病院船〈スクナ〉 ーー命の最終防衛線
星 剛史
プロローグ 存在しない病院
いつからだろう。
「いい医療をしたい」と、まっすぐ口にできなくなったのは。
病院は赤字だと言われ、医師は足りないと言われ、
医療は数字と説明責任で語られるようになった。
それは、間違ってはいない。どれも現実だ。
でも――
その言葉の隙間で、地方から、静かに、医療が壊れていく。
病院船〈スクナ〉。
そして、AI支援手術システム〈HAKUTO〉。
これは、「それでも医療をやる」と決めた人間たちの物語だ。
――存在しない病院――
海は、残酷なほど静かだった。
白い船体に、朝の光が突き刺さるように反射している。
結城理久(ゆうき・りく)は、展望デッキの手すりに指先を置き、船が生きている証拠――微かな振動を感じていた。
ポケットの中で、携帯が震えた。
「……いよいよですね」
『今日、見せるんだな』
国会議員・久我正隆(くが・まさたか)の声は、受話器越しでも穏やかだった。
「はい。今日、初めて“全員”が揃います。医師、看護師、コメディカル各職種の中から選んだメンバーが」
『説明せずに招集したそうだな。騙し討ちに近いぞ』
「説明したら、誰も来ない。そう思ったんです」
『相変わらずだな。やさしい顔をして、一番怖いことをする』
理久は、慈愛とも決意とも取れる笑みを、わずかに浮かべた。
『分かった。政治の泥は、こちらで被る。君は、やるべきことをやれ』
「ありがとうございます」
通話が切れ、電子音が風に溶けた。
理久は携帯を下ろし、頭上の巨大な艦橋を見上げる。
そこには、これから“共犯者”に仕立て上げる仲間たちの名前が、すでに刻まれていた。
デッキには、波を切り裂く音だけが残っていた。
――招待状――
大学病院の外科。
その一角にある医局で、速水灯(はやみ・あかり)は立ち止まっていた。
外科医であり、救命救急医でもある。その二つを行き来する日々は、もう特別なものではない。
白衣もスクラブも、着慣れていた。細身の体に無駄なく収まり、鏡を見れば「美人ですね」と言われる理由も、分からなくはない。
ただ、本人はそんな評価に、ほとんど興味がなかった。仕事になれば、いたって冷静だ。余計な会話に惑わされることもなく、近づきがたいほどの落ち着きを保っている。
——少なくとも、いつもは。
医局のポストに、見慣れない封筒が差し込まれていた。
差出人は、内閣官房。
「……なに、これ」
最新医療施設の視察の招待状。文面は丁寧だが、驚くほど簡潔だった。
医師として働く日々には、もう慣れている。救急の緊張も、外科の責任も、日常の一部になりつつあった。
だからこそ、こんな手紙に、少しだけ心が浮き立ったのも事実だ。
——最新医療施設。
けれど。
視線が、集合場所の一文に落ちた瞬間、その高揚は、すっと冷えた。
自衛隊基地。
理由の説明はない。施設の名称も、目的も、ほとんど書かれていない。
ただ、日時と、場所だけが、無機質に記されている。
「……視察、だよね?」
誰にともなく呟き、もう一度、招待状を見返す。胸の奥に、言葉にできない違和感が、静かに広がっていた。
――存在しない手術――
病院船〈スクナ〉の中枢。
<HAKUTO operation>と名付けられたその手術室と特別な設備は、大学病院のそれとは、似ても似つかない。
三台の手術台が、等間隔に並んでいる。
それぞれに接続されたロボットアームは、計三十六本。メス、鉗子、吸引、内視鏡——用途ごとに最適化されたアームが、天井と床の両方から静かに待機していた。
中央には、操縦席。壁一面を覆うスクリーンと、半円状のコンソール。
そこは、手術室というより、コクピットに近い。
結城理久は、その中央に立っていた。
「……いよいよ、だね」
返事の代わりに、空中に淡い光が揺れる。次の瞬間、白いホログラムが形を結んだ。
長い耳。丸い目。どこか間の抜けた、兎の姿。
『はい。いよいよです』
〈HAKUTO〉は、にこりと笑った。
『全システム、スタンバイ完了。医師指示下AI主導ロボットアーム手術。三台とも、準備に問題ありません』
その声は軽く、どこか愛嬌がある。だが、背後で静止する三十六本のアームは、微動だにしない。
理久は、兎のホログラムを見つめる。
「今日からだ。医師も、看護師も、コメディカルも——全員、ここに立つ」
『はい。とても、たのしみです!』
制度の外側で、許可のない医療を始める。
病院船<スクナ>と、<HAKUTO operation>は、静かに待っていた。
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