。

『あなたも、もう無理に完璧にならなくていいんです。歪んでいても、ほつれていても、それがあなたですから』

 湊は、パッチを抱きしめた。強く、強く。

「ありがとう。君に出会えて、本当に良かった」

 パッチは、湊の背中に手を回した。そして、ノートの最後のページに、こう書いた。

『さようなら。また、どこかで』


 パッチが去った後、部屋は元の静けさに戻った。

 でも、湊の手には、パッチのハギレが残されていた。色あせた布地に、不器用な縫い目。完璧とは程遠い、でもそれゆえに愛おしい「証」。

 月曜日、湊は会社に向かう電車の中で、そのハギレをポケットに忍ばせた。

 上司に怒られるかもしれない。ミスをするかもしれない。でも、もう「完璧な自分」を演じ続ける必要はない。

 駅に着いて、地上に出ると、いつもの喧騒が湊を包んだ。

 ふと、公園のベンチに目をやると、誰かが小さなぬいぐるみを膝に抱えて座っていた。そのぬいぐるみは、よく見るとパッチに似ていた。左右非対称のボタンの目、継ぎ接ぎだらけの体。

 その人は、ぬいぐるみに何かを囁いている。

 湊は、微笑んだ。

 パッチは確かに去っていった。でも、パッチが教えてくれたことは、湊の中に残り続ける。

 完璧じゃなくても、生きていける。

 壊れていても、繋がれる。

 そして、歪んでいるからこそ、美しい。

 湊は、ポケットのハギレをそっと握りしめて、オフィスへと歩き出した。胸の中に、小さな、でも確かな温もりを抱えて。

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