召喚されたら、俺の武器は「逃げ足」だけだった。 〜チートなし陸上選手、少女と二人で絶望世界を生き抜く〜
品川太朗
プロローグ:0.1秒の断絶
プロの作家アシスタントとして、ご提示いただいた導入部を拝読いたしました。
肺が灼けつく。
あと100メートル。
全身の筋肉が、一歩ごとに悲鳴を上げる。
一歩、また一歩とトラックを蹴るたび、太腿の裏に鉛の杭が打ち込まれるような、鈍い激痛が走る。
乳酸だ。
血流に乗ったそれが、もはやエネルギーではなく、全身を苛む「毒」として牙を剥いている。
視界の端が、じりじりと黒く霞んでいく。
耳鳴りが思考を掻き乱し、脳が酸素の欠乏を訴え続けている。
苦しい。
今すぐこの硬いトラックに倒れ込み、すべてを投げ出してしまいたい。
だが、足は止めない。
高槻海斗は、タータン(全天候型トラック)のわずかな反発すら利用し尽くすように、ただひたすらに前方の空間を踏みしめていた。
決勝のスタート(号砲)は完璧だった。
コンマ1秒のフライングも、コンマ1秒の遅れもない、理想的なリアクション。
第1コーナーのライン取りも、遠心力に抗いながら最短距離をトレースした。
バックストレート。予測通りの向かい風。
(フォーム、前傾。空気抵抗、最小化)
脳が、疲労する肉体とは別次元の冷静さで命令を下す。
腕振りのピッチを乱すな。脚への負担を計算通りに分散させろ。
勝負どころの第3コーナー。
ここで、隣のレーンを走っていたライバルの呼吸がわずかに乱れたのを、海斗の耳は捉えていた。
(……来た)
300メートルを前に、奴が失速を始める。
スタート直後から、奴の息遣いは荒すぎた。オーバーペースだ。
(お前のレースは、そこで終わりだ)
もはや敵ではない。海斗の敵は、常に彼自身の内側にいる。
問題は、この身体(にくたい)から発せられる「もうやめろ」という絶望的な信号だ。
乳酸が、筋肉を内側から灼き切ろうとしている。
呼吸が追いつかない。酸素が足りない。
――うるさい。
思考が、肉体の悲鳴を捻じ伏せる。
俺の身体(からだ)のオーナーは、俺じゃない。
俺の『脳(記録)』だ。
この肉体は、コンマ1秒でも速くゴールラインを通過するためだけに存在する、血と骨でできたマシンに過ぎない。
最後の直線。
滲む視界の先に、白線(ゴールライン)が見える。
電光掲示板のタイムが、ぼんやりと赤く光っている。
(いける)
自己ベストを、更新できる。
あと50メートル。
ここでリミッターを外せ。
限界を超えろ。
もはや呼吸(システム)に頼るな。
蓄積したすべてのエネルギーを、この一瞬で「爆発」させろ。
0.1秒を、削り取れ――
その、瞬間だった。
世界が、捩(よじ)れた。
「――え?」
足元の赤いトラックが、粘土のように歪む。
空の青が、観客席の人工芝の緑と、絵の具のように混ざり合う。
重力が消えた。
いや、重力の方向が狂った。上下左右の感覚が、トラックの熱気ごと、どこかへ吸い込まれていく。
汗だくの肌を撫でていた風の感触が、消えた。
何かに掴まれ、引きずり込まれるような、抗いようのない力。
(分析不能。未知の状況。レース、中断――)
意識が、ブラックアウトした。
◇
「――ッ!」
次に海斗の体を襲ったのは、全身を打つ、硬く、冷たい石の感触だった。
灼熱していたはずの筋肉が、急速に冷却されていく。
息を吸い込む。
(匂い)
肺を満たしたのは、埃と、カビ。
そして、焦げた肉とは違う、何か甘ったるいような、それでいて錆びついた鉄のような、異質な匂い。
(血だ)
全身が、汗ではなく、冷たい脂汗で濡れている。
状況分析を開始する。
レースは、終わった。いや、強制終了(リタイア)させられた。
ここはどこだ。
(視覚情報)
(1)目の前に、見たこともない、重く分厚いローブを纏った男女。二人とも床に倒れ伏し、疲弊困憊している。
(2)彼らの消耗の原因は? 足元に、巨大で複雑な紋様。今まさに、その光が、ロウソクが消える寸前のように、明滅しながら失われつつある。
(3)光源は? 壁に嵌め込まれた松明。空気が、薄い。
(4)周囲。完全に石で囲まれた、地下室。
(5)生存者は? 部屋の隅、小さな寝台に少女が一人。恐怖で目を見開いている。
結論。理解不能な状況への「転移」。
400メートル走は、350メートル地点で、何者かによって中断させられた。
「あぁ……成功、したの……? 『鍵』が……」
倒れた母親が、か細い、ほとんど吐息のような声で呟く。
「来たか! 我らが世界の、特異点よ!」
父親が、血の気の失せた顔を、最後の力を振り絞るように上げた。その目が、狂信的な光で海斗を捉える。
特異点? 鍵?
海斗がその非論理的な単語の意味を問い返す暇は、なかった。
ズガァァァンッ!!
凄まじい轟音。
スタートの号砲とは比較にならない、鼓膜を突き破るような爆砕音。
背後の壁が、物理的な法則を無視したように、内側から弾け飛んだ。
爆風と粉塵が室内を吹き荒れる。
海斗は咄嗟に腕で顔を庇う。
(脅威分析)
壁だった場所に、巨大な穴が空いている。
その闇の向こう。空気が陽炎のように揺らめき、その中心に、赤黒い、単一の眼球が光っている。
(敵性体。サイズ、武装、全てが俺の知る生物兵器のカテゴリを「超越」している)
(勝率:ゼロ)
「ぐっ……!」
父親が、残った最後の生命力を振り絞り、海斗と娘(エララ)の間に立ちはだかる。
その手に、淡い光が灯る。魔法か? 非科学的だが、現実に盾のように展開した。
「早く……!」
母親が、床を這いずりながら、砕けた石畳に血の筋を描きながら、海斗に手を伸ばす。
「エララを……! この子を……頼みます……!」
その懇願は、無意味なノイズに過ぎなかった。
次の瞬間、甲高い金属音と共に、赤黒い閃光が迸る。
父親が展開した光の盾は、0.5秒も持たなかった。
ガラスのように砕け散り、閃光は、父親と母親の身体を同時に貫いた。
二人の体が、熱で蒸発するように、一瞬で崩れ落ちる。
あまりにも効率的すぎる「処理」だった。
「お父様、お母様ッ!」
寝台の少女――エララが、喉が張り裂けんばかりに絶叫する。
その甲高い悲鳴すら、海斗の脳には、レース中の雑音と同じだった。
思考は、恐怖や悲しみよりも早く、最適解を弾き出していた。
(敵の次のターゲットは? 室内で生きているのは、俺と少女の二人)
(状況は、レース中の「大事故」。コース上に、暴走した車が突っ込んできたのと同じだ)
(最優先事項は? 「勝利(記録)」ではない。「生存」だ)
(勝利条件は? 敵の殲滅(不可能)。ならば、この場からの「離脱」)
――走れ。
敵が、ターゲットを再設定(リロード)し、次の射撃体勢に入る、コンマ数秒の隙。
海斗は、クラウチングスタートと同じ要領で、弾かれたように動いていた。
泣き叫ぶエララの腕を、荷物を掴むように乱暴に掴み、寝台から引きずり下ろしながら抱え上げる。
「いやっ!」
少女が抵抗するが、構わない。
(デッドウェイト、約30キロ。走行フォーム、崩壊。だが、関係ない)
爆散した壁とは反対側の、かろうじて形を保っている地下室の出口(扉)。
そこへ向かって、全力で、スプリントを開始する。
なぜ、自分がここにいるのか。
あの男女は、誰だったのか。
自分を襲ったものは、何なのか。
分析は、後だ。
今はただ、走れ。
次の更新予定
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